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「……クラト」

 くぐもった声が聞こえ、応えまいと少し我慢していたが、こうしている間にも自分のせいで彼女の心が傷ついているかもしれないと思うと、もう耐えられなかった。どうした、と顔をのぞき込んだとき、クラトの心臓はどきりと打った。カヤナが涙を流していたからだ。眉間にしわを寄せて、悲痛な表情で、閉じた睫毛の合間から幾筋も涙を頬に伝わせ、小さく震えていた。
 傷つけたのだ。
 深く深く傷つけてしまったのだ、こんなにも強い女性を泣かせてしまうなんて。クラトは自分のしてしまった行為を激しく後悔した。抱き寄せることも突き放すこともできず、おろおろと両手を泳がせて、ごめん、ごめんと何度も謝りながら、涙を拭ってやりたくてもそれができない自分に嫌悪を抱き、ただひたすらに謝り続けた。
 カヤナは両手に顔を伏せ、沈黙していて、そのうちゆっくりと顔を上げた。充血した目と塗れた頬が痛々しい。

「クラト……すまない。謝らなくてはいけないのは私の方だ……」

 注意しなければ聞き逃してしまうほど弱々しい言葉に、意味が分からず首を傾ける。悪いのは勝手に彼女を抱きしめたりした自分なのに。

「どうして謝るんだ……」
「私のせいなんだ。お前が死んだのは、私がタカマハラやヤスナを私情に巻き込んだせいなんだ。戦闘員不足にならなければ、お前が戦争に出向いて死ななくても済んだのに」

 申し訳ないと両手の拳を顔に押し当て、潰れた声で今度はカヤナが何度も謝った。確かにカヤナやイズサミの復活がきっかけでタカマハラは人員不足になったのかもしれないが、ヤスナと戦争をしていたのはそれよりずっと前からであるし、たとえ彼らがそれぞれの国の創始者に近しい存在であったとしても、二人は二国間の戦争を望んでいた者たちではない。
 そんなことを責めたりしないのだから、どうかカヤナも自分を責めるのをやめてくれと訴えたが、彼女は力無くかぶりを振るだけだった。

「ごめんな、クラト。ごめんな……」
「な、もういいよ、カヤナ、泣くな。お前に泣かれたら、おれはどうしていいか分からないよ」

 自分が彼女に触れているのが嫌だから泣いているわけではないと分かり、心の片隅で安心しながら、クラトはカヤナをゆるく抱いて、子どもをあやすように優しく背中を撫で続けた。大丈夫だからと声をかけつつ、彼女の額に頬を寄せ、自分に向けられている痛烈な罪悪感と愛しい人の深い苦悩に、胸が詰まったクラトの目にも涙が浮かぶ。
 こんなとき、イズサミならどうするのだろう。イズサミと自分の違いは、一体何なのだろう。慰め方が違うから、かける言葉が違うから、自分はカヤナに恋愛してもらえなかったのだろうか。何が違えば、自分は彼女に愛されたのだろう。そんなことを考える自分がとても嫌で、クラトの心はたまらなく苦しかった。どこまで卑しいのだろう、自分の恋心はどこまで未練がましくて、しつこくて、醜いのだろう。
 クラトの目からこぼれた涙がカヤナの肌に触れたのだろうか、クラト?という呼びかけで顔を離すと、カヤナの指先が頬を滑った。

「なんで、クラトが泣いてるんだ」

 涙混じりの声に、クラトは泣き顔なのか苦笑なのかよく分からない表情になって、なんでもないよと強がった。

「お前につられただけだ。
 なあカヤナ、一体ここで何があったんだ。アメツネに何かされたんだろう? セツマが言ってたけど、カヤナから愛する心を対価として奪ったって、どういうことなんだ。あいつはそんな非道なことをする男なのか?」

 カヤナは無表情のまま答えず、クラトの腕を手で押しやった。どうやら懐から出たいらしいので、名残惜しかったが解放してやると、カヤナは立ち上がってクラトに手を差し伸べた。

「クラト。お前にはつらいかもしれないが、来てくれるか」

 問われ、何のことだろうと不安になりながらも、クラトはカヤナの手を取って腰を上げた。

「ああ……でも、一体」
「来れば分かる」

 カヤナは繋いだ手を離さずに、部屋の奥へとクラトを導いた。手のひらから伝わる彼女の存在感に、クラトの心臓は――生者からすればもうすでに止まっているのだろうが――ドキドキして落ち着かなかった。できればこのままずっと手を放したくなかった。
 今はイズサミがこの場にいないから良いだろう。クラトは手を握り返し、色とりどりの薬の瓶が並ぶ一つの棚の前でカヤナが立ち止まったのに従い、歩みを止めた。明らかに行き止まりなのだが、カヤナは瓶を目で追い、これかと独り言を言って、棚の中段に並んでいた緑色の細い瓶を右に動かした。
 すると。

「あっ、あれ?」

 棚が消えた。動いたのではなく、忽然と姿を消したのだった。広がった光景は、見覚えのある石造りの神殿だった。奥に、アメツネらしき人物の後ろ姿が見える。
 カヤナが手をほどいて前に行こうとしたため、クラトは力を込めることでそれを拒んだ。引っ張られたカヤナが驚いて振り返る。

「クラト?」
「……」

 沈黙が抵抗だった。個人的な気持ちで手を放したくないのはもちろん、アメツネのそばに彼女を独りで行かせたくなかった。カヤナは困惑したらしいが、諦めたのか、クラトと手を繋いだまま前へと歩み始めた。
 真っ直ぐな通路で奥に向かう途中に、十段程度の緩やかな階段があり、そこを静かに登り切って、祭壇の前に佇んでいるアメツネに近づいた。彼はこちらに振り返る様子はなく、祭壇を見下ろしてじっとしている。彼と少し離れたところでカヤナが立ち止まったので、クラトもそれに倣った。その時すかさずカヤナの少し前に歩み出ることを忘れなかった。念のため腰の剣に手をかける。どんなに力が劣っていたとしても、自分はカヤナを守るのだと強く心で誓いながら。

「アメツネ」

 呼びかけるカヤナの声は冷静だった。

「方法を探そう」

 方法? 一体なんのことだ。二人を見比べる。カヤナは真面目な面持ちでアメツネを見つめ、アメツネは呼びかけから少し経った後ようやくゆっくりと首だけをこちらに向けた。肩越しに見せた面に表情は無かったが、アメツネの顔色もカヤナと同じように青白いように思われた。

「来たか」

 特有の、低い、地を這うような声が響く。アメツネは数歩後ずさり、祭壇の前から身体を除けた。視界に入るようになった直方体の石の祭壇の上に載せられたものが何なのかが判明し、クラトは愕然とした。