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 イズサミは盛大に咳き込んでいた。
 床に四つんばいになり、げっほげっほと何回も苦しげに噎せている。彼の隣にしゃがみ込み、おろおろしながらカヤナはひたすら謝っていた。

「す、すまない……掴まろうとして首を絞めすぎた」
「う、ううん……ゲホッ……いいよ。だってああしなきゃ危なかったし……ゴホッ」

 青ざめた顔に血の気が戻ってくることに安心し、カヤナはすまなかったと再三言ってイズサミの背中を撫で、立ち上がった。周囲を見回すと、そこはつい前までイズサミと一緒にいた神殿の中だった。水のせせらぎの聞こえる、天井の高い広い空間だ。
 きっとアメツネに弄ばれていただけなのだろう。白い空間や花畑に飛ばされていたが、それは幻覚か何かで、本当はずっとこの場所にいたようだ。
 つくづく鬱陶しい奴めと毒づき、同じく身を起こそうとするイズサミに手を貸してやる。

「とにかく、ここから出よう。また何かあったら面倒だからな」
「うん……ねえ」

 最後の咳払いをし、イズサミは困惑した面持ちでカヤナを見下ろした。

「もしかして、このバルハラでも何か争い事が起こっているの? アメツネって奴が悪い奴なの?」
「え? あ、いや……別にアメツネは悪い奴じゃない。ただ強い力を持っていてな」
「そいつがカヤナを傷つけるの? カヤナを傷つける奴はボク、許さないよ」

 純朴さの中に時おり現れる狂気じみた怒りがイズサミの瞳に宿り始めて、カヤナは焦った。これは狂戦士などは関係のない、無垢ゆえの彼の気質だった。カヤナを守ろうとする心理には変わりないのだが、もともと感情が純粋に表に出るせいで、怒りや憎悪もまた激しく露呈されるのだ。
 イズサミも、アメツネやセツマと同じく大きな力を持つ男だ。下手すると、怒りに満ちたときのイズサミは、アメツネに勝てはしないものの張り合えてしまうかもしれない。この永劫の平穏のバルハラでまた戦争じみたことが始まってしまえば、世界の理さえ揺らぎかねない。
 イズサミが力を使う事態だけは避けなければと心に決め、カヤナは神殿の扉に向かって歩き始めた。

「私を傷つけようとしているわけではない……」
「でも、さっきの花畑は、ボクたちが昔いた場所だよね?」

 追いかけながら、イズサミが問いただしてくる。カヤナは振り返らなかった。

「どうしてあんな場所に連れて行けるのさ? アメツネって奴は、ボクたちの過去を知ってるの?」
「気にするな」
「気にするなって……」

 たたっと走る靴音が聞こえ、カヤナの腕が強い力で引っぱられる。

「カヤナはいつもそうだ、答えに困るとそうやってはぐらかす」

 見上げた先のイズサミの目がつり上がっている。怒ったらしい。

「イズサミ、でも、あいつはお前には関係がなくて……」
「カヤナには関係あるんでしょ? カヤナに関係あることはボクに関係あることだよ」
「しかし」
「しかしじゃない。ボク、君のそういうところが嫌いだ」

 はっきり言われ、カヤナの心にぐさりと棘が刺さる。イズサミに自分の性格を否定されるのは初めてだった。カヤナが全てで、カヤナカヤナと自分の後ろをくっついて回っていたイズサミに言われるのは、どうやら堪えるようだ。返そうにも言葉が出てこなくなってしまった。

「……」
「ねえ……カヤナ。どうしてボクのこと信じてくれないの?」
「信じてないって……信じてるさ」
「信じてないじゃない。ボクが本当のことを知ると、また厄介なことになるって思ってるんでしょ」

 それは正直否定できない。アメツネやセツマと関わり合うことが、イズサミにとってプラスになるとは思えないからだ。二人が強大な力を持つ者たちというだけでなく、恋愛がどうのということまで巻きこんでいることを知れば、イズサミも当然黙ってはいないだろう。
 お前に話すと面倒なことになるからだよと内心呟きつつも、これ以上イズサミを裏切ることはできなかった。

「……アメツネはな、生きているんだ」

 イズサミの手を解き、再び歩きながら言うと、イズサミは心底驚いた声を出した。

「生きてる? 今もカヤナに関わっているのに?」
「不死なんだ。アメツネは、お前や私よりも遥かに強い力を持っている」

 神殿の扉まで来ると、大きな二枚扉の片方をぐっと身体で押しやって開け放った。外からの光が差し込んできて、目の奥がじんじんと痛む。

「どうして生きている人間が死んだ人間に……」
「そこがアメツネの恐ろしいところなんだよ。下手すると人の命や魂さえ弄びかねない」

 扉を開けきり、ふうと息をつきながら外へ出る。そこは、身覚えのある透明な床のある空間だった。薄い虹色をした雲が轟々と流れている、バルハラだ。

「そんな人が、どうしてカヤナに関わるのさ」

 質問が最初に戻ってしまったとがっかりして、カヤナは背後を振り返った。依然、不満そうにイズサミはカヤナを睨んでいる。

「どうしてだと思う……私にも分からん」

 正直なところアメツネが自分に執着する理由など分からないのだから、嘘を教えていることにはならない。彼がカヤナを好きだからと言ってしまえば、それで済むのかもしれないが。

「まあとにかく、関わりたくないんだ、私はな」
「迷惑してるんだね? 大丈夫、ボクが守ってあげるから」

 ぎゅっと抱きついてくるイズサミに、やれやれとカヤナは嘆息した。ここで「殺してやる」という言葉が出ないだけ、イズサミはセツマよりましだと思いつつ。





 しかし、バルハラに戻ってきたとしても、この場所ですることなどない。一体何が目的で死した後も自我が残るのかは知れないし、あるいは死ぬこととはつまりこういうことなのかもしれないが、目的もなくただ過ごしているというのは、カヤナにとってはとんでもない苦痛だった。イズサミはそういうのに慣れているのか、何一つ文句言わずカヤナの隣で嬉しそうにしている。カヤナさえいればそれでいいのだろう。
 とりあえず、今ははぐれたクラトが心配だと、イズサミには何も言わずクラト捜しを行っていた。広大なバルハラで果たして彼に再会できるのかは分からないが、セツマやアメツネと一緒にいるとなれば魂ごと滅ぼされかねない。それではクラトがあまりにも不憫すぎる。

「あいつ、つくづく不運だよな……」
「え、何?」

 頭の中の呟きが外に漏れていたらしい、イズサミが瞬時に問い返してきて、慌ててカヤナは首を横に振った。

「な、なんでもない」
「そう? ねえ……なんか声がするんだけど」
「え?」

 言われ、カヤナは立ち止まって耳を澄ませた。イズサミも横に並んで歩みを止める。風の吹く音はするが、カヤナには特に何も聞こえない。

「そうか?」
「うん……たぶん……上から」

 上?と見上げた途端、わあああ……という悲鳴が頭上から降ってきて、その声の主らしき人物が真上から落ちてきた。

「えっ、おっ、おい!?」

 かなり高い位置からものすごい勢いで落下している。カヤナには到底受け止められそうになく、あたふたしていると、イズサミが翼を出してさっと宙に舞い上がった。鳥のように飛び、落ちてくる人物を素早く抱き留めて、抱きかかえたまま滑空してくる。そしてゆっくりと着地して翼を仕舞うと、救った人物を「重い」と床に放り投げた。かなり痛そうな音を立ててその人物は転がっていく。

「こらっ、イズサミ」

 なんてことをするんだと慌てて駆け寄ってみると、落下してきた人物は、驚くべきことにカヤナの捜していたクラトだった。

「おっ、お前?」
「うう……痛い……」

 打った腕を押さえつつ、クラトはのろのろと起きあがってその場に座り込んだ。ここは……と辺りを確認しているうちにカヤナに気が付き、カヤナ!と驚きの声を上げる。

「どうしてカヤナが? ここはどこなんだ?」
「どこって……ご存じの通りバルハラだが」
「うん? だっておれ、さっきまで変な空間に……」

 混乱した様子で周囲を見回している。よくよく見ると、クラトの顔に小さな切り傷のようなものがいくつかあった。カヤナが心配して傷について問うと、クラトは、え、と間の抜けた声を出し、自分の指で頬を確認して、傷口に触れると痛そうに顔をしかめた。

「いや……ちょっとセツマたちが」

 名を聞いて、カヤナの心臓が跳ね上がる。

「セツマっ!? あいつ、何かしたのか!?」
「あ、いや、おれはただ巻き込まれただけっていうか」
「ねえ……」

 ふと、カヤナの背後にイズサミがしゃがみ込んだ。両膝に頬杖をつき、不審そうにクラトをじっと見つめている。

「この人、タカマハラの王立警備隊の人だよね。見覚えあるし」
「あ、え……イズサミ? カヤナ、イズサミに逢えたのか?」

 クラトの問いに、カヤナは非常に慌てた。これではカヤナがイズサミに出会う前にクラトに接触したことがばれてしまう。何か言い訳をと考えているうちにイズサミがのっそりとカヤナを覗き込み、半眼で睨んできた。

「……」

 どうやら、もうごまかせそうにない。そもそもクラトが落ちてきた時点の会話からアウトである。

「……すまない……」

 青ざめてカヤナが目をそらすと、盛大な溜息をつかれたが、イズサミはクラトに向き直って「大丈夫?」などと声をかけてやっていた。

「ああ……ありがとう。カヤナに逢えて良かったな」
「どうして君は空から落ちてきたの?」

 イズサミは立ち上がると、クラトに手を差しのべて身を起こすのを助けてやった。カヤナもそれに倣って起立するが、イズサミが恐くて会話に入れない。

「空からっていうか、おれ、セツマとアメツネの戦いに巻き込まれてたんだよ」
「あ、そうなんだ?」

 あまり興味のない様子で答えるイズサミの横で、ああ……とカヤナは頭を抱えた。どうせこうなることだろうとは思っていたが、事実になると余計に凹む。

「なんかあの二人、戦うのを楽しんでるみたいだったけど」

 今度はカヤナに振ってきたので、カヤナはくらくらする思考をどうにか支えながら答えた。

「そうだろうよ。アメツネはよく分からんが、セツマは好戦的な人間だからな。容易に想像できるよ、世界を滅ぼしかねない勢いで二人が戦っているのが……」
「セツマにとっては、互角に戦える相手がいて嬉しいのかもしれないな」
「互角……には及ばないだろうが、世界最強と二位との戦いって感じだろう」
「でもさ」

 不意に、イズサミが口を挟む。

「放っておけばいいんじゃない?」

 あっけらかんとした一言に、カヤナとクラトは顔を見合わせた。

『……』
「セツマって、カヤナにくっついてた人だよね? ボク、あの人のこと好きじゃないし、アメツネって奴にもカヤナは関わりたくないわけだから、二人が二人で勝手に戦ってれば、接触しなくて済むじゃない」

 至極道理なことを言われ、口元に手を当てながら、ふむ、それもそうだなとカヤナは頷いた。

「その通りだ。クラトもここにいるし」
「えっ……おれここにいていいのか? 邪魔じゃないか?」

 慌てた様子の彼に、カヤナは愛おしさすら覚えて苦笑した。クラトの肩をぽんぽんと叩く。

「お前は本当に謙虚だなあ……」
「いや、そうじゃなくて、おれすごい居づらいんだけど」
「ボクも困るよ。カヤナと二人きりじゃなくなっちゃうじゃない」
「うーむ……」

 これはいささか困った事態だとカヤナは考え込んだ。クラトを放っておけばセツマやアメツネがどんな攻撃をしかけてくるか分からないし、だからといってクラトとイズサミを同伴しても、二人の精神衛生上よくないような気がする。そもそも彼らが自分を好いているんだからいけないんだという思考に戻りかけたが、これでは堂々巡りだと振り払った。
 だんだん訳が分からなくなってきて、カヤナは乾いた笑いを浮かべて何気ない考えを口にした。

「アメツネが味方になって、クラトを生き返らせてくれればなあ……」
「はあ!? カヤナ、むちゃくちゃなこと言うなよ。おれも死んだんだぞ?」
「え、君、死んだんだ?」

 イズサミがきょとんとしてクラトに問う。クラトは呆れた様子で「当たり前だろ」と吐き捨てた。

「バルハラにいるんだから」
「あ、そっか……ふーん、君、死んだんだ? どうして?」
「テロで刺されて死んだんだよ。即死だったみたいだ」
「そうなんだ、若いのに大変だね」

 お前に言われたくないと落胆したようにクラトが呟く。二人の姿を見ながら、カヤナは思考を巡らせていたが、特によい案が思いつかなかったので、再び特に何も考えずに適当なことを口にした。

「とりあえずバルハラ巡りをして、クラトを生き返らせる方法を見つけよう」
「!? カヤナっ、だからおれは死んだんだって」
「私は死んだことを認めていないぞ。アメツネが役に立たないなら、自力で蘇生の方法を探すしかない」
「いや、認めるも認めないも、おれは死んだんだよ!」
「君はカヤナと一緒にいられればいいと思ってるんでしょ。あいにく、カヤナはボクの恋人だからね」
「ちーがーう! だから、おれは別に生き返らなくたっていい……っていうか、死んだ人間が生き返ったらおかしいだろ!?」

 それでは私たちの立場がないなあと言いつつ、喚いているクラトを無視し、カヤナとイズサミは歩き始めた。不死の薬がバルハラにあるのなら、きっと蘇生の薬もあるはずだろう。もしかしたらアメツネはバルハラの薬でいろんな魔術を開発してきたのかもしれないなと暢気にイズサミと会話しながら、置いていくぞクラト!とカヤナが振り返ると、離れたところでがっくりと肩を落としている元警備隊の男の姿が目に入った。