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 泣いているカヤナを、イズサミは優しく抱きしめ、黒く長い髪を撫でていた。他に誰もいない建物の床に、二人とも未だべったりと座り込んだままだ。
 何度も何度も、飽くことなく、まるで子どもをあやすかのような手つきで、イズサミは黙ってカヤナのことを慰めていた。子どもっぽくてわがままでどうしようもない男だと思っていたのに、いつの間に大人びたことをするようになったと鼻をすすりながら思う。泣き疲れた目元が重い。
 そういえば自分は、人前で泣くことをほとんどしたことが無かった。以前アメツネの部屋でイズサミに逢った時に涙を流したが、あれは本当に久しぶりのことだった。泣くとしても、イズサミとセツマの前でしか泣いたことがなかった。セツマは従者ゆえに気を許すことができたため、自分の思うようにいかないと癇癪を起こして泣き喚くことができたが、それ以外で自分が泣くことしたのはイズサミの前だけだった。あの、イズサミを殺した時が、彼に涙を見せた初めての時だったかもしれない。
 今はどうだろう。どうして自分は泣いているのだろう。イズサミを殺めた時のように後悔しているから? 彼と共にいるのが苦しいから?

「……イズサミ……」

 溜息と共に声が出る。イズサミは、ん?と短く答え、腕に抱いているカヤナの顔を覗き込んだ。

「どうしたの?」
「いや……すまないな、みっともないところを見せて」
「えぇ?」

 可笑しそうに、イズサミは笑った。カヤナの背中をぽんぽんと手のひらで撫で、力を入れて抱き寄せてくる。

「ボクは嬉しいな。ボクが男になったみたい」
「……お前は男だろ」
「大人の男になったみたいで、ってことだよ」

 カヤナも本当に綺麗になったねと、彼は嬉しそうに言った。復活している間にも成長した互いを見る機会はあったが、慌ただしくて再会の喜びを分かち合うことすらできなかった。各々の目的があり、イズサミが狂気に呑み込まれていた以上、あまり望ましい再会では無かったのだが。
 しばらくカヤナが頭を胸元に預けて黙っていると、不意にイズサミが言った。

「……ねえ、カヤナ。あのさ」

 カヤナの髪を撫でながら、イズサミはどこか遠い目をしていた。その横顔は、まるで別人のようだった。

「もうボクは……君に、さよならって言わなくていいのかな」

 横から見える彼の淡黄色の瞳が陰っていて、少し不安になる。どうした、と指先で軽く頬を撫でてやると、イズサミは目線だけカヤナに向け、小さく笑みを浮かべた。それは、イズサミにしては憂いを帯びた、寂しげな微笑だった。

「実はね、ボク、君にさよならって言わなきゃいけないって、ずっと思ってたんだ」
「……そうなのか」
「カヤナがボクと別れたそうだったから、ボクもカヤナに頼らず独りで生きていけるようにならなきゃって。そうなれたら、君にさよならって言おうって……
 でも、言えなかった。本当に君のことが好きだったから……」

 子どもがぬいぐるみを抱きしめるように両腕に力がこもる。少し苦しかったが、カヤナは何も言わなかった。

「ボクたちが姉弟だから、カヤナは苦しんでたんだよね。ボクよりずっと前にそれを知っていたから」
「……」
「どうして言ってくれなかったの? ……いや、言えないよね。ボクも同じ立場たったら、きっと言えないや。恐くて……」

 髪の間に指を差し入れ、引き寄せて肩口にカヤナの頭を押し当ててくる。もはや解放されることは無いのではないかと思うほど、彼はカヤナのことを離したがらなかった。
 気持ちは分かる。カヤナが愛する心を失っていた間にも、イズサミはずっとカヤナのことを想い続けていたのだから。あの薄暗い、どこにあるかも分からない奇妙な空間でも、彼はカヤナに助けを求め続けていたのだろう。利用され、ひどく傷つけられ、イズサミの心は凍りつき、狂気に蝕まれてしまった。その間、一方の自分は復讐のために時を費やしていた。対価のために愛が何かを忘れていたとはいえ、なんと身勝手なことだろうか。
 すまないという気持ちを込めて、イズサミの頭に手を伸ばし、控えめに撫でてやる。

「私も、恐かった。お前が真実を知って傷つくことが」
「……うん」
「だが、本当は教えた方が良かったのだろうか? 私が父上から本当のことを知らされた時、すぐに……私たちは、実は姉弟だったのだと」
「信じなかったと思う」

 髪を撫でるカヤナの手を取り、手のひらに軽く口づけをしながら、イズサミはうっすら苦笑した。

「そんなことを言われても、信じなかったと思う。きっとカヤナが誰かにそう言わされてるんだと思って」
「……」
「それに、姉弟だと知っても、ボクは君のことを忘れられないよ」

 今のように、とイズサミはカヤナの頬に唇を這わせた。くすぐったさでカヤナは身じろいだが、抵抗はしなかった。
 彼の美しい瞳が間近にある。とても綺麗で、純朴な瞳だ。カヤナは、彼のどこまでも透明で無垢な心に恋をした。そこには身分や血筋など関係がなかった。相手がイズサミという男だから、カヤナは女として彼を愛したのだ。

「イズサミ……」

 清純な想いが自分の中にある。傷つけ合ったからこそ研ぎすまされた想い。悩んだ末にあった真実は、様々な要素を取り除いた時に生まれた、彼に対する純粋な愛情だった。

「イズサミ」

 もし、この言葉が罪になっても。

「私も、きっと……お前のことを、愛して、いる……」

 この言葉こそが、自分の真実でしかないのだろう。
 カヤナの告白を耳にしたイズサミが、目を見開く。カヤナを見つめ、信じられないという表情をしている。
 そしてすぐに泣き出しそうに顔が歪む。目が潤み、充血し始める。唇が震え、耐えるように歯で小さく噛み締めている。
 涙が浮かび、その瞳は水気でいっぱいになる。呼吸が徐々に荒れていく。彼の苦しむような喉の奥の声音が、すぐ側で聞こえる。
 ああ、美しい。本当に美しい泣き顔だ。
 耐えきれなくなったらしいイズサミは、吐き出すような溜息と共に両目から涙を流し始めた。今度は、カヤナが彼を慰める番だ。

「イズサミ、泣くなよ」

 だが、彼の涙につられて自分も泣き出しそうな気がする。イズサミの柔らかな青い髪を撫で、せめて今は我慢しなければと自戒した。

「……カヤナ」

 イズサミは、今までとは違う、慈しむような手つきでカヤナの背中を抱いた。まるで壊れ物を扱うような、ひどく怯えている手のひらが肩を撫でてくる。
 お前はもう怖がることなどないのだと、カヤナはイズサミを抱き返すことで伝えた。

「……君を、また、愛してもいい?」

 震える声で放たれたイズサミの言葉に、カヤナの目に涙が浮かんだ。彼の首もとに顔を伏せ、小さく頷く。
 たとえ誰に咎められてもいい。姉弟が愛し合うなんてと指を差されてもいい。誰かに愚弄されても、迫害されてもいい。
 その痛みを乗り越えて、自分はイズサミを愛し、守り続けたいのだから。