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 これはまずい事態になったとクラトは軽く絶望した。真っ暗闇の空間にはただ一つの明かりが灯っていて、かろうじてその光が届くところに床に座り込んでじっとしている。宙に浮遊する光の球体は、イズサミが「暗い」と文句を言って魔術で出現させたものだ。その光に照らし出されているのはイズサミの他、セツマがいて、イズサミは出口はないだろうかと辺りをきょろきょろと見回し、セツマはイズサミと少し離れたところに佇んで、どこまでも続く闇を意味深長に見つめている。
 最悪の協演だ。カヤナはおそらくアメツネに連れ去られ、カヤナに侍っていた三人は、わけの分からない闇の空間に置き去りにされている。いきなり視界を閉ざされたときクラトは非常に焦ったが、イズサミは特に驚きもせず、どうせここも魔術でできているし……などと言いながら明かりを出現させ、セツマはその明かりを利用して平然と闇を観察し始めた。さすが世界を滅ぼしかねない恐るべき力の持ち主たちだ、心の余裕が違う。
 言っておくが、おれは魔術なんか使えないんだぞ――腰から外した自分の剣を何かあったときには抜けるように両腕に抱え、クラトは座り込んだまま慎重に二人の様子を窺っていた。以前、アメツネとセツマが面白半分に戦ったときは散々だったのだ、魔術で起こされたすさまじい突風の巻き添えを食らうし、かまいたちのようなものが次々と襲ってくるし、その際はアメツネがクラトに気を遣ったのか防御壁で保護してくれたが、それも完璧なものではなく、細かな鋭い風のせいで身体のあちこち小さな傷がついてしまった。
 もし、視界の中にいるイズサミとセツマが戦い始めたらどうだろうか。二人ともアメツネのように気は回らない男たちだ、確実にクラトの存在など無視して攻撃し始める。そうなったら、どんなに闇が恐ろしくても遠くに逃げ続けるしかない。
 逃げるしか選択肢がないなんてな――剣だけが取り柄の自分の非力さに落ち込んだが、神王と不死の門番に、たかが城の警備隊員が太刀打ちできるはずもないだろう。二人が反則すぎるのだ。

「……ああ! イライラする。あの男、いったいなんなの、むかつくよ」

 かなり苛立った様子でイズサミが地団駄を踏み始め、クラトはびくりとした。彼はぶつぶつ言いながら踵を返すと、少し歩いて立ち止まった。光に照らされた横顔は、何か考え込んでいるふうだった。
 しばらくしてイズサミは、背中を向けてどことも無い場所を眺めているセツマに話しかけた。

「ねえ、君」

 セツマが、はい?と言いながら振り返る。ああ、神さま――つまり、それはカヤナのことだが――この二人が穏便に話し合いができることを祈っていてくれと剣を握りしめ、冷や汗をかきながらクラトは切願した。

「君ってさ、カヤナの何?」

 半ば睨むようにして、イズサミはセツマに言った。これはかなり手厳しそうだ。望みは薄くなった、もうおれの命は無いのかもしれない――いやもうすでに無いのだが、今度は魂ごと消え去ってしまうかもしれない。消滅する前にもう一度カヤナに会いたかった……。いつも自分はこういう役回りだと肩を落としつつ、剣を抜けるように柄に手を置いて二人を警戒する。
 セツマは、イズサミの問いに不敵な笑みを浮かべた。

「私ですか? 私はカヤナ様の夫です」

 門番とでも名乗ればいいものを、どうやらイズサミのふっかけに応戦するらしい。イズサミは、ふうん、と無表情でよく分からない返事をし、少し経ってから再び口を開いた。

「カヤナは望んで君と結婚したわけじゃないんでしょ」
「いいえ? カヤナ様は当主としてご自身のお務めを果たされたのです。私と婚姻を結んだのはカヤナ様のご意志ですよ?」
「たまたま君がそばにいたから都合が良かっただけじゃない」
「条件に当てはまった男をお選びになったのです。反対する者は誰一人としていませんでしたし、たとえそれが義務的なものであったとしても、夫として資格があるとお認めになったのですから、これ以上何を非とするのか私には判断しかねますが」
「ボク、君が嫌いなんだよね」

 あっさり言い放つ。セツマは能面のような笑みを深めた。

「そうですか。私は別にあなたに好かれようとは思っていませんので、どう考えられようがイズサミ様の自由です」
「カヤナはボクを好きなんだよ」

 イズサミが苛立つのが空気で分かった。これはまずい展開になりそうだとクラトは腰を上げる。もし本当に攻撃が開始されたら巻き込まれるのは必至で、今度こそ無事に済むかどうか分からない。最悪の事態になる前に二人の喧嘩を止めようと、ばれない程度にそろそろと近づいていく。
 イズサミは殺気立った口調で続けた。

「カヤナはボクのことを愛しているって言ってくれたんだ。ボクもカヤナのことを愛していて、つまり二人は相思相愛なんだ。分かる? 君が出る幕はないってわけ」
「ほう……? 我々は死によって引き裂かれましたが、婚姻関係が解消しているわけではありません。ははあ、なるほど、カヤナ様は夫を差し置いて浮気されているということなのですね。不貞を働いているのは彼女の方ではないですか」
「そりゃあ暴力夫なんかとは離婚したがるでしょ。婚姻は義務であって君のことが好きで結婚したわけじゃないんだもの。彼女は君を男としては愛してないんだ。それに婚姻関係があってもなくてもボクたちが愛し合っていることは不変の事実だし、君がどう足掻いたってカヤナを振り向かせることはできないよ」

 ずけずけと言葉を紡いでいくイズサミに、さすがのセツマもプライドを傷つけ始められたらしい、無意識だろうが腰の剣に手を置くのが見えて、クラトは慌てて彼らに走り寄った。

「なあ! 今は喧嘩してる場合じゃないだろ。この空間から出る方法を探さないと」
「イズサミ様。カヤナ様が誰を愛していようがいまいが、カヤナ様は私の妻なのです。それがたとえ形式であっても、愛という不確かで曖昧なものよりもずっと鮮明で形あるもの。それにイズサミ様こそカヤナ様と姉弟という間柄であることをお忘れで?」
「へえ、このバルハラでも生前の形式が通用してると思ってるんだ、君?」
「アメツネにさらわれたカヤナが心配だろ!? あいつ何するか分からないし」
「とにかくカヤナにまとわりつくのはやめて欲しいんだけど。ボクたちは静かに愛し合いたいの。昔からの願いを叶えたいの。それはカヤナとボクの合意の上なんだからさ」
「カヤナ様は私がいないと何もできないお方です。現に、あの時代でもあなたではなく私に頼りきりだったでしょう。ヤスナ家で温室育ちのイズサミ様が、彼女のためにいったい何ができるというのです」

 話を聞く気はないようだ。セツマの言葉を最後に二人はぶわりと風を起こして対立し、冷ややかな眼で睨み合い始めた。力があるゆえのとんでもない殺気が肌にびりびりと伝わってきて、クラトは剣を抜いて後ずさる。
 まずい。殺される。いやすでに死んでいるのだが、おそらく今の状態では済まなくなるだろう。死んだといっても痛みは感じるし、怪我もする。アメツネとセツマの戦いの時とは違って、彼らは本気でやり合うはずだ。セツマはカヤナの恋人であるイズサミが邪魔だろうし、イズサミもまたカヤナの夫でありずっと傍らに居続ける男、しかもカヤナに異常な執着を抱く男が迷惑きわまりないに決まっている。
 どうしよう。このまま逃げてもいいが、そうすると今度はアメツネの魔術に殺される気がしないでもない。自分がどこに立っているのかすらよく分からないこの真っ黒な空間は、そもそも死者のためのバルハラではないかもしれないのだ。

「君は本当に鬱陶しいよねえ」

 周囲をよく照らすためだろうか、宙にあるイズサミが作り出した魔術の明かりがより強い光を発した。青い髪を風に舞い上がらせ、両手を前にかざして何かを起こそうとしている。一方のセツマはすでに右手に剣を抜いており、左手は魔術を使うためかイズサミと同じように相手に向かってかざされていた。
 舞い上がる風の勢いに顔をしかめる。だめだ、この様子では今から始まってしまう。自分にイズサミとセツマを止めることはできない――クラトは剣を納めると踵を返して床を蹴った。できるだけ二人から遠ざかるために、闇に向かって。果たして本当に自分は先に進んでいるのか、どこに行こうとしてるのか、何も見えない闇の中では分からないが、後方のイズサミの明かりが徐々に遠ざかっているので一応離れられてはいるらしい。
 ――ああ。
 走りながら、涙が出そうになった。
 ――おれは無力だ。
 どんなに足掻いても、自分は彼らのようにはなれない。
 ――こんなにも守りたい人がいるのに、いつも逃げることしかできないなんて。
 カヤナの前に立ちはだかる力の差という壁は、きっと永遠に越えられないほど厚いのだ。
 息を切らしながら走っているうちに、背後からものすごい轟音が聞こえた。強い風がドンとクラトの背中を襲い、その衝撃で息ができなくなって足を止め、呻き声を上げながら前屈みになる。胸が詰まる苦しさに目を閉じ、このまま自分という存在は消え去る運命なのだろうかと絶望感にくらくらしながら再び瞼を上げたとき、そこはすでに闇ではなかった。
 自分の靴の先が赤い絨毯を踏んでいるのが見える。辺りは先ほどよりもずっと明るい。一体何が起きたのだろうと混乱しながら丸めていた背中を元に戻して見回すと、そこは誰かの部屋のようだった。色とりどりのカーテンやソファ、壁や天井を飾る装飾品が彩り鮮やかだ。
 どこだろう、ここは。二人の戦闘からは離脱できたらしいが、巻き添えを食らったせいで未だ呼吸が苦しく、息を整えながら周囲を確認する。するとシングルサイズのベッドが近くにあり、その上に横たわる人物に気付いたクラトは目を見張った。

「…………カヤ、ナ」

 長い黒髪をゆるゆるとシーツの上に散らし、腹の上に両手を置いて仰向けになっている。目を閉じているため、もしや彼女の身に何かあったのではないかとぞっとしながら近づいた。よくよく観察すると、カヤナは微かに呼吸をしていて、どうやら単に眠っているだけらしかった。胸をなで下ろしつつ、クラトは彼女の眠るベッドの脇に座り込む。
 寝顔をまじまじと見ながら、クラトはその美しい顔立ちに恍惚とした。漆黒の柔らかな髪と白い肌、長く力強い睫毛に、紅を差した赤い唇。年齢よりはずっと大人びて見えるのは、その容姿のためだけではないだろう。
 綺麗だ。
 手を伸ばし、ベッドからこぼれ落ちている彼女の黒髪を一房取った。少し癖がある、濡れたような髪質が手のひらに気持ちよい。何度か指先で撫で、再びカヤナの顔を見つめる。彼女はクラトの気配には全く気付かず、ゆっくりと胸を上下させて眠り続けていた。
 この、目の前にある女性の美しさは、どうしても自分のものになることはない。どんなに欲しくても、愛おしくても、守り続けたくても、彼女が愛しているのはただ一人、彼女を遥か昔から愛し続けていた優しい男だった。
 カヤナがイズサミを好きになる理由が、クラトにはなんとなく分かるような気がしていた。性格が真逆だからこそ、自分に無いものを持つ男にカヤナは惹かれたのだろう。疑いようのない真っ直ぐな愛する想いが心の奥までに深く深く入り込んで、彼女はとても温かな安堵に包まれているのだ。本当は脆いところのある、この凛々しく儚い女性を、生粋の純真さで支えられるイズサミがクラトは心底うらやましかった。自分はどうやっても彼のような性格にはなれないし、彼らと同じ立場になることもできない。
 叶わぬ恋とは本当につらいものだ。どこにも行き場がないこの想いは、果たしてどうすればいいのだろう、どうなるというのだろうか。いつか消えて無くなるものなのだろうか、いつまで抱き続けるのだろう、魂が消え去るときまで? 死んでもこんな有様なのに、自分の全てが無に還る瞬間など、この先訪れるのだろうか。
 クラトはカヤナを見つめる目を細めた。
 髪から手を離し、おそるおそる立ち上がって、揺すって気づかれないように慎重にベッドの端に腰掛ける。寝顔が見下ろせるようになって、クラトは、おそらくほとんど無意識に全身を魅了されていた。ゆっくりと前屈みになって、彼女の頭の両脇に両手をついて、身体が自然とそう動いてしまったかのように、顔を近づけ、呼吸するために薄く開いている女の紅い唇に、そっと、微かな口づけをした。