10
カヤナの姿をその目に認めたからには、セツマが離れて行動することはない。クラトと一緒にいるということを不審に思ったらしい彼も、カヤナたちのイズサミ捜しに同行することになった。とは言っても、歩き回っている目的が、カヤナのかつての恋人捜しであるということをセツマには伝えていないのだが。
できればセツマがいる間にイズサミに逢いたくないなと心配していると、まさしくという話題をセツマが口に出した。
「カヤナ様はイズサミ様を捜していらっしゃるんでしょう?」
言われ、これは頭の良い従者の短所だと思いつつ、カヤナはしらばっくれた。
「いいや……特に目的はないが」
「そうなんでしょう?」
カヤナを無視し、クラトに訊いている。クラトはえっと短い声を上げた後、首を横に振った。
「いや……おれは、ついさっきカヤナに会ったばかりだし、案内してもらってるだけなんだけど……」
クラトはなかなか演技が上手く、それらしく聞こえたが、セツマは彼の言葉すら訊いていないようだった。この広大なバルハラのどこかにはいらっしゃいますからねえと怪しげな口調で言い、カヤナの肩をぽんと叩いてうさんくさく微笑んだ。
「私も協力しますよ」
「……だから、別にイズサミを捜しているわけではなく」
「でも、逢いたいと思っていらっしゃるはずだ」
ひょうひょうと言ってくるセツマの意図がいまいち読めない。クラトも何やら疑念を抱いているらしく、カヤナの左横に寄ってくる(セツマはカヤナを挟んだ右側にいる)。
「でも、あんたにもおれにも、カヤナとイズサミの逢瀬を邪魔する資格は無いだろ?」
少し苛立ったようなクラトを、セツマは細い目で見やった。
「あなたは確か、タカマハラの王立警備隊の人間でしたか」
「そうだ。ここにいるってことは、もう警備隊じゃないけどな」
「……不釣り合いですね」
セツマのぼそりと呟かれた威嚇に、さすがのクラトも怒ったらしい。一気に眉をつり上げ、声を荒げる。
「なんだと!」
「ああすみません、聞こえてしまいました?」
「セツマ! お前、本当に最低な男だな!」
カヤナも肩を怒らせ、立ち止まってセツマの胸をどんと片手で突いた。セツマはよろけたが、その余裕ぶった顔を見る限り全く反省していないようだ。ああ痛い痛いとわざとらしく言い、突かれた胸元を手のひらで撫でている。
「すみません。カヤナ様に近づく男は誰であっても許せないので」
「……」
疲れる、とカヤナは脱力した。セツマのあまりの頭の固さに言い返す気力も失せ、結局口から出たものは溜息ひとつだけだった。
後ろにいるクラトがカヤナの前に出てきて、セツマに向き直る。
「あんたにカヤナを愛する資格は無いと思う」
「……ほう?」
強気なクラトの発言に、セツマの口ぶりに殺気がこもる。まずいとカヤナは焦り、クラト、と自分を守るようにして佇む男の名前を呼んで、制服の白い袖をくいくいと引っぱった。クラトはしぶしぶ諦めたらしく、今度はカヤナを振り返って困惑した表情を見せた。
「なあ……おれ、一緒にいない方がいいか?」
思わぬ言葉に、カヤナは目を丸くする。
「は?」
「なんか……おれがいるせいでセツマの機嫌が悪くなるなら、いない方がいいのかなって」
クラト自身にもセツマの存在は負担なのだろう。どこか疲労感の漂う面持ちに、カヤナはそれも手かと思ったが、それではクラトが哀れなのではないのだろうか。つまりはセツマに場所を譲ると言っているのである。
「だ、だが……いいのか、クラト?」
「ああ。おれもちょっと疲れたし、カヤナもセツマをいちいち抑え込むのは大変だろ? だんだんセツマにも申し訳なくなってきてさ」
「こいつには気を遣う必要なんてないぞ?」
なぜならセツマがお前に気を遣っていないからな、と続ける。クラトの少し後ろに佇んでいるセツマは、そんなことありませんよと生意気な口を叩いていたが、カヤナは無視した。
悲しげな表情のクラトに、今度はカヤナが申し訳なく思えてきて、ならお前はどこか別の場所へ行くべきだという言葉がなかなか口から出てきてくれなかった。彼は自分から同行を願った人間だ。それに、セツマと二人きりになると不安だという気持ちもカヤナにはある。
「……」
「迷っているな?」
急に、頭上から声がした。ハッとして見上げると、紫色のローブを身に纏った男がふわふわと何もない場所に浮いていた。その顔は微笑していて、どこか楽しんでいるようにも見える。
「アメツネ!」
名を呼ぶと、アメツネは立て膝に頬杖をついて、余裕ぶった態度で口を開いた。
「女神は大変だな?」
「貴様っ」
セツマが叫び声を上げる。その瞬間カヤナの頭に血が上り、いい加減にしろ!と絶叫して剣を抜き、その柄を向けて思い切りセツマの懐に殴り込んだ。がはっという苦しげな声がし、セツマはずるずるとその場にうずくまる。
「カ、カヤナ、様……」
「お前がいると話がややこしくなるから少し黙ってろ! おいアメツネ、お前も術者なら大概にしろよ!」
額に血管を浮かせて叫ぶカヤナを、心底面白がるようにアメツネは笑った。態度がいつもと違う。普段より図々しい感じがする。
「私は何もしていないぞ。そこの男が勝手に私の部屋に乗り込み、攻撃したからやり返しただけだ」
「だが、セツマは死者だぞ!」
「だからどうした」
口調はいつもと変わりないものの、アメツネの瞳が冷酷さを帯びている気がして、カヤナは眉をひそめた。彼の周りに、どことなく邪悪な空気が漂っている。
「私には死者も生者も関係がない」
「かっ、関係がないだと? 生者が死者に干渉するのはありえんことだ!」
「死者が生者に干渉することもあり得ぬことだろう。
カヤナ、私を買いかぶるなよ。私は確かに途方もない力を持つ魔術師だが、それ故に善でも悪でも無いのだ。そなたの望み通りに動くかといったら、そうでもない。私は私のしたいようにするさ」
「お前……」
一体どうしたんだとカヤナは険しく目を細めた。アメツネは薄く笑ったまま、今度はセツマを見やる。
「セツマ。私はかつてお前の愚行を見逃した。それがカヤナとお前、そして世界の定めだったからな」
「……」
「しかし私は、お前がカヤナを殺すことを止めることさえできたのだよ」
その台詞は、つまり自分は世界の命運を変えることもできたのだということを意味していた。
カヤナはゾッとした。数千年前から生きているこの男は、カヤナたちなど簡単に捻り潰し、無に帰してしまえるほどの力を持っている。彼はかつてセツマの魂を消すかどうかをカヤナに問うたことがある。それも、ごくごく当たり前のような口調で。アメツネは、そんな物騒なことさえ容易にできる男なのだ。
この男は絶対に敵に回してはならない。だが、セツマがいる限り、自分を好く者たちがいる限り、それはもはや避けられない気がした。
「……分かったぞ」
不意に、セツマが低い声で言った。床に座り込み、柄で殴られたみぞおちを押さえ、宙に浮かぶ男を嫌悪のこもった目で睨み付けている。
「カヤナ様の対価は意図的なものだったのだな」
その唸るような声音とその言葉が意味するところに気付き、カヤナは一瞬にして青ざめた。
「カヤナ様が愛することを忘れること……それが、カヤナ様が復活するための対価だった。そうすれば、少なからずカヤナ様は他の誰も愛さない。お前すら愛さないが、誰も愛さないという約束があることで、お前は安心する……そうだろう?」
威嚇するような態度のセツマから、カヤナはおそるおそるアメツネに視線を移した。身体が震えている。カヤナの異変に気が付いたらしい、クラトがそっとカヤナの腕を掴んでくる。
アメツネは相変わらず頭上に漂ったまま、薄ら笑いを浮かべていた。
「……さあな」
どんなことを言い返すのだろうと危惧していたが、彼の口から出た言葉は曖昧なものだった。
「特に何も考えてはいなかった。二千年前の話だ、覚えておらぬよ」
どこにでも出現できるお前には時間の概念が無いはずだろう、と怒りを込めて言い返したかったが、それ以上の恐怖でカヤナの唇は動いてくれなかった。全身の血の気が引き、今にも倒れそうになる。
「カヤナ、大丈夫か?」
後ろから支えてくれるクラトを見上げ、カヤナは力無く相づちを打った。
「魔術師よ。お前もまた、愛に狂ったのだ」
アメツネに対して放たれたセツマの言葉に、カヤナは耐えきれなくなって目を閉じた。クラトの心配する声が聞こえるが、もはや意識の外にあり何を言っているのかは分からない。
恐ろしい。もしセツマの言っていることが事実だというのならば、誰も愛することができなくなるという対価はアメツネの策略の内にあったというのか。その時にはもうアメツネの心はカヤナに傾いていて、彼はカヤナを救わなかったからこそ、対価によってカヤナから愛する想いを奪った――
じわじわと湧き上がってきた感情は、怒りだった。イズサミを、他の男を愛するという人間として最も重要な欲望を、彼は自身の愛のためにカヤナから奪ったというのか? あの時は信頼していた者に裏切られたという絶望のために何も考えられなかったが、もし、他に選べる対価があったというのに、“愛することを忘れる”という対価をアメツネがあえて提案したというのならば。
「遠回しにでもカヤナ様を手に入れるために、カヤナ様から愛を奪った」
愛に狂っている。
そうだ、皆、愛に狂ってしまったのだ。セツマも、アメツネも、イズサミも、自分に関わった者たちは皆――
「カヤナ!」
強い目眩に襲われ、ふらりと身体が後方に倒れる。クラトが支えてくれたが、感謝する気も忘れてしまうほど、カヤナの心はもはや闇に沈みかけていた。
皆、愛に狂う。カヤナという人間の存在が、人々を歪めてしまっている。誰かが自分を愛したことで多くの関係ない人たちを巻き込み、傷つき、自分はその人々を救うことすらできなかった。
自分は一体何なのだ? ただの女でしかないのに、王として、神として崇め讃えられ、そこに自我などは無く、あるのはただ形だけの命だ。そんな存在に愛を捧げて何になる? 狂うほど愛する価値などあるのか?
「カヤナ、しっかりしろ!」
ならば、自分は誰も愛してはいけないのか? アメツネがカヤナに課した対価のように。
その対価を払ったのに、自分の知らないところで愛は人を狂わせたではないか。
「……イズサミ」
無意識に、彼の名を呼んだ。ふっと気が遠くなり、背中が熱くなる。
「イズサミ」
繰り返す。すると、背中に翼が生えた感覚があった。うわっという悲鳴と共に、背後からクラトの気配が消える。巨大な翼がカヤナとの間に現れたせいで吹き飛ばされたらしい。黒い羽が周囲に何枚か舞っている。
まだ黒いのだな。
カヤナは、覚束ない視界の中で、そう自嘲した。
「カヤナ様!」
叫び声が聞こえる。自分の名を必死そうに呼ぶ。
もう呼ぶな。私の名を呼ぶな。私を愛しく想うな、愛など与えるな。愛は人を狂わせ傷つけ合わせ、生み出すものは多くの悲しみだけだ。誰かが自分を愛することを止められないのなら、自分は消えるしかないではないか。いなくなれば、きっと流れる時がカヤナのことを忘却の彼方に追いやってくれるはず。クラトも新しい恋を見つけるかもしれないし、セツマもアメツネもいなくなった女のことなど諦めてくれるかもしれない。
消えてしまいたい。自分が愛することをやめても憎しみが終わらず、自分や他の誰かが傷つくのなら、無に還り、跡形もなく消えてしまいたい。思い出も、喜びも、幸福な日々も、重たい記憶でしかなくなってしまうというのなら、何もかもを巻き戻し、全てを白紙に戻してしまいたい――
……カヤナ
声がする。名を呼ぶな、私の名を呼ぶな――
カヤナ!
遠くから響いてくる声が、それまで周囲から聞こえてきた声とはまた別のものだと気が付き、カヤナはハッとした。
懐かしい、少年らしい声音。
「…………イズサミ」
呆然とした心地で、カヤナはその名を呼んだ。おそらく自分が生きてきた中で最も愛し、大切にした者の名を。そして自分が殺してしまった者の名を。
そうだ、自分は、まだ罪を償っていないではないか。愛したのに、あんなに傷つけてしまった彼に。
「イズサミ!」
私はここにいるという思いを込めて、カヤナは叫んだ。カヤナ、と暗い空間に彼の声が響き、闇の遠くの方に光が見えた。
重たい翼以外の身体の感覚は無いが、カヤナは必死にそちらの方に腕を伸ばした。何度も恋人の名を呼びながら、次第に迫ってくる光に目を細める。光の中に、誰かの片手が見える。きっとイズサミのものだろう。カヤナは腕を差しのべ、その手を握りしめた。
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