13
二人してひとしきり泣いた後、カヤナとイズサミは立ち上がった。床に座り込んでいたせいで、いい加減尻が痛くなってきたのだ。
だが、カヤナと離れることを未だ恐れているらしいイズサミは、カヤナと手を繋いだまま放そうとしなかった。しっかりと五本の指が絡められてしまい、そう簡単には離れられない状態だ。
なんだかこういうのは照れくさいんだがなと思いつつ、カヤナはイズサミを見上げた。
「これからどうする?」
自分も永久の時を過ごさなければならなくなった身である。イズサミにそう問うのは奇妙な気もしたが、イズサミは素直に考え込んでくれた。
「うーん……何も考えてないや。ボクはカヤナに逢えれば、それでいいって思ってたから」
「この建物の探索でもしてみるか? 正直、私にもバルハラは得体が知れなくて気味が悪いからな」
「あ、うん……でもカヤナ、ここに来る前は一人だったの? 誰にも会わなかったの?」
話を聞くと、イズサミは自分の祖先やかつての知り合いとバルハラで出くわしたことがあるらしい。だが、それは偶然の出会いであって、カヤナのようにアメツネに翻弄されているような遭遇ではない。
アメツネやセツマ、クラトの名を出すと警戒するかもしれないと懸念し、カヤナは首を横に振った。
「特に誰とも。すれ違っていたのかもしれないが、私は気がつかなかった」
「そうなんだ。じゃ、ボクが独り占めしちゃっても大丈夫だね?」
もともと独り占めする気だったけどねと無邪気に笑い、繋いだ手に力を込めてくる。以前、俗に言う神話時代の頃は羞恥など全く覚えなかったのだが、今は前とは違いイズサミに対する罪悪感を抱いているため、このような身体の触れ合いを持つのは複雑な気持ちだった。しかし、嫌ではないので抵抗する気も起きなかった。イズサミが自分に心を許してくれている証拠だからだ。
「ふふっ、嬉しいな。子どもの頃に戻ったみたい」
「そうだな……」
「色々あったけど、ボク、バルハラに来てようやく心が楽になったんだ」
あてもなく建物の中をゆっくり歩きながら、イズサミは言った。カヤナが横顔を見上げると、彼は前方を見て微笑していた。あの、まるで別人のようにも感じられる表情だ。
「カヤナにとどめを刺されて……あの時、すごく悲しかったけれど、カヤナが一緒にいていいって言ってくれたから、ボクは本当に嬉しかったんだ」
「……」
「ねえ、カヤナはボクのことを嫌いになっちゃったの?」
不安そうに訊いてくる。それは、カヤナが愛する心を失っている間のことを問うているのだろう。だが、カヤナには、それが二千年前にイズサミが逢瀬を拒む自分に向けて発せられたものと重なり、居たたまれない気持ちになった。
アメツネの対価により人を愛する心を失っていたと、イズサミには言ってもいいだろう。だが、彼がアメツネに対し敵意を向けることは避けたかった。カヤナが拒み続け、苦しまされた原因が魔術師にあると知ったら、イズサミも黙ってはいないはずだ。
「カヤナ?」
考え込むカヤナを不思議に思ったらしく、イズサミが覗き込んでくる。適当な言い訳を探したが、相応しいものが見つからなかった。
「……嫌いにはなっていない。ただ、真実を聞かされた時は動揺していたな。自分のことで精一杯で、正直、お前のことを思い遣る余裕は無かった」
「……」
「今後結ばれることは決して無いのだろうと諦めていた。諦めざるを得なかった。
闘いを拒み、お前が私を連れてどこかに逃げると言ってくれた時、私は一瞬でも心が揺らいだ。そうできればどんなにいいかと……だが」
「ボクはカヤナを責めてるんじゃないよ」
ぎゅうとカヤナの手を強く握りしめ、イズサミは真剣な目をして遮った。高い天井の長い廊下の中央あたりに立ち止まり、カヤナと向き合う。イズサミの声以外には、横に流れている水のせせらぎだけしか聞こえない。
イズサミを見つめ返す。彼の淡い黄色の、金色にも見える瞳が美しい。
「本当は、カヤナは一体どうしたかったのかとか、どう思ってたのかとか、ボクはカヤナの真実が知りたいんだ」
「私の……真実」
反芻し、カヤナは苦々しくうつむいた。どう答えるのがイズサミにとって、またカヤナを取り巻く人々にとって妥当なのか、すぐにはいい返答が思いつかなかった。カヤナとしては、イズサミを傷つけるようなことは二度としたくないし、周りのことなど気にせず真っ直ぐに自分の想いを伝えられればいい。だが、本音を言うと、自分自身の想いすらよく分からなかった。カヤナを好いているという者たちがバルハラにもいる限り、イズサミと彼らを対立させるようなことも避けたいのだ。下手をすると力のある者同士の争いが再三起こりかねない。
そもそも、自分がいるからいけない。誰かが自分を好くから物事がおかしくなっていくのだ。そんな己の存在を憎みながら、カヤナは力無く答えた。
「分からない……。お前のことも、国のことも、父のことも、民のことも……色々考えた。考えすぎて、何がなんだか分からなくなった……」
「……そっか」
「私は国のために自分自身を捨てた。そうしなければ、私は私という人間を保つことができなかった。
本当はきっと、お前を愛していると真っ直ぐに伝えたかったのかもしれないな……しがらみなど全て捨てて」
イズサミの頬を片手で撫でると、彼はくすぐったそうに目元を震わせたが、表情は無だった。カヤナもまた同じく感情を伴わずに続ける。
「けれど、私たちの真実を知った時、私の愛はひずんだ。気持ちが冷めたというわけではなく、ただ……封じ込めたのだろう。お前への恋としての愛を」
「だからあんなに悲しい目をしていたの?」
カヤナの手の甲を上から撫で、イズサミは悲痛な声を出した。
「カヤナがボクを殺したとき、カヤナはボクに同情の目を向けてた。ボクのことを可哀想だと思っている目だった。
ボクはその時、二年の間にカヤナは想いを消したんだと思ったんだ。もうボクは忘れられたんだ、ボクのことを好きじゃなくなったんだって……」
それがつらかったのだと彼は言う。そのことを確かめるために、再びカヤナの元に蘇りたかったのだと。
元はといえばカヤナが悪い。あんなに自分に逢いたがっていたイズサミに対し真実を告げず、冷たく突き放した。そして何も語らないまま彼を刺し殺し、死に追いやったのだ。もし自分がイズサミと同じ立場だったらどうだろう? きっと悲しみのあまり発狂してしまう――彼がそうだったように。
「カヤナ……こんなこと言いたくないけど、ボクは、君のことを真っ直ぐに信頼できない。また裏切られるんじゃないかって、心の中で怯えているんだ」
彼の嘆きに、カヤナは奥歯を噛み締めた。自分への信頼を失いかけているということもつらかったが、それ以上に、あんなにカヤナに懐いていたイズサミが不信感を感じてしまうまでに彼を顧みなかった自分自身に腹が立った。
イズサミの不信は当然だった。彼に殺されないことが不思議なくらいだ。何も語らずに離れていき、挙げ句の果てに殺し、暗い空間に押しやって、狂気を生み出した女なのである。
カヤナにはセツマを殺したいという願望を抱く資格などない。イズサミにも同じ仕打ちをしているのだから。しかし、イズサミは生来の気質からか、決してカヤナを激しく責め立てたりはしない。
目の前にいる彼の悲しげに伏せられた睫毛が痛々しい。どうして自分は好きな男にこんな顔をさせてしまっているのだろう。互いに死に絶え、現世の束縛から解放された死者の国にいる今も。
「……すまない。私は、お前から逃げていたのだ。ただひたすら逃げていたのだ……」
もう、それしか言えなかった。他の言葉は全て言い訳になってしまう。自分はバルハラにさえいる資格すらないのではないかとカヤナはうなだれた。
すると、不意に、イズサミの二つの手がカヤナの両頬に当てられた。少し力を込められ、うつむいた顔が持ち上がる。イズサミはカヤナの頬に軽く口づけをすると、優しげに薄く笑った。
「自分を責めないで、カヤナ」
言葉は、実に穏やかな口調で放たれた。
「ボクは、まだ怯えているし、君のことを完全に信頼できたわけじゃないけれど。
それでも、カヤナが好きっていう言葉を誰にでも使う人じゃないって分かってるし、きっと悩んだ末に言ってくれたんだって思うから」
唇を指先でなぞられる。以前見たときよりずっと大人びたイズサミの姿に、カヤナはどこか恍惚とした感覚を抱いた。
「ねえ、カヤナ。
今度こそ、ずっと側にいて。
昔、一緒に遊んでいた頃のように。
またボクのことを好きになって……」
それは、カヤナを咎めることにならないようにと気をつけられた、非常に優しい声だった。
カヤナは自分からイズサミに口づけをした。イズサミは少し驚いたようだが、すぐにその接吻を受け入れ、カヤナの背中に手を回した。
ああきっと、今この瞬間は罪となり、多くの人々から偏見と差別を持たれるのだろう。このバルハラでも、いつかいた世界と同じく心休まらない時が続くかもしれない。カヤナだけではなく、イズサミも深く傷つくだろう。二人は同じ罪を背負い、同じ痛みを抱き、同じ永遠の中で苦しみ続ける。
だが、もういい。
「私は、お前を愛し続けたい」
二人なら、こわくない。
ありふれた言葉なのに、カヤナは心からそう思った。同じものを全て共有する存在など、きっとこの先見つかるはずがないから。
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