14





 だが、気がかりなのがクラトだった。カヤナがイズサミの元に飛んでくる前は、セツマとアメツネが彼と共にいた。いくら警備隊にいた優秀な男だとしても、あの二人に比べてクラトが弱いのは確かだ。カヤナ絡みで二人から攻撃をされていたら、さすがのカヤナも黙っているわけにはいかない。

「……イズサミ」

 正直に話すべきか迷いは覚えたが、それ以上にクラトのことが心配である。神殿らしき建物の、祭壇に向かうための短い階段に腰掛けていたイズサミは顔を上げ、下の段に佇んでいるカヤナを見上げた。

「ん?」
「バルハラに来て……少し、その、気がかりなことがあってな」
「気がかり?」

 うん、とカヤナは喉の奥で頷き、

「知り合いが死んだ、らしい。私が復活した際、世話になった奴だ」
「そうなの? 誰?」
「お前も知っている奴さ……タカマハラ王の、警備隊にいた」

 なるべく動揺を見せないように語っているつもりだが、もともとカヤナは嘘をつくのが苦手である。先ほど彼に「バルハラに来てからは人に会っていない」と説明してしまった以上、出来る限りごまかさなればならない。しかし、そう意識するほどカヤナの口調はぎこちなくなってきた。

「……彼が迷っているんじゃないかと思ってな。初めてのバルハラだろうし」
「ボクもここは初めてだけど……」

 のろのろと腰を上げ、手を腰に当てて不思議そうな顔をしている。段差が分あるため、いつもよりイズサミの背が高く感じられた。じっと淡黄色の瞳で見つめられ、嘘を見抜かれる恐れを抱いて視線を反らしたかったが、それでよけいに疑われたら困ると考え、今度は不自然に彼の両目を見つめ返してしまった。

「……」
「……」

 沈黙。

「……カヤナ、嘘ついてる?」

 ずはり言い当てられ、言葉に詰まった。うつむき、目を伏せ、なんでだ?としどろもどろに尋ね返す。
 イズサミも返答に困ったらしく、うーんと小さく唸った後、カヤナの顔を下から覗き込んだ。

「カヤナって、ボクに一回嘘をついたことがあるから」
「え?」

 思わず顔を上げる。イズサミは薄く苦笑して、指先で頬を掻いた。

「嘘というか、ボクに別れを告げた時と同じだからさ。本当のことを言えない時、カヤナは深刻そうな顔をしてうつむくから」
「…………」
「もしかして……あの時みたいに深刻なこと?」

 彼の口調が急に不安げになった。カヤナは大慌てで首を横に振る。

「そ、そういうわけではない。ただ、その」

 だが、自分を好いているせいで他の厄介な男たちからクラトが迷惑を被っているのではないか、とは、さすがに言いづらいものがある。何か良い説明は無いかと賢明に頭を働かせたが、元々そういった思考回路を使い慣れていないため、何も思いつかなかった。結局うなだれ、弱々しい声で呟く。

「その……色々と厄介なことになっていてな、バルハラも」
「そうなんだ? よく分かんないけど……」

 困惑した声で言いながらカヤナの片手をそっと握ってくる。再び顔を上げると、イズサミは少し悲しげに微笑した。

「ボクは、カヤナのことを信じるよ。君がボクのことを好きでいてくれるのは、すごく伝わってきたから」

 優しく言われ、カヤナの心が微かに軋む。あれだけの裏切りを犯したのだ、信頼という言葉すらイズサミの口から出てくるのは申し訳ない気持ちになるが、それでも彼は真っ直ぐにカヤナを信じようと努力をしてくれている。あの生粋さゆえに宿った狂気が消えた慈悲深い目は、カヤナの知らない色をしていた。綺麗だが、憂いのある、賢明さのある目。彼にこんな目をさせているのは自分なのだと、切ない気持ちでいっぱいになる。

「イズサミ……お前は私を憎んでもいいんだぞ」

 思わずそんな台詞が口から漏れた。イズサミは驚いたように目を丸くし、じっとカヤナを見つめ返す。

「カヤナ……」
「私は、お前に憎まれるほどのことをした。あんなに私を求めていたのにも関わらず、私はお前に何も言わずに突き放し、あげくの果てにお前を殺した。死んでも償えない罪だ。お前に憎まれたところで私の罪は消えないが……」

 それは、自分が救われたいための言い訳なのではないかと思い、カヤナは情けなくなってうなだれた。黒髪を片手でくしゃりと握り、目を閉じる。

「あの二回目の最期の時、剣を交えた私をお前が殺してくれて、私は良かったと思った。お前の憎しみが少しでも晴れるのならばと」
「ボクが」

 不意に、イズサミが泣き出しそうな声を出した。

「ボクが、君を本当に殺したかったと思ってる?」

 問われ、カヤナは顔を伏せたまま、苦々しく首を横に振る。

「……あれは、お前であってお前でなかったからな」
「カヤナ。君は今でもボクと隔たっているんだね」

 その、絶望の混じった泣きそうに笑っている声音に、カヤナはハッとした。おそるおそる顔を上げ、イズサミを見やると、彼はひどくつらそうにじっと神殿の床を睨んでいた。
 イズサミ、と掠れた声で彼の名を呼ぶ。だが、彼はカヤナと目を合わせなかった。いつもは苦しいほどに真っ直ぐ見つめてくれる彼が。

「君は、罪悪感をボクに抱いている……
 カヤナ。ボクに対する罪悪感が君を苦しめるのなら、ボクは君と一緒にいない方がいいの?」

 相手に依存することを望むイズサミらしくない台詞に、カヤナの心に徐々に焦りが生まれる。
 彼はショックを受けたのだ。カヤナのイズサミに対する想いが、二千年前に彼を愛していた時とは違っていることに気が付いて。確かに今でもカヤナはイズサミを愛しているが、その愛には、自らが彼を殺めたという罪悪感が重なっている。拭おうと願っても決して消えない罪に対する永遠の懺悔や慈悲。それは果たして純粋な愛であると言えるのだろうか?
 カヤナ自身もその問いの答えに悩んでいたところだ。イズサミの言葉に何と返して良いのか分からない。
 ――しかし。

「イズサミ。お前は、私がお前を本当に突き放したいから、逢いたくないから、お前から遠ざかっていたと思っているのか?」

 疑問に対し、疑問で返すのは嫌だった。けれど、それだけは分かってほしかった。
 カヤナの問いかけに、イズサミは悲しそうな顔をして口を閉ざした。彼もまた迷っているのだ。あれだけの大きな裏切りを犯したカヤナの気持ちを信じていいのかどうか。
 だが、彼は言うのだろう。

「ボクは……カヤナに幸せになってほしいんだ」

 彼は優しいから、カヤナを責め立てることなど、したくても出来ないのだ。

「その幸せに、ボクは必要なのかな」

 彼の、あまりに無垢すぎて胸の痛くなる問いに、カヤナの目に涙がいっぱいに溜まる。息が詰まり、呼吸が乱れ始める。
 先ほどから彼の前で泣いてばかりではないか。自分は果たしてこんなに弱い人間だったろうか、女だったろうか。
 当たり前だろうという彼への返答は、嗚咽によって妨げられた。声が出ない代わりにイズサミの衣服の胸元を右手でぎゅうと握りしめる。
 必要だ。お前が必要だ。お前がいなくなったせいで自分の歯車は狂い始めたのだから。今度こそ二人で逃げよう。幸せになろう。
 呼吸を整え、ようやく言いたい言葉を口に出そうとした、その瞬間だった。
 すっと手の中にあるイズサミの服の感触が消え、驚いている間に身体が前のめりになった。イズサミのいたはずの場所に自分が滑り込んで、思わず転びそうになるのを足で抑える。慌てて背後を振り返ると、イズサミの姿が忽然と消えていた。

「イ、イズサミ?」

 自分たちのいた建物の中ですら無くなっている。そこは白い空間だった。足下も真っ白で、自分が今そこに佇んでいるのかさえ分からなくなる。
 この白い景色には見覚えがある。彼の部屋の窓から見た奇妙な空間だ。

「……アメツネ!」

 瞬時に怒りを覚え、カヤナは男の名を叫んだ。だが返事は無い。また彼に勝手に転送されたようだ。

「大人げない!」 

 今回ばかりは許せんと地団太を踏んで言う。すると、白い空間に揺らぎのようなものが現れ、そこから思った通りにアメツネが姿を見せた。うっすらと微笑しているのはいつもの彼に違いないが、カヤナにはそれが腹立たしくて仕方がなかった。

「貴様、いい加減にしろ! イズサミをどうしたっ」
「クラトが心配だという言葉が聞こえてな」

 それは、威嚇とも思えるほど平然とした声だった。カヤナの頭に血が上る。

「だからって今……!」
「私も胸が痛いさ」

 性悪な薄ら笑いを浮かべながら、彼は涼しげに宙に腰をかけ、脚を組んでそう言った。カヤナの頭の中で、ぶちんと何かが音を立てて切れる。

「アメツネェェ!!」

 ごう、とカヤナの周囲に風が生まれる。黒い翼がカヤナの背中から現れ、怒りに満ちた旋風を巻き起こした。

「貴様、いい加減にしろ! 約束はどうしたァ!!」

 抜けた黒い羽がアメツネ目がけて吹き荒れる。だが、彼の周囲は見えない壁に守られているのか、羽の嵐は彼を中心に割るようにして左右に流れていってしまった。それに気が付き、今度は剣を抜いてアメツネに切っ先を向ける。白い空間でぎらりと刃が光った。
 カヤナは腹の底から叫ぶ。

「そもそも元凶はお前だ! 何が私の未来が見たいだ、興味がある、だ! 私はお前の娯楽ではない!!」
「何を逆上している」
「私とイズサミの邪魔をするなァ!!」

 ドン、と風の塊がアメツネに向かって放たれる。アメツネは黒い羽の吹き乱れる中、瞬時に姿を消し、少し離れた所に再び現れた。カヤナの怒りが満ち、すかさず翼と全身から風弾がアメツネを襲う。しかし、それもまた姿を消すことで避けられてしまった。

「邪魔をしているわけではないのだがな」

 急に、耳元で声がした。背後に重苦しい気配を感じ、カヤナの身体がぞわりと粟立つ。

「ただ、私は見たいだけだ、時の流れのある者の行く末を……その者たちが死しても、なお」

 その低い声は、静かだが、嗤っていた。カヤナの全身から血の気が引く。

「貴様ぁぁぁ!!」

 振り向きざま右手の剣でアメツネに斬りかかった。黒髪と黒い羽がスローモーションのように舞う。刃が届くより先にアメツネの顔が見えたが、彼の濃く長い髪が風に揺れて表情は分からなかった。
 剣の刃が彼の身体に届きそうになった途端、重力がカヤナを襲った。どさりと地面に叩き付けられ、身体がきしむ。

「ぐっ……」

 身体を縮めてその痛みに耐える。不思議なものだ、死んでも未だ痛覚はあるらしい。
 しかめ面で目を開けると、花が見えた。黄色い花が密集して咲いており、強い香りが鼻をつく。一体どこだと痺れる身体を起こして周囲を見回すと、それは見覚えのある花畑だった。少し離れたところに大きな木が一本生えている。

「ここは……」

 ここは、かつてイズサミと会い、一緒に逃げようと言い出した彼を拒んだ場所だ。今でも思い出したくない場所に突き落とした男への怒りで、頭がいっぱいになる。

「ちっ、悪趣味な!」

 憎悪で殺気立つ心をどうにか鎮めようと、カヤナは出しっぱなしの翼をやっとの思いで仕舞った。翼があると、どうも感情のコントロールが上手くできなくなってしまう。翼を出すことが力の発現だからかもしれない。
 髪の毛についた花びらや葉っぱを乱暴に手で払い、カヤナは鞘に仕舞った剣を杖代わりにして立ち上がった。どうやら周囲には誰もいないようだ。温かな陽射しと柔らかな風が吹く、かつての記憶と変わりない平和な風景。多分、ここは過去なのだろう。アメツネが勝手に連れてきたのだ。

「ふん……ここで過去の私たちでも見せるつもりか? だからといってどうなる。人は過去を踏み台にして生きると言ったのはお前だぞ、アメツネ」

 ぶつぶつと独り言を言いながら、カヤナは剣を腰に戻して前へと進んだ。花を踏みながら、木の方へと向かう。

「訳が分からん。もういい加減にしてくれ……お前に翻弄されるのはうんざりだ」

 こんなことなら魂ごと消してくれとアメツネに頼んでおくべきだったと深いため息をつき、木のそばに行って根本にしゃがんだ。一連の出来事の疲れがどっと身体を襲い、幹を背もたれにしてずるずると座り込む。上を見上げると、木漏れ日がきらきらと葉の合間からこぼれ差してきて眩しい。
 はあ、と深い息を吐き、呟く。

「なあ……イズサミ。私は……」

 言いかけて、口を閉じる。目をつむると、ソルの光がゆらゆらと瞼の裏で波を作った。
 あれだけ逢いたいと願い、ようやく死者の国で二人安らかに過ごせると思ったのに、このざまだ。運命は、何がなんでもカヤナとイズサミを引き離したいらしい。死しても未だ一緒になることを許してくれないのだろうか。これでは、死者の国バルハラなど生前の世界と変わりないではないか。バルハラは生という務めを終えた者どもが永久の安寧を手に入れる場所ではなかったのか。
 カヤナは両手で顔を覆った。いつまでも心が安まらない。愛という名の憎悪がカヤナの周囲を取り巻いている。もはや自分自身ではなく男どもの方が気の毒に思えてならなかった。自分などのために苦しみ、争い、憎み、傷つけ合っている。人間は命絶えても私欲や愚鈍から抜け出せないようだ。
 馬鹿馬鹿しい。もう終わりにしてしまいたい。それでなければ、イズサミと二人でバルハラでもどこでもない場所へ逃げ去ってしまいたい。

「イズサミ、もう逃げよう……あの時の約束を果たそう……」

 力無く言いながら、カヤナに急激な眠気が襲ってきた。疲労感からだろうか。それともこの強い花の香りのせいだろうか……。カヤナの意識は闇の底へと沈み始めた。