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「う……そだろ」

 祭壇に寝かせられていたのは、クラトの身体だった。白い戦闘服を身につけ、腹の上で手を組み、瞼は堅く閉じられている。呼吸の様子がないので、眠っているのではなく死んでいるのだ。
 思わず走り込み、祭壇の上の自身を覗き込んだ。

「な、ん……こ、これは」
「お前の死体だ」

 近づいてくる靴音が聞こえる。

「アメツネがテロに巻き込まれたお前の遺体を回収した。外傷がないのは、アメツネが死後に修復したからだ」

 カヤナの説明に、確かに剣で胸を刺されて大量に出血していたことを思い出す。そのとき服も血まみれになったのだが、横たわる自分が着ている白い服には何の汚れも見当たらない。
 自分で自分の姿を鏡以外で見るとは――驚きで呆然としながら、クラトは腹の上に置かれた己の手に触れた。しかし今ここで意識を持っている自分にも体温が無いので、死体が冷たいのかどうかはよく分からなかった。
 一体これはどういうことなんだと隣に来たカヤナを見下ろす。

「おれの身体を使ってどうするつもりなんだ?」

 今頃、王立警備隊がクラトの死体を探して躍起になっているだろうことを思えば、アメツネの行為も許しがたい。じわじわと怒りがせり上がってきて、クラトは唸るように問うた。

「もしかして、おれを実験台にするのか?」
「違う」

 すさかずカヤナが答える。

「アメツネは、お前が命を落としたときから、お前を救いたいと思っていたそうだ」

 意味が分からず首をかしげる。クラトの遺体に近づいたカヤナは、その前髪に手を触れ、額を撫でるようにした。今ここに意識のあるバルハラの自分がそうされているわけではないのに、直接身体に触れられている錯覚に陥り、クラトは妙な感覚を覚えた。

「対価と引き替えにな」

 淡々とした言葉に眉をひめそる。

「は? 何を言ってるんだ。対価って……
 何かと引き替えに、死んだおれを蘇生させようっていうのか……」

 己の放った言葉で、彼らが試みようとしていることを改めて自覚し、その瞬間、強い苛立ちが生まれ、声を荒げた。

「あのさ……いいかげんにしてくれよ。おれは死んだんだ、テロに巻き込まれて死んだんだ。死んだ人間は生き返らないんだよ! お前たちは復活だの魔術だので簡単に人の命を扱えるのかもしれないけど、命ってのは本来そんな簡単なものじゃないんだ」

 お前たちはおかしいと、クラトは怒りと落胆を交えて吐き捨てた。命を賭けてタカマハラの王立警備隊に所属し、正義と守護のために剣を握るからこそ、彼らのような生死の境目が曖昧になっている考え方は許しがたかった。

「生き返らせようって気持ちは嬉しいさ、戦争で死んだおれを哀れんでくれてるんだから。でも、これは命への侮辱だよ。他にも戦争で死んだ奴らはたくさんいるんだ」

 しかし二人はまるで聞いていないかのように、クラトの遺体を見つめて押し黙っている。表情を無くした魔術師と戦女神の姿が他人のように思えてきて、むかむかしてこの場から立ち去りたくなった。気味が悪い、この場所も、魔術も、朽ち果てるはずだった自分の遺体がここにあるのも、蘇生などという単語が簡単に出てくる二人の思考も。
 どうしたら二人を説得できるか分からず、クラトは募る苛立ちを長く深い溜息でごまかした。

「……アメツネ。
 あんた、カヤナから人を愛する心を奪ったんだってな」

 怒りがきっかけでその話題が頭によみがえり、クラトは足下の石畳を睨みつけながら低い声で言った。すると、てっきり無反応だと思っていたがアメツネの身動きする気配があり、間を空けず、静かに彼は答えた。

「奪ったのではない。願いを叶えるためには魔力の増幅が必要だった。その対価として頂戴したまでだ」
「どうしてそんな対価にした」

 名を呼んで止めようとするカヤナの声が聞こえてきたが、クラトは無視した。

「どうしてカヤナから人を愛することを対価として奪った」
「カヤナがそう望んだからだ」
「望んだとしても」

 猛烈な憤怒が腹の底から沸き上がった。

「望んだとしても、人間にとって一番大切なことを対価なんかに利用するべきじゃなかった」

 その想いの中にはきっと、対価のせいで愛しい人が自分に振り向いてくれなかったという悔恨もあるだろう。
 だが、それ以上に。

「カヤナは人を愛せなくなったことで苦しんだ。イズサミは、カヤナに愛されなくなったことで苦しんだ!」

 二人が不憫でならなかったのだ。女を捨て去ったカヤナが哀れで、理由も知らず殺されたイズサミがかわいそうで。自分の傷の深さに二人の愛の苦しみを重ねてしまい、彼らと同じくらい心が痛いのだ。
 どうして忘れてしまったのだろう、二人とも。命がどれだけ重たく儚いものであるのかを。彼らにもクラトの時代の人々と同じように生きていた時間があるはずなのに。

「ただでさえ生前、本人たちにはなんの責任もない血の繋がりのせいで、カヤナとイズサミは離れざるを得なかった。お互い愛し合っていたのに、別れたんだ。そのときのカヤナの気持ちが分かるか? イズサミが、どれだけ傷ついたか分かるか?」
「クラト……やめてくれ。これは私の弱さが招いた結果なんだ」
「愛を失う痛みがどれだけのものかお前に分かるか!?」

 腕を引っ張って制止するカヤナを振り切り、クラトは前に歩み出るとアメツネに殴りかかった。

「あんたは分かるはずだろう、カヤナを愛してるんだからな!」

 虚ろな目をした魔術師は避けることも魔術で攻撃することもなく、頬にクラトの拳をまともに受けた。反動で床に倒れ込んで尻餅をつき、殴られた頬を手で押さえ、髪で顔を隠しながらうなだれている。
 以前までの余裕を失った世界最強の男の姿に、クラトの苛立ちはますます募った。冷たい目で見下ろしていると横をカヤナが通り過ぎ、アメツネの前に立ちはだかる。アメツネをかばう彼女にも腹が立ち、目を細めて睨めつけた。

「愛することを失ってまで、カヤナがしたかったことって一体何なんだ」

 彼女に対して不信感を抱いている自分自身に悔しさを感じつつ、それでも言い放つ。自分に向けられる緑の両目は険しく、しかしどこかクラトを哀れんでいるようで、それにまた苛々した。

「お前を慕っていたイズサミを差し置いて、自分を傷つけた夫に復讐するために復活して、そのあとのお前に残るものって一体何だったんだ。カヤナ、お前が望んでいたことは、イズサミと隔たりなく愛し合うことだったんじゃないのか? セツマに対する復讐なんかじゃなく、初めからそれを願えば良かったんだ。そしたらイズサミがあんなに苦しむことだってなかった。再び剣を交えることだってなかったんだ」

 カヤナは応えず、クラトに視線を注いだまま沈黙していた。彼女の後ろにいるアメツネもまた身動きする気配がなく、二人の心をどうやっても動かすことができない自分の非力さに怒りのような、諦めのような感情がわき上がって、クラトは奥歯をかみしめた。
 弟アクトのように、人を憎み、人を傷つけるためだけに生き、願い続けることは、自分にそう言う資格はないのかもしれないが、クラトには生の時間の浪費に思えていた。負の感情を抱き続けることはとてもつらく、悲しいことだ。本来ならば、もっと楽しくて幸せな時間を過ごせたかもしれないのに、血みどろの未来にたどり着こうと暗黒の道を歩き続けることに、一体どんな希望があるというのだろう。生は確かに十人十色で、どんな生き様があってもいい、しかし、それが他人の目に哀しく映るとき、容易にその道を肯定して良いとは思えなかった。

「アメツネもアメツネだ。血縁関係で悩んでいた二人を、死後の世界で結ばれるような未来に導いたってよかったんだ。それとも、なんだ、カヤナを復活させて、セツマやイズサミと憎み合う関係を故意に作り出そうとでもしたのか? 人の心から愛を奪ったり、運命を操作するような真似をしたり、生死の境目を曖昧にしたりして。あんた、ちょっとおかしいよ。おれはもうあんたの存在意義を認められない」

 訊いていながら、どうせ何も答えてくれないのだろうと、クラトの心には絶望が生まれた。話が通じないのは、生きた時代が違うからだろうか。それとも決して超えられない実力の差なのだろうか。様々な考えがぐるぐると渦を巻き、クラトはだんだん何が何だか分からなくなった。
 そのときだった。どさっという音が神殿の真ん中の階段を挟んで向こう側から聞こえてきた。振り返った視線の先には石畳にうずくまるイズサミがいた。苦しげに深く前屈している。

「……イズサミ!!」

 急に響き渡った声にも驚き、カヤナを見やる。瞬く間に顔面蒼白になった彼女は走り出し、「大丈夫か!?」と恐怖に満ちた様子でイズサミの様子を見に行った。前に座り込み、心配そうに彼の無事を確かめている。
 向こうでやりとりをしている二人を眺めながら、クラトは意識が曖昧になっていく感覚に陥った。暗い霧が徐々に心の中を覆っていき、額の辺りがくらくらした。二人が一緒にいるところを見るのがつらくなって、カヤナの様子は気になるが、耐えきれず目をそらして足下を見つめた。
 ああ。
 どう自分が足掻いても、頑張ったとしても、カヤナはイズサミしか見ていないのだ。
 本来全く違う時代の人間で、本来ならば会うこともなかったのに、どうしてカヤナと出会って、哀れにも彼女に恋をしたのだろう、自分は。
 どこにも希望なんて無かったのに、初めから分かっていたはずなのに、どうして彼女を愛したのだろう、その想いを止められなかったのだろう。振られて、吹っ切れたと思っていたのに、いつまでも未練がましいのはなぜなのだろう。こんな自分など、そもそも愛される資格など無いではないか。
 今までカヤナやアメツネに訴えていたことが、全て嫉妬から生まれたものなのではないかという疑惑に満ちて、クラトは己が信用できなくなった。

「アメツネ」

 床を見つめたまま、立ち上がって少し離れたところにいる魔術師に言った。

「おれを生き返らせればいい」

 もう、何も考えたくなかった。

「おれが生き返ることでカヤナの気持ちが楽になるなら、その方があんたたちのためになるなら、生き返らせればいいよ。おれにはもうどこにも居場所なんてないんだ。あんたがおれの死体を運んできたのは、行方不明者にして現実の死を曖昧にするためなんだろ。なら、辻褄が合うようにすればいい、おれを現世に送り返して、見つかりました、生きてて良かったですってことにすればいいんだ。
 アメツネ、あんたが死にたいのはよく分かる。多くの人を犠牲にしてしまって、長年つらい思いをしてきて、それを終わらせたいのは、よく分かる。仕方ないよな、おれたちには止められない。死にたいなら、死ねばいいよ。魔術でも薬でも利用して、おれの身体を使って、おれを蘇生させて、好きにすればいいだろ!!」

 猛烈な衝動が襲い、いつの間に叫んでいた。

「好きにすればいい! あんたたちに都合が良いように、丸く収まるようにすればいい!!」

 両手の拳を握りつぶしながら踵を返し、少し離れたところまで大股で歩いて、心の中に充満している怒りをどうすることもできず、その場でうつむいた。
 じんわりと迫り来る涙の気配があった。何もかもが嫌になって、腹が立ち、訳が分からなくて、誰のことも、自分のことも信じられなくなり、クラトはその場にうずくまった。