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「カヤナ」

 声がし、ゆるゆると目を開いた時、初めに見えたのは青い髪だった。ん、と返事をしながら身体を動かすが、背中が痛い。ごつごつとしたものに当たっている。そうだ自分は木の根元にいて、そのまま寝てしまっていたらしい――襲ってきた明るさに目をしばたたかせ、顔にかかっている髪を掻き上げると、すぐそばにいる人物はイズサミであることが分かった。カヤナの近くに座り、顔を覗き込んでいる。

「大丈夫、カヤナ?」
「ああ、イズサミ……お前もアメツネのせいでここに来たのか」
「え?」

 目をぱちくりさせ、イズサミは問い返した。

「あめ、つね?」
「ん? ああ……違うのか? というかお前、あの後どこに行った?」
「……なんのこと?」

 疑問符をたくさん頭につけた様子で、訝しげに訊いてくる。訳が分からないという顔のイズサミを変に思い、彼の瞳を少しの間じっと眺め、座り直しつつ再び尋ねた。

「あの後だよ。神殿みたいな場所からすっ飛ばされただろ……あ、いや、私が転送させられたのか?」
「? 何言ってるのカヤナ……ボクたちが会ったのは、今日は、今が初めてでしょ」

 言われ、いや、バルハラには時間の概念は無いと思うがと言うと、イズサミは「バルハラ!?」と大げさに驚いた。そして声を上げて笑い出す。

「ボクたちまだ死んでないよ!」
「え? いや……死んだだろ」
「何言ってるのカヤナ……あ、夢でも見たんでしょ。やだなあ、もうすぐ婚儀だっていうのに、不吉じゃないか」
「婚儀?」

 一体何の話だと問い返す。ここが過去なら、カヤナとセツマの婚姻のことを言っているのだろうか。しかし当時はもうイズサミは自分に殺されて存在していなかったはずだし……と考えていると、急にイズサミは不安そうな顔になってカヤナの肩に手を置いた。

「何の話って……ボクたちの婚儀だよ。もうすぐ式でしょ」
「は? 私たちが?」
「ボクたちの婚儀でしょ!?」

 強い口調で言われ、肩を揺さぶられる。現実味を帯びたイズサミの言いぐさに、もしかしたらこれは過去ではなく自分の夢なのかもしれないと思ったカヤナは、慌てて取り繕ってみせた。

「あ、ああ、そうだな。うん、その……夢と混同してしまっているらしいな。ここで居眠りをしてしまったんだ」
「もうー、びっくりさせないでよ」

 ホッと胸をなで下ろし、イズサミはいつもの人なつこい笑みを浮かべて、カヤナに寄り添うように隣に座った。こんなところをタカマハラ家やヤスナ家の者に見られたらまずいのではないのかと不安になるが、もしここが夢ならきっと全てが都合良く作られているはずだ。試しに、カヤナは訊いてみた。

「なあ……お前の兄貴は婚儀に対してなんと言っていた?」
「兄さま? 兄さまもすごく嬉しそうだったよ。最近子どもが生まれたから、ボクたちの子どもも早く見たいって」
「そう、か……」
「タカマハラ家とヤスナ家は代々仲が良いからね」

 事実とはかけ離れたことを言われ、カヤナは眉間に皺を寄せるが、イズサミは気が付いていないようだった。その後も爛々とした様子で続ける。

「ボクたちの婚儀、みんながお祝いしてくれるんじゃないかなあ。ナオツ王も、カヤナのお父さんも、弟くんも」
「……」
「あ、そういえばね、ボクの婚礼服を今度見てくれる? 兄さまが選んでくれたんだけど、カヤナの気に入るかなあと思って」
「……」
「ねえ、カヤナの服はどんな感じなの? もう決まった? ボクも見たいな。でも当日のお楽しみだよね」
「翼は」

 口から、そんな問いが思わず漏れた。

「翼はどうした?」
「翼? 翼がどうかした?」

 あれだけ翼の存在に縛られてきたというのに、何事も無いかのように返してくる彼の口調に苛立ちを覚え、カヤナは真剣な面持ちで振り返り、問いつめた。

「翼はどうしたと訊いている」
「翼って……ボクたちには関係ないでしょ。あれは王の血族に生えるもので」
「私たちにも翼があっただろ!?」

 声を張り上げ、凄んでみせると、イズサミはますます訝しげに首をかしげた。

「カヤナ、一体どうしたの。ボクたちには翼なんてないでしょ」

 とんでもない台詞に、カヤナはこぼれ落ちそうなほど目を丸くした。無いだと、と掠れた声で呟く。
 イズサミが心配そうに背中を撫で、顔をじっと見つめてくる。彼が、カヤナの嘘を見抜こうとするときの仕草だ。偽りなどではないと言うつもりで、カヤナは彼を見つめ返した。しかし、イズサミは言葉を覆すでもなく、少し休んだ方がいいんじゃない?と嘆息した。

「疲れてるんだよ。準備でいろいろ忙しいから」
「違う……私たちは、だって……」

 姉弟なんだと続けかけて、口を噤む。たとえこれが夢にしろ、ここでは嘘になるにしろ、イズサミはこの言葉にひどく傷つくはずだ。
 夢だ、これは夢だ――自分の願望が見せる、甘美な夢なのだ。ここは血のつながりに悩むことも家同士の確執に悩むことも無い世界なのだ。両家は仲が良く、争いごとなども無く、カヤナとイズサミの婚姻に誰も反対しないような、平和な世界。そう、二人が腹違いの姉弟ですらない――

「……イズサミ……」

 苦しみすら知らなそうな彼の綺麗で透きとおった黄金色の瞳を見て、カヤナは泣きたくなった。

「私たちは……」
「……カヤナ」

 頬に当てられたカヤナの手を上から覆い、イズサミは苦笑した。自分よりも大きな手のひらが、カヤナには切なかった。あの時代、これだけ成長していた二人には、きっと許されなかった恋仲の男女の触れ合い。

「カヤナ」

 名を呼び合うことすら良しと思われなかったのに。

「……イズサミ。これはきっと私の望みだったのだろうが……許されないんだ」
「カヤナ、言わないで……」
「あの時代、私たちは結ばれない運命だった。これは本当に優しくて甘い夢だが……私たちが私たちではなくなってしまう」
「言わないでよ、カヤナ。ここにいようよ、夢でもいいじゃない」

 悲しい、震えた声が彼の唇から漏れる。またこんな悲痛な思いをさせている自分に嫌気が差したが、嘘を真実だと言ってごまかすことはできなかった。
 真実は真実だからこそ、過去を形成するのだ。これでは、二人の未来まで否定することになってしまう。

「私は決しておとずれた未来を拒んでいるわけではないんだ」

 微笑し、カヤナはもう片方の手でイズサミの頭を撫でる。彼の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、とても悲しい涙だ。

「ただ、少しつらい過去だったと、今では思い出すだけだ。
 それでもいい、私たちは二千年後にまた逢えた。それでいい。それこそが真実だったのだから」
「カヤナ、どうして一緒に逃げてくれなかったの?」

 ボクのこと嫌いになっちゃったの?とイズサミは涙混じりに言う。何度も訊くのは、よほどショックだったからだろう。カヤナは、馬鹿だなあ、と彼の身体を強く抱きしめた。
 今だけはいいだろう、このように抱きしめたとしても。ここは現実ではないのだから、当時のように咎める者は誰もいない。

「お前が死んだあとも、私はお前を想っていたよ。当主となっても、セツマと婚儀をしても、愛する心を失っても、時が流れても、お前だけを想っていたよ。お前だけを愛していた。他の誰も愛することはできなかったから」
「カヤナ……」
「お前と一緒に逃げられなかった罪を償い続けていた」

 そうだ、自分は――

「本当は、ずっと償い続けていたんだ」

 あの時から、彼を殺してしまったときから、イズサミへの愛を守り続けることで、贖罪をしてきたではないか。

「決して他の人間を愛することがないようにと、人を愛する心を失ってまで、お前を愛していた」

 愛する心をアメツネに奪わせたのは、自分がイズサミを愛し続けていたからだ。イズサミを愛することを決して忘れないようにと、何者にも上書きができないようにと、カヤナは、今後自分が誰かを愛する心を失わせた。それこそがカヤナの真実だった。

「カヤナ、カヤナ」

 半ば泣き声で、彼は、彼女の名を呼んだ。

「イズサミ」

 彼女も、彼の名を優しい声で呼ぶ。

「私たちは死んだんだ。なあ、イズサミ、そうだろう。悲しい運命の中で、私たちは死んだ。抗えずに。でも最期、私たちは一緒だったよ。いつも一緒だった。愛する人が死ぬときは、いつも。腕の中で、すぐそばで」
「カヤナ……ボクたちは、まだ一緒にいられないの?」

 死んでもまだ?と訊いてくる。カヤナは返答に困惑した。死んだら今度は一緒にいられると思っていたのに、他の愛が、それを邪魔する。イズサミの安らぎはカヤナと共にある。しかし、今のカヤナでは愛の安らぎを彼に与えられないだろう。

「永遠に、一緒にはいられないの?」

 永遠に? その一言を聞いてカヤナの心が凍りついた。永遠に、願いは叶わないのだろうか。イズサミが死んだあと、あれだけ苦しんだというのに、あの苦しみだけでは足りず、どんなに苦痛に苛まれたとしても、希った愛にたどり着けることはないというのだろうか。カヤナとイズサミは永久に苦しみ続ける運命だというのだろうか。
 そんなことを許せるほど、カヤナは強くはない。

「いられるさ」

 両腕に力を込め、カヤナは必死に言葉を紡いだ。

「きっと、一緒にいられるさ。だから、諦めるな。お前がどこにいても、私は会いに行く。もう約束を破ったりはしない」
「本当?」

 身体を離し、じいとカヤナの目を見つめて真偽を探ってくる。涙に濡れた頬が痛々しかった。
 カヤナは、信じろと、イズサミの顔を両手で包み、笑んだ。

「私たちの愛は負けない」

 そのとき、周囲に風が巻き起こった。強く激しいが、優しい風が。花びらと木の葉が勢いよく舞い上がり、ざわざわと木の葉が音を立てる。驚いていると、イズサミの背中に白い翼がばさりと生えた。

「カヤナ、行くよ」

 イズサミの涙の面持ちは、いつの間に、何かを決心した勇気の表情に変わっていた。カヤナの手を取り、強く握る。
 カヤナが首を傾げ、

「行く? どこへ……」

 問うと、彼はソルのある方向を見上げて答えた。

「この空間を打ち破るんだ」

 イズサミはカヤナの身体を抱き起こし、勢いよく飛翔した。どんどん地面が遠ざかり、色とりどりの花畑が眼下に広がった。あまりのスピードに落ちそうになって、カヤナはイズサミの首元に抱きつく。

「お前……ここがアメツネの空間だと?」

 ぐっと上を見上げ、飛んだまま、彼は確信を持った調子で頷いた。

「うん。とても力の強い何かがいるのが分かる。でもボクにならこの空間を破れるよ」

 果たしてこんなに凛々しい青年だったろうかと、カヤナは彼の横顔を間近で見つめながら思う。

「ボクは一度弱くなったけど、君を愛したことで強くなった事実は変わらない」

 その一言は、重く、強かった。愛するという言葉を真っ直ぐに受け止められている自分に、カヤナはじんわりとした感動を覚え、彼の肩に頭を押しつけて目を閉じた。涙が睫毛に溜まっているのが分かる。

「カヤナ、衝撃に耐えて!」

 すさまじい勢いの中で、イズサミは叫ぶ。カヤナは言われたとおり身を縮め、イズサミに強い力で抱きついた。イズサミの両手がカヤナの背中を守るように包んでくれる。
 高速で飛んだ時に起こる耳鳴りがし、その音がみるみるうちに高い音へと変化する。あまりに強い光のせいで目は開けていられなかった。そして、突然、ガシャーンとガラスの割れるような音がした。