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 カヤナの中には、クラトがそう言い出したことに対する驚きはあったが、アメツネの心情は昔からの付き合いで知っているため、彼が死にたいと願っていることは別段不思議なことではなかった。彼は、行動は謎めいていながら、中身はとても普通の人間であり、罪によって背負わされた命の終わりを希うことも無理はないのだ。セツマはさておき、カヤナも自分が不死になったら、苦痛から逃れるために死んでしまいたいと一度は願うだろう。
 アメツネはゆっくりと顔を上げた。無表情の中にある、その青い神秘的な瞳は、こちらの心が痛むほど透きとおっている。どこか感情を失っている男の様子に心配になり、カヤナが再び頬を撫でると、厭がるように顔を背けられた。

「アメツネ……」
「私を」

 彼は、微かな声で唸った。

「私を殺してくれ」

 言葉と同時に、辺りの風景がもろもろと崩れ始めた。下から虫食いに遭うように、白い空間は黒い空間へと変化していき、闇に包まれたカヤナが次に目にしたものは、アメツネがよく招いてくれた、色とりどり小瓶が並ぶ薬棚に囲まれた彼の私室だった。以前、セツマとやり合ったときに様々なものが破壊されたと思うが、全て元通りになっている。
 一体何事であろうと周囲を見回すと、すぐ近くにアメツネがいた。窓際の椅子に腰掛け、深くこうべを垂れて、両手を顔に伏せている。
 カヤナとアメツネ以外、部屋には誰もいないようだった。ということは、イズサミとセツマとクラトをどこかに置いてきてしまっている状態らしい。イズサミとセツマが対峙することだけは避けたかったのだが、目の前の気力を失った様子のアメツネを放っておくわけにもいかない。どうかクラトよ、彼らを仲裁してくれ、と警備隊の男にとっては気の毒なことを心で唱えつつ、カヤナはアメツネの傍に行くと、その前にしゃがみ込んだ。全く身動きしない男の茶髪をはらりと指先で撫でる。

「アメツネ。私に話してくれ、お前の心の内を。お前には世話になったんだ、今度は私がお前を助ける番だよ」

 返事はなかった。両手で顔を覆ったまま、前に倒れてしまうのではないかというほど背中を曲げていて、後ろ毛の間から見える白いうなじが痛々しい。いつもの余裕のあるアメツネからはほど遠い姿に、ますますカヤナは心配になって彼の頭を撫でつけた。

「なあ……
 私は、お前の死にたいという願いを否定したりはしないよ。お前は生きすぎた。お前の性格を考えれば、死ねないことほどつらいことはないはずだ。もしお前の望みを叶えることが私にできるのなら、手伝わせておくれ」

 寂は長く続いた。辛抱強く髪を愛撫しながら待っていたが、あまりに微動だにしないため、もしかしてこいつ寝てるんじゃないのかと疑い始めた頃に、ようやく彼はのろのろと顔を上げた。
 暗い、光を失った青い両目が果たして何を見ているのか、カヤナにはもうよく分からなかった。

「私は」

 注意していなければ聞き取れないほどの小さな声で、彼は言った。カヤナは顔を寄せる。

「うん?」
「薬の研究をしていた。バルハラにある薬の研究を。
 バルハラも薬も、私が生まれる前から存在していたものだ。私が生きたままバルハラを訪れたのは数千年前だった。そのときには私はすでに老人の姿だったが、時間と比例して、ありとあらゆる魔術を身につけ、なんだってできるようになっていた。人の命を左右することさえも。私に不可能なことなどなかった」

 カヤナは、意味はなかったかもしれないが、力無く膝の上に置かれているアメツネの左手を右手でそっと握った。白くて大きくて優しい手だ。自分の冷たい手のひらに彼の体温が伝わってくることが、ひどく切なかった。

「ただ一つ、自分が死ぬということ以外には。
 何百年、何千年と時を経て、もう生きることが嫌だった。悲しむのも、自分を憎むのも、私が殺してしまった死者たちを悼むのも、解決方法を探し続けるのも、もう嫌だった。すべて終わらせたかった。何度も死のうとしたが、痛みや苦しみはあっても、私は死なない。すぐに回復して、何事もなかったかのように元通りになる。
 世界の情勢を眺めながら、どうにかして自分が死ぬ方法を探していた。死した者たちへの償いをしようと思っていたのかどうかは分からぬ。時に人を助け、人を戒め、人を導きながら、ただこの命を終わらせるためだけに生きてきた……」

 悲しい言葉を紡ぐ口調は淡々としていて、もはや空虚だった。あの、優しいような意地悪なような、不思議な微笑を浮かべるアメツネはどこへ行ってしまったのだろう。彼が今にも消えていってしまいそうで、カヤナは握る手に力を込めた。
 アメツネは、カヤナの動作には無反応のまま、続けた。

「いくら人を助けたとて、それが贖罪ゆえだと思えば、心休まる日などなかった。
 あるとき私はバルハラに赴いたことで、伝説だと思われた命を左右する薬が本当に存在していることを知った。その薬を使用すれば、私が殺してしまった者たちを蘇らせることができるかもしれないと、遠い昔に忘れたはずの希望が生まれた。薬を探すのは困難だったが、魔術を駆使して見つけ出し、今度はあの失われたニライ国の人々を探してバルハラを旅した。
 だが、旅をしながら私は思った。これは死者への冒涜ではないのかと。薬などを利用して人を蘇生させるなど、二重の罪となるのではないかと。葛藤し、長いあいだ悩み続けた。そして結局、私が殺した者たちを見つけても、私は薬を使うことができなかった」

 カヤナは、アメツネの色を無くした顔を見つめ、頷いた。

「そうだな。蘇らせれば、お前の犯した罪が無くなるというわけではないしな」
「そもそも失われた命の数が多すぎたのだ。薬ひとつでは到底足りず、対象を選ぶわけにもいかない。結局、何もできないまま薬を持ち帰り、今度はその薬が死ぬための効果を持つかどうかを研究し始めた。命を左右するほどの薬だ、死を司る可能性も考えられるだろう。
 残る最後の希望として、長い時間、研究に没頭した。どのくらいの時を過ごしたのかは分からない。その間に、薬が復活と不死の両方の効果をもたらすものだということを突き止めたが、命を奪う効果まであるのかどうかは未だ研究途中で分からない……」

 なるほど、だからアメツネは復活と不死の薬を処分してしまわなかったのかと、カヤナはようやく納得した。彼は、バルハラにある薬を手に入れたあと、自分の手元に置き続けていたのだ。
 だが、そこで疑問が生まれる。なぜ、そのような代物がセツマに渡ったのかだ。あのような狂気的な男が薬を手に入れたら、世の中にどんな影響が出るか分からないではないだろうに。
 尋ねようとするとアメツネが顔を上げ、澄んだ青い瞳でカヤナを見据えた。

「すまない、カヤナ」

 急に謝られ、困惑して首をかしげる。

「どうして謝る?」
「私は利用したのだ、セツマ・アシルを」

 そう言うと、アメツネは申し訳なさそうに目を伏せた――彼の口から出る言葉が何であるとしても、ようやく人間らしい表情を見せてくれたことにカヤナは安心した。握った手はそのまま、落ち着かせるために、もう片方の手でアメツネの髪を優しく撫でる。

「利用した?」
「不死になった私自身に薬を使うことはできない。しかし薬の実際の効果を確認したくて、薬を求めていたセツマに渡したのだ。二千年間の研究として、あの者の命を私は利用した」

 すまない、とアメツネはゆっくりと顔を覆って再び謝った。

「私はどこまで愚かなのであろう。どこまで狂っているのであろう。所詮は途方もない力を持て余しているだけの身勝手な魔術師でしかないのだろうか。自分のために他人を利用する劣悪な人間なのだ、こんな命、さっさと消えてしまえばいいものを、どうして私は死ぬことができないのであろう。世界の理から外れてしまった存在など、許されていいはずがないのに」
「アメツネ……お前は、何かしらの定めでここにいるんだよ。全ては偶然であり、必然なんだ。それを否定してはいけないよ」

 かつてクラトが言った言葉を思い出して、カヤナはそう言った。人生に様々な分岐点があろうとも、訪れる未来は一つしかない。アメツネがニライ国を滅ぼし、生きながらえているのも、彼が望んでいようと望んでいまいと、残酷だが、それらが全て分岐を選び取ったことによる必然だったからだ。

「私は、お前の存在に感謝しているよ。生きる時代も違うはずだったお前と会えて、話だってできたことがとても嬉しいよ」
「カヤナ」

 急にアメツネは前に倒れ込んできて、カヤナの肩口に頭を預けた。驚いたが、背中にそっと両腕を回すことで抱き留める。
 男の深い呼吸がすぐそばで聞こえる。

「カヤナ。
 私は、そなたを愛したことで、死にたいと願い続けていた自分が変わっていくのを感じていた」

 アメツネの言葉に、カヤナは口を噤む。

「……」
「死にたい、終わらせたいとずっと思い続けていたのに、そなたの姿を見たい、この先も見守りたいと望んでいる自分が生まれて……」

 彼はカヤナのうなじに指先を這わせ、そのまま首筋に触れる程度の口づけをした。抵抗せずにいると、彼はその動作を何度か繰り返し、椅子から降り、前に座り込んで、少し強い力でカヤナの身体を抱き寄せた。
 唇が、首や顎をたどる。その感触は生きていた頃と変わらない皮膚の感触だった。死しても感覚が残る身体ならば、生者と死者の違いは果たして何だというのだろうか。一体、死ぬとはどういうことなのだろう。
 この男と自分の差は、一体何だろう。人の命を奪ったという同じ大罪を背負い、自責の時を歩んでいる。愛する人を、守りたかった人を守れなかったという後悔に苛まれ、その痛みは延々と終わることがない。カヤナとアメツネは似ている。ほとんど同じだと言っていいほどだ。ただ、生に属するか、死に属するか、それだけの差だ。
 アメツネはカヤナを抱こうとしてるようだった。男の欲望と、愛を得られない悲しみと、半ば自暴自棄でいることが伝わってきて、アメツネが舌を首に這わせ出しても、カヤナは抵抗できなかった。ただ哀れんでいた、自分に寄りかかっている温かくて大きな身体を。

「アメツネ」

 カヤナは瞼を閉じ、彼のさらさらした髪を撫でた。

「いいよ、お前の好きにするがいい」

 カヤナの放った言葉に、アメツネは動作を止めた。

「もしかしたら最後かもしれん。お前は十分すぎるほど罪の意識に苛まれてきた。このくらいのこと、許されてもいいだろう」

 腕の中で身動きしなくなった魔術師に、カヤナはうっすら目を開けて苦笑する。自分の中に彼に対する欲望があまりに無さすぎて、アメツネという男を愛することはどうしてもできなくて、その申し訳なさと、どうしようもなく頑固な人間の心というものに呆れて、嘆息するしかなかった。愛してあげられればよかったのに、そうすれば彼は久遠の生の中で少しでも救われたかもしれない。

「無論、ばれたらイズサミに殺されるかもしれないけどな。でも、あいつはお前がどれだけつらい思いをしてきたか分からない男ではないんだ。理解してくれるだろう、私は別に嫌ではないのだから」

 だから、抱けばいい、私のことを。
 カヤナがそう言い切る前に、カヤナの肩に顔をうずめた彼の潰れた声が聞こえた。それは、次第に泣き声に変わっていった。激しくは泣かない、ただ必死にこらえるように、苦しげに、静かに、彼は初めてカヤナの前で泣いてみせた。それは彼の心の真実だった。
 ああ、お前は。
 ずっと独りで泣いてきたんだな。犯してしまった罪の重さを誰も理解してくれない、心に宿り続ける苦痛から誰も助けてくれない、生者とも死者とも違う自分を拒絶するように現世から隔離してしまったこの小さな店で、ひとり静かに悲しみ続けてきたのだな。窓際に座り、白い空間を見つめながら、失われたものたちに思いを馳せて、気が遠くなるほど途方もない時間を過ごしてきたのだな。
 カヤナはアメツネの頭を優しく撫で続けた。アメツネはとても長い間、カヤナに顔を押しつけたまま静かに泣き続け、心の中から消えることの無かった苦しみを少しずつ少しずつ吐露していった。うん、と言いながらカヤナは男の頭に顔を寄せる。うん、そうだ、そうだな、と、優しい心を持つ彼の悼みを思いやり、カヤナもまた、涙を流しはしないが、心の中で泣いていた。