07





 右も左も分からない、自分が死んだのかすらあまり理解していないクラトを横に座らせ、カヤナはバルハラの虹色の風景をぼんやりと眺めながら、彼に一部始終を説明していた。過去に何が起き、自分がなぜ現世に甦ったのか、人を憎んでいたのか、アキと別れた後にどうなったのか、バルハラで何が起きているのか。
 説明をしてしまえば、クラトが自分に対し特別な思いを抱かなくなるだろうという計算もあった。一度振ったことでクラトもクラトなりに気持ちに蹴りを付けたはずであり、カヤナにはイズサミという忘れられない存在がいることを悟れば、クラトの性格上無理矢理に介入してくるはずはないと踏んでいたのだ。
 申し訳なく思いつつも、これ以上自体をややこしくしないためには仕方がないのだと諦め、カヤナは長い時間をかけて一通り話してやった。しかし、一点だけ話さなかった。それは復活に使った対価のことだ。
 もしアメツネに預けた対価が“人を愛する心”だったクラトが知れば、自分が好かれなかったのはその対価のためだと思われかねない。可能性を与えないためにも、このことを隠すのが何よりも優先されるべきだった。隠しつつ話しながら、もし対価が別のものだったのなら、自分はクラトを好きになれたのだろうかと考えたが、やはりそれは無いと思った。自分のイズサミへの想いは決して消せるものではないし、現に対価を戻された今もイズサミのことを愛しているのだ。クラトが失恋を経験することは必然だったといえよう――
 カヤナが話し終えた後、クラトはしばらく黙っていたが、じきにゆっくりと口を開いた。

「……そっか」

 黙りこくっていたクラトから放たれた第一声は、カヤナが予想していたよりは明るい調子だった。てっきり自分が事情を詳しく話さなかったことを責められると思ったのだが、そのつもりも無いようなのでホッとした。

「カヤナは、本当に過酷な運命を生きていたんだな……」

 遠い目をしてクラトは言った。同情というよりは感心といったような口ぶりだった。

「ごめんな、カヤナ。おれには、お前の生き様は壮大過ぎるというか、想像がつかなくて、あまり、こう……同情みたいなものはできないんだけど」
「はは……いいさ。同情したら大変だ」
「けど、やっぱりカヤナはすごいよ。自ら運命を選び取って、自分の信念と共に生きている。おれには立派に思えるよ」

 真剣な面持ちで見つめてくる。その視線に居心地が悪くなって、カヤナは戸惑いながら目を伏せた。

「私は、運命を選び取ったわけではない……運命に弄されていただけだ」
「それは違うよ。何にせよ、カヤナはしたいことをして、達成すべきことを達成したんだろ? 結果オーライっていう言葉じゃ軽すぎるかもしれないけど、カヤナのおかげで救われた人も大勢いるんだ。おれもその一人だし」
「救うなんて言葉は大げさじゃないか? 大したことをした記憶は無いんだが」
「おれにとっては」

 大したことなんだよと、クラトはにこりと笑った。生前によく見た、彼の少し照れたような可愛らしい微笑み方に懐かしさを感じ、先ほどまで顔がこわばっていたカヤナもつられて微笑する。

「そうか……」
「でも、このバルハラでもカヤナは大変そうだな? セツマっていう人もそうだけど、さっきのアメツネもなかなか曲者なんじゃないか?」
「そうだな、フトマの力も与えられるような強者だ。普通の人間ではないな」
「カヤナを二千年も見守ってきたんだろ? よっぽど好きなんだな、カヤナのこと」

 体育座りをした膝に顎を載せ、クラトは息をついた。依然となんら変わりない横顔を見ていると、本当に彼が戦で死んだのかと疑問に思ってしまう。生きた者をアメツネが術を使ってバルハラに連れてくる可能性が無いとも言えない。先ほどの彼の様子は少しおかしかったし、もしかしたらクラトが死んだというのは嘘かもしれないが、もしそうなら彼を生きとし生けるものたちの世界へ戻さなければならない。そんなことができるのはアメツネだけだ。彼が戻ってこなければ埒があかない。

「でもなんだか、カヤナはもてるよな? おれもだけど、イズサミ、セツマ、アメツネ……少なくとも四人……あ、いや……あの人もそうだったか」
「え?」
「あ、いや。
 とにかく、みんな愛のために生きていたんだなって思ってさ」

 何気なく言われたクラトの言葉を、カヤナは唇の上で小さく反芻した。

「……愛のため……か。そうかもしれないな……私もまた愛と憎しみによって蘇った。それが正しかったのか、間違っていたのかは分からないが……」
「正誤じゃないさ、カヤナ」

 正誤じゃない?とカヤナが聞き返すと、クラトは微笑したまま迷い無く答えた。

「ただ、それが必然だったんだよ」
「必然……? 私が蘇ったことが?」
「ああ。色々な運命の巡り合わせで、きっとそうなったんだ。イズサミやアメツネ、セツマがいたのも、それが必然だったからなんじゃないのか? なるべくしてなったっていうかさ。上手く言えないけど」

 戦で殺されたというのに、そんな影も漂わせず至極穏やかなクラトの様子に、カヤナは徐々に心配になってきた。アメツネはさておき、バルハラにいるということは彼が死亡したということなのだ。誰かに刺されたというのに、いくら何でも受け入れすぎではないだろうか。

「クラト……お前、死んだんだぞ? 大丈夫か?」
「えっ、な、何が?」
「ここにいることがだよ。普通、殺されたら、どうして殺されたんだって怒りを覚えるはずなんだが」

 私がセツマに殺された時のようにと、カヤナが続ける。クラトは面食らったような顔をしていたが、頬を指で掻きながら苦笑した。

「そっか。そうだな……でも、刺されてすごい量の血が出た時、思ったんだ。ああこれがおれの運命だ、これで終わりなんだって」
「アメツネ曰く、心臓を突かれたということだ。苦しかったろう?」
「ああ。でも、すぐに意識が無くなったからな」

 そのあと光に包まれてしまって何も見えず、どうなったのかもよく覚えていないという。自分が二千年前に死んだとき光など見えただろうか……と考え込み、今更思い出しても意味がないと気を取り直すと、カヤナは続けて訊いた。

「自分の死を受け入れられたのか?」
「う、うーん……今も実感が無いからな。生きている時と同じようにカヤナとも話しているし……
 それに、死ぬことはそれほど恐くなかったかもしれない」
「ほう? なぜだ」
「未練も特に無かった……その、実はさ」

 クラトは少し気まずそうに目線をそらした後、

「お前に振られたの、けっこう引きずってたんだ」

 ぼそぼそと言った。避けなければいけない事態をまさしく明言される危機感を覚え、カヤナの身体から血の気が引く。

「……え?」
「あ、でも、半ば吹っ切れてたんだ。それでも時々思い出してたよ、お前のこと。今頃バルハラにいるんだろうな、元気かなって……死んだ奴に元気かなだなんて思うのは変だけど。
 平気だったけど、寂しかった。おれ、カヤナのこと本当に好きだったんだ。お前のことを守りたいってずっと思ってた……おれは無力だから、結局守ることなんてできなかったけど」

 目を合わせようとしないクラトの横顔を見つめ、カヤナは沈黙した。彼の、笑んではいるが寂しげな横顔は、自分への未練が残っていることを表しているように見えた。だが、カヤナに言える言葉は何もない。自分はどう足掻いてもクラトのことを好きにはならないだろう。

「……本当言うとさ、バルハラでお前に会えて、ちょっと嬉しいとも感じたんだ。審判の日にいなくなってから、もう一度会いたかったから。
 でも」

 クラトは自分の左の手のひらを見つめ、顔から笑みを消した。

「さっきのカヤナの話を聞いて、おれはもうお前に迷惑かけたくないって思ったんだ。お前の負担になりたくない。
 おれさ、思うんだ。お前を好きな人たちは、みんな普通じゃない力を持ってる奴なんだなって」

 言われ、そういえばそうだなとカヤナは思う。カヤナ自身もそうだが、イズサミ、アメツネ、セツマは自分以上の強力な力を宿している人間だ。イズサミに関しては、彼の狂戦士がバルハラでは一体どうなるかは知れないが、たとえ狂戦士にならなくとも剣の腕前はなかなかのものだし、魔術も使える。

「きっと人は、力があるから何かを手に入れたいと思うんだろうな。そいつらがカヤナを諦めきれないのは、カヤナを狙う他の奴らと戦える力を持っているからなんじゃないか? アメツネって人も一見穏和そうだけど、力を誇張しているような節があるし」
「そう……かもしれないな」
「でもおれは」

 そんな力なんて無いから、とクラトはカヤナに振り返り、弱々しい笑みを浮かべた。美しい金髪が柔らかく光る。

「逃げるわけじゃないけど。おれだって、カヤナが幸せになってくれることを願っていて、おれが幸せにしてやれたらどんなにいいかって思うけど。けれど、おれにはお前を支えきれる力が無いんだ。
 おれの想いや願いがお前の負担になるなら、そんなこと、おれは望んでないから」

 クラトの、小さな声だが迷いのない言葉に、カヤナの胸がきゅうと締め付けられる。
 こんな気持ちを抱くのは久々だ。愛されることを忘れていた間は、愛や慈悲に心を痛めることも無かった。クラトが以前似たようなことを言った時さえ、こんな胸の痛みは覚えなかった。感情が無いというのはとても楽なことなのだろう――それはもはや人間とは言えないのかもしれないが。

「……クラト。私は、お前を愛せないんだ……」
「知ってる。お前はイズサミが好きなんだ。ずっとずっと、長いあいだ想い続けていたし、想われ続けていたんだろ? 二千年の想いにおれが勝てるわけがないさ。むしろ、その二千年越しの恋を叶えてやりたいくらいだよ」
「……」
「カヤナが心を痛めることじゃない」

 穏やかにクラトは言い、カヤナの頭をぽんぽんと軽く撫でた。

「カヤナは、真っ直ぐにイズサミを愛していいと思う。いや……愛してあげて欲しい、彼のこと。同じ男として、そう願う」

 優しいクラトの目に、カヤナはたまらなくなってくしゃりと顔を歪めた。泣きはしないが、クラトもまた傷つけなければならないことにカヤナの心は激しく軋んだ。胸を痛めるなと言われても無理な話だ。

「クラト……ありがとう。だが、申し訳がない……」
「だから、気にするなって。本当は、セツマもアメツネも同じ事を願わなければいけないんだと思うんだ。けれど、彼らには力がある。強力な力を持つということは、愛情とか想いを歪めてしまうんだろうな。
 おれは知りたいよ、カヤナがイズサミの前でどれだけ幸せそうに笑うんだろうって。お前の幸せそうなところを見たいんだ。つらいことをたくさん経験したお前が、心から笑っているところを」

 だからおれのことは気にしなくていいんだと、クラトは言った。カヤナはクラトの思いやりに我慢できなくなって、片手で額を押さえて力無くうなだれた。
 愛されることは負の受動ではない。これだけの人間に想われている自分は、本当に贅沢で幸せ者なのだろう。だが、応えられない愛は重く、周囲に余計な傷をばらまいてしまう。本当は、誰にも愛されない方が楽なのかもしれない。自分が愛されなければ、二千年前の出来事も無かったはずなのだ――そう考えて、カヤナはふと気が付く。

「そうか……アメツネに頼めばいいのか」
「え……何を?」
「お前たちが私への愛を忘れることを」

 思いついたことを口に出すと、隣にいたクラトは目を丸くし、みるみるうちに眉間に皺を寄せた。

「は? ……何を考えているんだ?」
「え、あ……私を愛することが全ての元凶ならば、お前たちが私への愛を忘れれば」
「やめろよっ」

 カヤナの言葉を遮り、クラトが怒り混じりの声を上げた。びくりとして見やると、彼は青ざめて目をつり上げていた。

「ふざけるなっ! お前は、おれたちの気持ちを無にするつもりなのか!?」
「あ、い、いや」

 彼の剣幕に、さすがのカヤナもしどろもどろになる。すまなかったと素直に謝ると、クラトも自分の態度を今自覚したかのように口を塞いだ。

「ご、ごめん……急に叫んだりして」
「いや……私が悪い。軽率だった。侮辱するつもりではなかったんだ。ただ……愛を裏切られる側もつらかろうと思ってな」
「……おれは、お前を愛して良かったと思ってるさ」

 彼の言葉に、再びカヤナの心が震える。クラトに目を合わせられなくなり、他に目のやり場もなく、周囲に広がる神々しい景色を見つめるしかなかった。
 永遠に変わらない、様々な色彩が入り混じる不思議な空間。美しい雲の流れる、時の死んでしまった世界。死した者は皆ここに集まり、時に眠り、時に目覚めて、朽ち果てることも忘れ、それぞれの永遠を歩むことを強いられる。
 それは、生きる者たちにとってはうらやましいことなのかもしれない。永久を生きるという生命ある者たちの不変なる願い。彼らは永遠が欲しいから不死の力を求める。だが、終わりが無いということは本来計り知れないほど残酷なことだ。存在し続けることの過酷さを思うと、死した身であるカヤナは時に発狂したくなる。

「クラト。お前はまだここに来るべきではなかった」

 絶望混じりに呟くと、クラトは隣で小さく苦笑した。

「かもしれない。
 けれど、またお前に会えたから、おれはこれでいいと思っているんだ。
 もう叶わないと思っていた願いが、叶ったから」

 クラトの穏やかで優しい、だが悲しい言葉に、カヤナは奥歯を噛んだ。
 自分はクラトの願いに値するような人間ではないのだと泣き出しそうになった。