05





 うーん、いい風呂だった、と背伸びをしながら浴室から出てくる姿は生前と何ら変わりない。
 セツマの暴挙からアメツネの保護を受けているカヤナは、我がもの顔をしてアメツネの魔術屋敷に住み着いていた。彼女を好くアメツネとしては、カヤナが自分の近くにいてくれることが満足ではあったが、実際彼女には他に想い人がいる。恋仲でもない人間が側に居着いている事実に複雑なのも事実だった。

「いい湯だったぞ」

 真白な着物ひとつになり、手ぬぐいで髪を乱暴に拭いている女性をなるべく見ないようにしながら、アメツネは椅子に座って読んでいた本に目を落としたまま溜息混じりに返事をした。

「それは良かったな……」
「まあ、バルバラでの暮らしも生前とさほど変わらんが、だがここは居心地がいい。お前の庇護下だからな、命を取られるだの色恋沙汰に巻き込まれるだの、余計な心配をしなくて済む」
「そなたはもう死んでいるのだが」

 本を閉じ、アメツネは立ち上がると、テーブルの前で水差しからコップに水を注いでいるカヤナの後ろ姿を眺めて呆れ顔になった。濡れた黒髪がしっとりと身体の線に貼り付いている様は妖艶だが、いくらなんでも無遠慮すぎる。
 無防備というか容赦ないというか……と落胆しつつ、アメツネはふと意地悪を思いついてカヤナに言った。

「そうだ。
 私の時代の服を着てみるか?」

 服?とコップから水を飲んでいるカヤナが振り返る。

「お前の時代? ……というと、相当前の時代の衣装だな。興味はある」
「そなたの時代と大して変わらぬが……試しに」

 パチンと指を鳴らす。すると、周囲に風が巻き起こり、カヤナがなんだなんだと喚いている間に、彼女の身体に異風な衣装がまとわりついた。
 金色で縁取られた薄桃色の長いローブで、腰の部分を黄緑色の帯で縛りメリハリをつけている美しい衣装である。プリーツのある裾が床に広がり、中の繊細なレースがほんの少し出ていてとても優雅な雰囲気だ。胸元は左前になっているが、女性らしく空いており、そこからカヤナの白い肌色が覗いている。金の首飾りが細い首を縁取り、先端に雫型をしたガラスが付けられた華奢な鎖が、彼女の鎖骨の部分に三本垂れている。その上にカヤナの黒髪が強い存在感を持ってゆるゆると流れていた。
 急に姿を変えられたカヤナは驚いて自分の姿を見下ろしていたが、アメツネを見やると、いたずらっぽく口元をにやりと笑わせた。

「お前の趣味か?」
「は? ……いや、そこまでは考えていなかったな。そのドレスは私の国の貴族たちが着ていたものだ」
「ふーん、随分と華美だな。金の首飾りか。このシルクも手入れが大変そうだ、洗濯係が泣くぞ」

 庶民的な意見にアメツネは苦笑する。先ほど座っていた椅子に腰掛け、まじまじと彼女の立ち姿を改めて眺める。

「ふむ。なかなか良いではないか」
「そうか? 鏡か何かは無いのか」
「私ひとりが見るのも勿体ないな」

 わざとらしい口ぶりで言いつつ、アメツネは再度指を軽快に鳴らした。
 すると。

「……えっ……
 あれ、カ……ヤナ?」

 すぐ側から声がした。
 カヤナの肩が、アメツネが見て分かるほどにびくりと震える。彼女はバッと声の方に振り返り、こぼれ落ちそうなほど目をまん丸くして現れた人物を凝視した。

「イ……イズサミ……!?」

 同じく目をしばたたかせてカヤナを見つめ返しているのは、青くサラサラした髪の美しい、童顔の青年である。

「カヤナ……! えっ、ちょっと待って、ここどこ?」

 きょろきょろと周囲を見回している彼の姿に、カヤナもハッとしてアメツネの姿を探した。こんなことができるのは彼しかいない。心の準備もしていないのにイズサミを呼び寄せたアメツネを咎めてやろうとしたが、彼は既に部屋の中にいなかった。いるのかいないのかは知れないが、姿を消したらしい。気を遣うにしても乱暴なやり方である。

「あの野郎……!」
「や、野郎?」

 驚いたようにイズサミがカヤナを見る。カヤナは、あ、と目を右往左往させて俯いた。

「な、なんでもない……」
「そ、そう……? っていうか、ここどこなの? 前に見たことがあるような気もするけど……うーん? 誰の部屋?」
「さ、さあ……夢でも見てるんじゃないのか」
「夢?」

 ますます困惑した様子で、イズサミは首を傾げた。口元に手を当てて考え込み、夢と言われてみれば夢かもしれない、と訝しげに呟いている。

「確かに、ボクはさっきまで寝ていたし……そっか、夢か、これ。ここ、バルハラじゃないみたいだし」
「ああ、きっとそうなんだろうな」
「それにカヤナが珍しい服を着てる」

 パッと嬉しそうな顔になり、イズサミは彼女の姿を眺めた。見つめられていることに気恥ずかしさを覚え、カヤナはきゅっと身を縮める。

「そんなに見るなよ」
「変わった服だね。でも、すっごく似合ってるよ」

 無邪気な声で言われ、カヤナはますます照れくさくなってたまらずにそっぽを向く。人前で裸になろうが何をしようがあまり羞恥は覚えないタイプだが、ストレートに賞賛されることには慣れていない。ましてやイズサミは心の底からそう言ってくれているのである。

「そ、そうか」
「自分で鏡見た? 鏡あるかな、この部屋」

 きょろきょろと部屋の中を見回し、アメツネの寝室のロッカーに大きな鏡が付いていることに気が付くと、イズサミは手を引っぱって鏡の前までカヤナを連れていった。繋がれている手が熱い。そういえば、こうやって手を繋ぐのは本当に久々だ。きっと対価を支払っている間はこんなことをしても何とも思わなかったのだろうが、今は彼を愛する心が戻っている。子どもの頃は何の抵抗も羞恥も無かったはずなのに、久々に会って接触しているという事実に身体が熱を帯びてくる。
 イズサミはカヤナを鏡の前に立たすと、後ろに立ってカヤナの肩に両手を置いた。実に嬉しそうな面持ちで、鏡の中のカヤナを見つめている。

「可愛いでしょ?」
「か、可愛いか?」

 確かに今まで身に着けたことのないような女性らしい衣装ではあるが、自分に似合っているかどうかは分からない。

「少し派手じゃないか?」
「そう? カヤナは顔立ちがハッキリしてるから、こういう格好もとても似合うよ。髪の毛の色が映えて、とても綺麗だ」

 言いながら、イズサミは愛おしげにカヤナの髪を一房手に取った。まるで自分の身体を触られているような感覚に陥り、カヤナの顔がカッと熱くなる。そんな彼女の様子に気付いて、イズサミは目をぱちくりさせている。

「カヤナ? ……もしかして恥ずかしい?」
「い、いや」

 鏡を見ていられなくなり、斜め下を向いて力無く首を横に振る。

「お前、背が伸びたなと思って……」
「えっ? あ、そうかな? そうかもね。顔一個分は違うし。カヤナのつむじが見えるよ。可愛い」
「か、可愛いって、つむじがか?」
「カヤナが小さくて可愛いってことだよ。女の子なんだなって思う」

 いたずらっぽく笑い、軽く頭を撫でてくる。考えてみれば、会わなくなってから随分経つのだ。無論二千年という長い時の流れはったのだが、その時間の感覚はカヤナもイズサミも持っていない。だが、二人の間には二千年前以前の苦しみの別離が存在している。そのことは、未だカヤナの記憶に新しい。
 恋人同士のように町中を歩きたいと願望を持ったことがある。家名という足かせのせいで、願ってもずっとできなかったことが今叶っているような気がして、カヤナの胸はじんわりと温かくなった。

「……」
「綺麗なカヤナを抱きしめたい。夢なら許されるよね?」

 その台詞に、カヤナの顔が歪んだ。唇が震える。
 “夢なら許される”。
 イズサミは真実を知っている。自分たち二人が持つ絶対的な隔たりを。だが、彼もまた願っているのだ、自分たちが本当にしたいことを、想いのままの二人の在り方を。カヤナと同じように。

「……カヤナ?」

 カヤナの目から涙がこぼれているのに気が付き、イズサミが不安なそうな声を出してくる。覗き込まれそうになって、カヤナは思わず顔を背けた。

「カヤナ? どうしたの……」

 泣かないで、と後ろから頬を撫でられる。その優しい手のひらが、カヤナの涙をゆるゆると拭っていく。
 たまらない。苦しい。こうであることがこの上なく幸せなのに、こうであるせいで果てしなく苦しい。どこかで幸せになってはいけないと自責する自分がいる。そして、そう考えている自分の存在すらも苦痛だ。

「ね、泣かないでよ、カヤナ……」

 イズサミの悲しげな声が耳元でする。
 彼を愛したい、この美しい心を持つ男性を。自分を心から想い、求めてくれる男性を。けれど愛することが罪だというのならば、きっと愛してはいけないのだ。今更愛するなど、図々しすぎる。

「……アメツネ……戻せ……」

 震える声で、カヤナは呟いた。聞き取れなかったらしいイズサミが、えっ?と顔を近づけてくる。

「カヤナ? 何?」
「イズサミを戻せ」

 低く唸ると、カヤナの頬を撫でている手が消えた。背中からもイズサミの気配が無くなり、部屋の中が静かになる。目の前にある鏡を見やると、既に自分の姿しか映っていなかった。
 カヤナはその場に崩れ落ちた。長いローブが重たく感じる。顔を両手で覆い、涙を指先で拭う。鏡を見て安心する自分でありたかったが、それ以上にイズサミが自分の側から消えたという事実に悲しみを覚えている自分がいた。
 それによって、カヤナは自覚した。自分はやはりイズサミを愛している。彼に対する心だけが、周囲に対する心と違う。

「……すまない」

 声は背後からした。イズサミとは違う、感じ慣れた静かで虚ろな気配。

「……アメツネ……
 私はお前を愛さない……」

 顔を手に伏せたまま、カヤナはくぐもった声で言った。アメツネはカヤナの後ろにしゃがみ込み、彼女の背中を緩く撫でた。それを嫌がるようにカヤナが身体をひねると、彼は素直に手を遠ざけた。

「知っている」
「ならば、なぜ……」

 私とイズサミを傷つけるようなことをするのか。カヤナのつぶれた声無き悲鳴は、きっとそう述べていただろう。アメツネはカヤナの背中を見つめたまま微動しなかった。カヤナの問いに返事もしない。
 静かに泣きながら、カヤナは呟いた。

「結局は、お前もセツマと同じなのか、アメツネ……」