08





 バルハラは広大であるが、ただ何も無い場所が広がっているだけというわけではない。
 一体誰がバルハラ、すなわち死者の国を創ったのかは知れない。時たま宙に浮いた建築物などがふと現れたりすることがある。クリスタルのような素材で作られている、背景の螺鈿色が反射して見えるとても美しい建物だが、中に何があるのか、誰が住んでいるのかは入ってみない限り分からない。
 バルハラにいる間、カヤナは何度か侵入して内部を確認したことがある。まるで神殿のような造りの屋内には、死んでバルハラに来た者たちが新たな居住空間を作っていたこともあった。死亡したことで生態すら変わっている人間だが、生前と変わりない生活をしたいという願望が彼らにはあるらしい。ただ、バルハラに生きる者たちは存在すら不安定なため、いきなり姿が消えたり現れたりと、自分たちにもよく分からない状態にあり、生きている頃と同じような普通の生活を送れているとは一概には言えなかった。建物そのものも出現したり消えたりと曖昧なものが多く、ある程度ここに慣れているカヤナにも死後の世界の正体は不可解に思えてならなかった。
 カヤナとクラトは、建物の素材であるクリスタルもどきの大きな四角い物体に腰掛けて話していた。この塊も、その辺に突然現れたものだった。丁度いい椅子ができたとカヤナが座ると、クラトは始め怪訝そうにしていたが、じきに隣に腰を下ろした。そして、クラトがカヤナと別れた後の話をしていたのだが、その話題もいつしか途絶えると、不意にクラトが言った。

「イズサミに逢いに行くべきだよ、カヤナ」

 クラトの口ぶりにためらいは無いようだった。カヤナはじっとクラトの目を見つめて沈黙した後、ふと視線をそらした。

「……もう逢った」
「え? そうなのか?」
「アメツネの部屋にいる時に、あいつが勝手にイズサミを連れてきてな」

 彼の魔術店を我が物顔で使っていた報いかは知れないが、風呂を借りた後に勝手に着替えさせられてイズサミを呼び寄せられた。そう話すと、クラトは「風呂っ!?」と瞬時に頬を赤くした。
 うろたえているクラトを一瞥し、カヤナはくすくすと笑う。

「死者だって風呂に入りたいとは思うからな」
「ちっ……違う! カ、カヤナ、お前、アメツネの風呂を借りたっていうのか?」
「そうだが」

 平然と言うカヤナを苦々しく見つめ、クラトは落ち込んだ声を出す。

「……あんたたちは、どこまで進んでいるんだ? カヤナにはイズサミがいるんだろ……」
「勘違いしてもらっては困る。アメツネは、その辺に関しては理解のある男だ。男女というよりは親戚や家族に近い存在だよ、もともと老人の姿だったしな」
「でっ、でも今は」

 あんな美男だったじゃないか!と顔を赤くしたまま必死な様子で言う。カヤナは腹を抱えて笑った。豪快に天を仰いで笑い転げる姿を半眼で眺め、クラトはますます落胆した面持ちになっている。

「お、男をなめると、痛い目に遭うからな……」
「まあまあ……つまり、私にとってアメツネはそういう存在だということだよ。昔から一緒にいたせいで、あいつに抱くものはもはや家族愛に近いものなんだ。アメツネが私を好くことが、むしろ不思議なくらいさ」
「……」

 納得できないという表情のクラトの肩をぽんと叩く。

「安心しろ。私がイズサミを愛しているのは確かだし、この想いは誰にも変えられん。セツマやアメツネやお前がなんと言おうが、どんなに私を愛そうが、私はイズサミのものになるだろう。イズサミがそれを望まなくても……」

 その時、ふとカヤナの頭にアメツネの言葉が甦った。
 “そなたは甘い。イズサミへの愛で全てを払拭しようとしている。”
 カヤナを責めるような口調が脳内に再生され、カヤナの心がゆっくりと陰りを帯びる。確かに、アメツネの言うことにも一理あると感じていた。愛という感覚を取り戻し、イズサミへの愛が再開された今、カヤナは昔の恋人を愛することで裏切りという罪を償おうとしている。しかし、それは利己なのではないのか? 自分が救われたいだけの、愛という単語を利用した言い訳なのではないか? もしそうならば、自分はイズサミを再び裏切ることになるのだ。
 きっと、イズサミは言うだろう。愛していると伝えれば、彼は喜び、カヤナと共にいることを今度こそ選び取るはずだ。イズサミの心がそれで救われるというならば、彼がカヤナの為した愚行を赦してくれるというのならば、カヤナは彼に身も心も捧げるつもりだった。
 だが、そう願う自分がいること自体が問題なのではないだろうか。贖罪のために人を愛することは、本当の愛と言えるのか?
 アメツネは、それを問いつめたかったのだ。お前のイズサミへの愛は、まやかしではないのかと。実際には、誰も、イズサミですら愛してなどいないのではないのかと。

「……カヤナ?」

 ぼんやりと考え込んでいたカヤナを心配し、クラトが声を掛けてくる。ハッとして振り返った。

「あ、ああ、すまない、少しぼうっとしていた」
「……カヤナは、イズサミと愛し合いたいんだろう?」

 クラトの口から放たれた神妙な言葉に、カヤナは唇を閉じて顔を伏せる。
 愛し合いたい。それは確かにそうだ。けれど、なぜ彼と愛し合いたいと思うのだろう? それもまた贖罪から生まれた願いなのだろうか? 彼を愛せば自分の罪が少しでも軽くなるかもしれないという期待から起こる、偽りの恋慕ではないのだろうか?

「……なあ、クラト」

 もしそうならば、愛とは、本当は何なのだ?
 イズサミに抱く、彼を今度こそ幸せにしたいと思うこの願いは、一体なんだというのだ?

「お前が私を愛しているというのは、一体なぜなんだ」

 半ば無意識に、その問いかけが口から出た。クラトは、え、と短い声を上げた後、うーんと低く唸った。

「それって……愛するとは何か、っていう問いかけだろ? 難しいな、どうして、とか、なぜ、とか、理由があって好きになるわけじゃない気もするんだけど」
「そうなのか?」
「カヤナだってそうじゃないのか? 昔、イズサミと暮らしていた頃、カヤナはイズサミのことが好きだったんだろ? その時の気持ちが好きって気持ちなんじゃないのか? 愛するっていうかさ」

 クラトはきっと、今カヤナが愛とは何かという疑問を持って考え込んでいたことに気が付いているのだろう、カヤナが複雑そうにしているのを面白がるように少し笑い、眼前に広がる風景に目をやって、少し間を置いている。
 クラトの華奢な横顔を見つめ、カヤナは彼の次の台詞を待った。

「おれはさ、お前のことが好きだよ」

 それは、クラトらしい、真っ直ぐで優しい言葉だった。

「どうしてって言われると難しいけど、でも、おれはカヤナのことを守りたいし、お前が誰かに傷つけられたら、おれはきっと怒ると思う。お前と今ここで一緒にいられて嬉しいし、お前が苦しんでいる時には力になってやりたい。
 おれの時間を、お前にできる限りあげたいんだ」

 カヤナを見て、にこりと幸せそうに笑ったクラトの姿を見ている自分の心に、不思議な感覚が生まれるのが分かった。
 “時間”。
 自らの持つ言葉や動作、行動、言動の全てをできうる限り相手に捧げたいと願うこと。

「他の誰にも、それより強い気持ちは持てない。誰よりも守りたい、誰よりも側にいたい、誰よりも視ていたい、尽くしてやりたい。
 愛するって、そういうことだとおれは思う」

 まるでカヤナより永く生き、様々な経験をしてきたかのような確固とした口ぶりで、彼は言った。

「……相手が、それを望んでいなくてもか?」

 カヤナが問い返すと、クラトは悲しげな表情になった。

「……おれがお前を愛するのは迷惑か?」
「あ、いや、そういうつもりではないんだ。すまんな、失言が多くて。その……
 私には、愛がどういったものか分からないんだ。自分の抱くイズサミへの愛は、自分が救われるための手段に過ぎないのかもしれないと思って……」

 正直に話した。するとクラトは口元に手を当てて考え込み、顔を上げて、神妙そうにそれはそういうものかもしれないと呟いた。

「そういう気持ちも、愛の中にはあるんじゃないか? 自分が幸せになれる相手はこの人しかいないって感じることも、愛の一つの要素だと思う。それってある意味、エゴなんじゃないかな。
 おれだって、カヤナと一緒にいると安心するし、カヤナに頼りたいと思う部分もある。お前と一緒にいると、おれは成長できるんだ。尊敬みたいな気持ちかな? それが徐々に愛に変わっていった。おれを前に進めてくれた恩返しをカヤナにしたいって思うようになった……。そう言うのが妥当かもしれない」
「なるほどな……」
「カヤナは、迷っているんだろ? イズサミのことを愛していいのかどうかを。姉弟っていうのも、ネックだよな」

 さすがに血が繋がっている者同士だと色々お咎めがあるだろうからなと、クラトは困惑気味に首を傾けた。カヤナは透明な立方体の上に脚を引き寄せ、体育座りをし、膝の上に顎を載せて小さくなって溜息をつく。

「そのことも、やはり私に迷いを生じさせているんだ」
「確かに、そうだよな。おれだって、カヤナが実は姉貴だったとか妹だったとか言われたら、どうしようって思うよ。だけど……
 それでも、愛は消えないんだよ、きっと。真実を知らない間に、確かにカヤナを愛したんだ。それって、愛に血筋は関係がないってことになるだろ?」

 なんということのない口調で言ったクラトだが、カヤナにとって彼の言い分はどこか勇気づけられるものだった。
 そう、確かに、愛の前には家系や血統は関係がなかったのだ。もしそれが罪になるというのならは、初めから人間は身内に恋などしないように創られているはずだろう。かつてから自分はイズサミが好きで、彼と恋仲にあった。イズサミもまた、自分のことを熱烈に求めてくれた。確かにその時は無知だったろう。だが、無知だからこそ、本当に二人は愛し合ったのだ。

「でもさ、カヤナ。おれって、すごい綺麗事を言ってるだろ?」

 ふと、クラトが苦笑混じりの声を出す。どこか悲痛にも見える微笑みを浮かべ、金色の睫毛を伏せていた。

「カヤナが幸せになれば、おれはもうそれでいい、って言ったよな。それは確かにそうなんだ。でも……
 もしカヤナが今後イズサミに振られるようなことがあれば……あ、万が一だからな? 万が一、カヤナの恋が叶わないとするなら、その時は、おれはお前を手に入れたいと思ってしまうかもしれない」

 未練がましくてごめん、と肩を落として謝ってくる。カヤナは、その彼の素直さに半ば呆れのような、慈しみのような感情を抱いて、ゆっくりとかぶりを振った。

「仕方ないさ。そういうものだ。私とて同じだろう、おそらく」
「なら、カヤナはイズサミのことが好きなんだよ。イズサミが誰か別の人を愛したら、きっと傷つくんだろ?」

 そんなことは今まで考えたことが無かった。イズサミが自分を好いていることは昔から知っていて、こいつは私のことが心底好きなんだろうなと自負していたくらいだ。そのせいで、彼の自分への愛を疑ったことはなかった。しかし、イズサミにも別の人間を愛する資格はあるのである。

「嫉妬する、ということか……そうかもしれないな」
「まあ、あれだけお前のことを好きだ好きだって言って復活までした奴が、今更他の誰かを好きになると思わないけどな。
 イズサミもバルハラにいて、お前に逢いたがってるんじゃないか? 逢ってやればいいのに」
「そう、だな……」

 カヤナは立方体から腰を上げ、透明な床の上に立つと、よし、と手に腰を当てた。

「お前のお陰で、決心がつきそうだ。うじうじ悩むくらいなら、逢って自分の気持ちを確かめるのが一番良いということだよな。
 すまない、クラト。いつまでも落ち込んで、迷って……私の悪い癖なんだ、昔からそうだった」
「気にしなくていい」

 クラトも飛び降り、カヤナの隣に立った。爽やかな笑顔でカヤナを見下ろす。

「おれは、お前のそういうところも好きだから」
「……クラト……お前なあ。実際は、かなりモテてたんじゃないのか?」
「は? いきなりなんだよ」
「きっとお前が気が付かなかっただけなんだな……」

 やれやれと溜息をつくと、なんなんだよ!?とクラトは頬を赤く染めて声を上げた。カヤナはけらけらと笑いながら歩き出す。
 するとクラトが後ろからついてくる気配がしたので、カヤナは困って振り返った。

「クラト? 別にお前は来る必要はないぞ」
「えっ? あ、いや……そ、そうか?」
「私とイズサミが共にいるところを見たいと言ったが、実際問題それはお前の精神上あまり良くないことなのではないかと思う……それに、私もこれ以上お前に迷惑をかけるのは嫌なんだ」
「けっ……けど!」

 慌てた様子でカヤナに駆け寄り、

「おれ、バルハラに来たばっかりだし、何がなんだか分からないんだ。ここに置き去りにしていくなんて無いだろ? それに……お前を一人にさせられないよ。セツマとかアメツネとか、ちょっと物騒な奴らもいるし」
「……」
「おれが一緒にいるのは迷惑か……?」

 寂しそうな顔をして言う。まるで子犬が叱られてしゅんとしているかのようだ。
 クラトのそんな姿が可愛く思われて、カヤナはよしよしとクラトの肩を撫でた。

「迷惑なんかじゃない。お前が私を想い、私を慈しんでくれることは心底嬉しい。気持ちに応えられないのが申し訳ないが」
「カヤナが気にすることじゃない。おれが勝手にお前を好きになっただけだ」
「一緒に来るか? アメツネもいつ戻ってくるか分からないし、正直私ひとりの時にセツマに会うと面倒なことになるからな。
 ただし、セツマが来たら、あまり反抗せずにいろよ。セツマはただでさえ切れ者だし、私の側に男がいるだけで逆上するような奴だ」
「お前ってホント面倒な奴らから好かれるよなあ……」

 まあおれもそうかもしれないけど、と嘆息し、気を取り直した様子でクラトはカヤナの隣に並んだ。