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「カヤナ!」
かつての恋人の声音が間近でして、カヤナはハッとして身体を震わせた。目の前に青く柔らかな髪が見える。
先ほどまであった翼の感覚の代わりに、身体が何者かに包まれている感じがした。強烈な光を受けていたためにくらくらする目が元に戻るまでじっとしていると、カヤナ、と自分の名を呼ぶ声がもう一度耳元で聞こえた。
両手を相手の肩について身体を起こすと、見覚えのある、あの懐かしい面影が飛び込んできて、分かっていたもののカヤナは目を丸くした。
「……イズサミ」
「大丈夫!?」
怪我はない?と心配そうにあちこち見下ろしている。カヤナはしばらくぼんやりしていたが、ふと気が付いて慌てて身を起こしきった。
「す、すまない、イズサミ」
どうやら自分は彼と共に床に座り込んでいたらしい。ここはどこだろうと辺りを見渡すと、時おり見かけるバルハラの建物の内部にいることに気付いた。虹色を帯びた透明なクリスタルで造られている、一見したところ神殿のように大きな広間だ。華奢で長い柱が整然と並んで真ん中の通路を作り、その両端には水が流れていた。他に人の気配がないことに心底ホッとする。
バルハラにも水があるのかと思いつつ、イズサミに目線を戻すと、彼は依然不安げな顔をしてカヤナを見つめていた。
「何があったの?」
「……私にも、よく」
バルハラのどこかで意識が遠のき、暗い空間にいた時にイズサミの声が聞こえて、必死にそちらの方に手を伸ばしただけだ。なのに、どうして今自分は神殿らしき建物の中にいて、しかもイズサミの近くにいるのだろう。
呆然としていると、イズサミが気が付いたように説明し始めた。
「いきなりカヤナの声が響いてきたんだ。頭の中にね。カヤナって呼んだら、君が呼び返してくれて、背中が熱くなった。もしかして、翼が共鳴したのかな? 同じ飛翔の者として……」
先ほど闇の中で握った片手が、イズサミの手にまだ握られていた。あっと思い放そうとすると、握り返されて拒まれる。カヤナは困惑してイズサミを見た。
「イズサミ?」
「……カヤナ」
小さく名を呼ばれ、ぎゅうと抱きしめられる。空いている方の片手で髪を撫でられ、カヤナは思わず苦しげに目を閉じた。
「イ、イズサミ」
「逢いたかった……! ようやくバルハラで逢えたね」
嬉しそうな声で言ってくる。カヤナはたまらず身体を離そうと抵抗したが、イズサミはますます力を込めて抱きついてきた。首もとに彼の髪と息がかかってくすぐったい。
何度か抗ったが絶対に放さないという様子で抱き返してくるので、途中で諦めて彼のしたいようにさせた。
「……イズサミ。お前、今までどこにいたんだ?」
「どこって、カヤナこそどこにいたのさ?」
「私は……」
お前を捜していたんだと言いかけて、口を噤む。言葉にする勇気が無かった。
「どこでもない場所をあてもなく歩いていた」
「そうなんだ。ボクもそうだよ。たまたまこの建物がその辺に漂ってたから、試しに入ってみたんだ。しばらくうろうろしていたらカヤナの声が聞こえて、君もここに来てるのかと思った」
「私はおそらく別の場所から呼び寄せられた……いや、お前の元に来ただけだと思う」
言い直したので、イズサミが肩から頭を上げ、カヤナを不思議そうに見た。
「来た? ボクの元に?」
「あ、ああ……そろそろ、お前に逢おうかと思って」
途端、言葉を遮るように強く抱きすくめられる。それは呻き声を上げてしまうほど強く激しい包容だった。イズサミ、と必死に名を呼ぶが、彼の熱を帯びた手が背中を撫でてきて、カヤナは思わず羞恥で背筋をそらした。
「イズサミ!」
「カヤナ……逢いたいって思ってくれてたんだ」
手が背中から後頭部へと伸びてくる。もしやと思っている間に、頭を押さえたイズサミが自分の唇を塞いだ。
それはあまりに衝撃的なことだった。確かにイズサミのことは好いているが、彼と接吻をするなどカヤナには考えられないことだった。それは別に嫌だからというわけではなく、彼とあまりに共にいすぎて、接吻などしなくても大丈夫という気持ちがあるからだった。
少しの間だけ優しくむさぼられ、解放される。恥ずかしさというよりは戸惑いでカヤナはイズサミの両目を見つめる。彼は少し頬を赤らめて、心底嬉しそうに微笑んだ。
「ボクのカヤナ……」
その熱を帯びた言葉に、カヤナは言い返さなかった。自分は誰のものでもないとは、もう反抗できなかった。彼に抱きしめられて嬉しいと思う自分がいるのは確かで、接吻も別段嫌ではなかった。彼が望むのならばそうさせてやりたいと願っていた。幸せという言葉とは何か違う気もするが、イズサミの側にいてやりたかった。そして彼を慈しみたいとまで思った。
「……イズサミ」
イズサミの膝の上に載るように座ったまま、カヤナは彼の髪と頬を撫でた。彼は猫のように気持ち良さそうに目を閉じて、微笑んでいた。頬が熱いのは恥ずかしがっている証拠だろう。
今度は自分から口づけをする。それは愛おしいという気持ちから生まれた衝動だった。髪をそっと梳かしてやりながら小さく口づけを繰り返すと、今度はイズサミから求めてきた。唇を舌で舐め、カヤナの髪を指先に絡めて引き寄せる。
好きだ、という小さな呟きが聞こえる。それは今まで聞いたこともないような、低く、大人びた声だった。だが、自分も好きだとはどうしても言い返せなかった。自分の口から容易に出てはいけない台詞だという罪の意識があった。
口づけを繰り返しながら、イズサミの手が身体を滑っていく。服の上からでも、とても気持ちが良かった。
いつしか口づけは唇ではなく首に移動し、跡を付けるようにきつく吸い上げられ、目眩がした。このままではまずいのではないのかという気持ちが芽生えて、髪の毛を背後で弄んでいるイズサミから身を離す。
「……」
「……どうしたの?」
額をくっつけて、イズサミが訊いてくる。あまりに彼の顔が近すぎ、カヤナは睫毛を伏せた。
姉弟という単語が脳裏を過ぎる。彼とは血が繋がっているのだ。二人の忌まわしい絆、愚かしい愛。
……それでも、愛は消えないんだよ、きっと。
真実を知らない間に、確かにカヤナを愛したんだ。
それって、愛に血筋は関係がないってことになるだろ?
クラトの言葉が甦る。途端、カヤナの目にぶわりと涙が浮かんだ。
そうだ、自分は確かに、目の前にいるこの男を愛した。弟としてではなく、一人の男性として。愛し、共にいたいと願った。結ばれたいとも願った。独りにさせたくないと、悲しませたくないと。
そして、今も彼を愛している。たとえ、これが懺悔から来る愛だとしても、こんな愛を抱く相手は他にいない。
「イズサミだけだ」
白い頬を両手で包み、彼の額に自分の額をつけたまま、カヤナは涙をこぼした。
「お前だけだ」
涙混じりの震える声で言うと、イズサミは少しのあいだ無表情で沈黙した後、頬に流れるカヤナの涙を唇ですくった。
イズサミの優しさが苦しい。苦しくて仕方がない。自分はかつてこの男を、懸命に愛してくれた男を自らの手で刺し殺したのだ。自分のカヌチが、夫が作った剣で。それは、彼にとっては途方もない屈辱だったろう。イズサミの中にあった狂気が、自分を殺そうとするのは当然だ。自分はめちゃくちゃにイズサミを傷つけた。最も愛する男を惨い方法で傷つけてしまった。彼が悲しみのあまり復活を願うほどに。
「……す、まない……私は、お前に……安らかな死さえ与えられなかった……」
だが、イズサミは、カヤナを手に入れたいと言いつつも、カヤナのように憎き者に復讐をしたいとは言わなかった。ただ、理由を訊きたいとだけ言った。徐々に願いは歪められていったが、彼の復活の最初の望みは、単にカヤナの言い訳を聞くことだけだった。
カヤナがセツマへの恨みを晴らす資格など無いだろう。それ以前に、自分はイズサミにも同じ思いをさせたのだから。
「すまない、すまない、イズサミ……」
どうすれば、自分は恋人に赦されるのだろう。
「私は……愚かだ」
罪など消えなくてもいい。この背中に背負い続けるから。
ただ、叶えて欲しい。愛しい男を今度こそ幸せしたいという願いを。
もう二度と悲しませたくないという願いを。
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