04





 誰かを愛そうとすると罪の意識が邪魔をする。多くの命を消し去ったお前に人を愛する資格などないと。
 心に潜む罪悪の叫びに何度打ちひしがれたことだろう。人を愛したいという欲望は長い時を経て消失したはずだった。
 しかし、時おり彼は切望する。罪が許されなくとも、せめて愛する人を幸福にする資格だけは失いたくないのだと。

「イズサミに逢いたいよ……」

 窓際に佇み心ここにあらずで呟いたカヤナを見つめていたアメツネは、自分の内に愛の情熱と叶わぬ恋への悲しみが沸き上がるのを感じていた。愛しい人を想って嘆く女性を、せめて自分の手で慰めてやりたいと思うことは決して罪ではないだろう。だが、それがアメツネという人間には忌むべき罪になってしまうのだった。
 自分の手は汚れている。数え切れないほどの人々を一瞬で消滅させた魔術を生み出した張本人なのだから。魔術を極めたいと願う欲望によって最悪の兵器を作り上げ、力を望む者にそれを与えた――間接的といえども、犯した罪の重さは変わらない。そのような業を背負う人間が、一体誰を愛することなどできようか。愛される側も嬉しいはずがない。

「どうした、アメツネ」

 椅子に座り、両手を見つめているアメツネに、カヤナが神妙な声で呼びかける。彼女はアメツネの前まで来ると、その場に立て膝をついて薄く微笑した。

「お前の考えていることが分かるぞ」

 得意げに言われ、アメツネはわずかに目を細める。

「そうか?」
「私の手は汚れている、だから私はカヤナを愛することなどできないのだ――かな。昔の話を聞く限り純朴な男だ。優しさがお前の願いを邪魔している」
「願いなど」

 とうの昔に忘れたよとアメツネは自嘲気味に笑い、カヤナから顔を背けた。彼女に言われたことは図星であったし否定する気もなかったが、イズサミ以外の誰も愛せないと自分の前で堂々と言ってのける女に同情されるのはさすがに腹が立った。

「……たとえ願いを抱いても、叶えられる者などどこにもいない」
「自身が赦せないのだから、そうだろうな。結局、自分の願望を妨げるのは自分自身なんだ。お前と私は同じ。だからお前の気持ちなど手に取るように分かるのさ」
「私からすれば、そなたの手は汚れていない」

 言ってしまってから、アメツネはしまったと思った。案の定カヤナは眉間にしわを寄せ、不機嫌さを露わにしていた。

「お前の方が多く殺したからか?」
「すまない、今のは……失言だった」

 申し訳ないとうなだれる。カヤナは苦笑し、気にするなと言いながらテーブルの前にある椅子の一つを引っ張り出して、そこに腰掛けて脚を組んだ。

「イズサミは、典型的なおぼっちゃまだからな。お前のようにそこまで気が回らん」
「……これは純粋な疑問なんだが……」

 ひとまずカヤナが怒りを鎮めてくれたことに安心しつつ、アメツネはおずおずと彼女に訊く。

「どうしてそなたはイズサミが好きなのだ?」
「ほう、お前もそういう質問をするのか」

 からからと笑い、カヤナは長い黒髪をかき上げた。

「そうだなあ……あいつはどこか子どもっぽいが、時にその純真さで真実を見抜くところかな」
「ふうん……」
「傷ついたときに、自分が傷ついたということを真正面から認める人間は少ない。どこかで傷つけた相手を避難したり、自分自身を庇護して都合のいいように解釈したがるものだ。いわゆる強がりというやつだな。
 だが奴にはそれがないのだ。傷ついたら傷ついたのだと真っ直ぐに受け止め、しかもそれを相手に伝えられるのだからな……まあ、狂戦士になってからはそれも若干変わってきたが。あいつは、わがままには違いないが、本来相手のせいにはしない人間だったのだよ。相手に自分が傷ついたと伝えようが、傷つくのは自分のせいだという前提がある」
「ほう……」

 あの男についてそういう見方もできるのだなと、アメツネは感心した。カヤナやセツマのことは大体の性格や動向を把握しているが、イズサミのことはあまり深く考えたことがない。
 アメツネは、ふむ、と口元に手を当てて言った。

「つまり、私がイズサミのことについて注意深く観察しないのも、彼がありのまますぎて腹の内を探る必要もないから、ということか」
「まあ、その通りなんだろうな。私はあいつのそういう透き通った感じが好きなんだ。私のことを真っ直ぐに好いてくれる。私はお前と違い、白黒はっきりしているのが好きだからな」

 だからそもそも初めからお前の曖昧さ加減は好みではないのだとばっさり言ってくる女性に、アメツネは苦笑いを浮かべる。

「そうか。私にとっては、なんと険しい道のりか」
「でも、私も別にお前のことは嫌いではないぞ。お前は平和主義だ。私も元来は平和主義なんだよ、物騒な武器を持って争いごとなどしたくはない。そう言うためには私はもう取り返しのつかない場所まで来てしまったがな。
 本当はイズサミにも剣など握って欲しくはなかった。あいつほど武器が似合わぬ奴など他にいるだろうか……」

 近い窓から何もない空間を眺めるカヤナの瞳は、どこか空虚で暗い。アメツネは、時々垣間見せるこの憂愁に王たる女性の本来の姿があるのではないかと感じ、彼女に心惹かれていた。カヤナも勝ち気ではあるが女には違いないのだ、その内面に女性らしさや母性があるのは当然だろう。それをまるで罪であるかのように押し殺しているカヤナの姿勢が、アメツネやセツマ、かつて彼女を好いた警備隊の青年の心に留まったに違いない。本当の彼女を見たい、本来の願いを知りたい、彼女が隠している弱い部分を守ってやりたいという欲望と共に。

「イズサミは、そなたのどこを愛したと思う」

 ふと、そんな問いが自分の口から出て、アメツネは自身で驚いた。カヤナも彼がそんな質問をしてくるとは予想していなかったようで、目をしばたたかせながらアメツネを見て不思議そうな顔をした。

「あいつが? 私の? ……そうだな……」

 腕を組み、少しのあいだ考え込んでから、

「まるごと……かな。あいつの場合」
「まるごと?」
「ああ。私の全てだろうな」

 語るカヤナの顔は、どことなく嬉しげだった。

「私が大好きだと彼は言った。私はたまげたよ、こんな野蛮な女に不満一つ漏らさない男などいるのかと。
 けれど、やはり私は嬉しかった。あいつは、私の弱さも強さも、全てを愛してくれると言うんだ……」

 普段は凛々しい目元をほころばせて言うカヤナに、アメツネはだんだんと見ていられなくなって目を伏せた。

「……そうか……」

 彼女から視線を外した後も、残像となった女性の優しげな微笑が浮かぶ。
 そのとき、アメツネは思った。
 カヤナはイズサミのことを愛しているのだと。そしてイズサミもまたカヤナのことを愛しているのだと。
 彼らは愛し合っているのだと。

「……イズサミは……」

 その事実は心の奥に冷たい鉛を落とすかのようだったが、かろうじて力無く笑んでアメツネは呟いた、

「ああ見えて、強い男なのだな。そなたが好きになるのも納得する……」
「そうだな……私は強い男が好きなのかもしれないな」

 嬉しそうな声で当然のように言ってくる女性は、果たしてアメツネに刺さる細い痛みに気が付いているのか、いないのか。

「だがなアメツネ、私のためにイズサミを呼び寄せたりするんじゃないぞ。私にも心の準備があるし、我らの溝は深いのだ。イズサミなら、私に会った途端に素直に嬉しがるかもしれないが、私の方はそんな平気な顔はできなくてな。だから、あいつをますます不安にさせてしまう。あまりあいつを不安定な状態にしたくはないんだ」
「……カヤナ」

 そのとき不意に何者かの気配を感じ、アメツネは息を潜めた。

「何だ」
「……私に寄れ」
「? 何でだ?」

 首をかしげるカヤナを無理矢理手で引き寄せ、アメツネはある一点を睨むと右手をかざした。その直後、バリバリという耳障りな音を立てて二人の近くにあった棚が大きく揺れた。

「なっ、何だ!?」

 棚には斜めに大きな傷がつき、中に陳列されていた小瓶や箱などがいくつも破裂し、棚の中に散乱する。アメツネはできるだけカヤナに被害が及ばないように彼女の頭を左手で胸元に押しつけ、右手を一振りした。すると何者かの苦しげな声が遠くから聞こえてきた。
 その声に、カヤナはハッとした様子で顔を上げた。

「セツマ?」
「ああ」

 アメツネは攻撃を防ぐための障壁を作り上げつつ頷く。

「居場所がばれたようだ」
「居場所がばれたっ? お前の魔術が見破られたというのか!?」
「そのようだな」
「あいつ、そんなことができたのか?」

 カヤナの言葉と同時に第二の攻撃があり、かまいたちのような風が吹き抜けて今度は部屋の窓ガラスが何枚か割れる。魔術のおかげでいっさい攻撃が当たることはなかったが、セツマの荒れ狂いぶりにさすがのアメツネも呆れてしまった。

「すさまじい執念だな……」
「ちょっと待て、セツマは魔術なんて使えたのか?」
「二千年生き続けていた男だ、そなたを手に入れるためなら何だってするであろう」
「馬鹿かあいつは……」

 カヤナもやれやれとかぶりを振り、アメツネのかざす手のひらの先を見やった。この空間からセツマが見えるわけではないが、何者かの殺気立った気配があるのは分かるようで、カヤナはアメツネにひっついたまま怒鳴り声を上げた。

「おいセツマ! いい加減にしろ。他人の家に迷惑をかけるなと散々私に教えたのはお前だろうが!」

 だが、いきり立った言葉に返事は無い。

「あの者は私とそなたが共にいることが気に食わないようだな」

 アメツネが言うと、カヤナは頭を抱えて溜息をついた。

「馬鹿者め……」
「よい考えがある、カヤナ」
「考え? 何だ」
「作戦の一部だ、抵抗するなよ」

 抵抗?と言い切る前に、アメツネはカヤナの唇を自分の唇で塞いだ。目をまん丸くしている彼女の顔が見えたが、それから彼女がどういう表情になったのかは瞼を閉じてしまったせいで分からない。大騒ぎされるかと思いきや、前もって忠告したおかげか抵抗されることはなかった。
 すると、すさまじい怒声と共に、愛し合う恋人たちのような二人の姿に向けた激しい攻撃があった。魔術で防いでいても放たれる鋭い風で衣服が舞い上がるほどである。
 アメツネはかざしたままの右手を勢いよく横に振ると、普段の店から逃れるために空間転移した。辺りから殺気が消えたのを確認し、ようやくカヤナを腕から解放する。
 長いあいだ口づけをされていたカヤナは、ようやく息ができたという様子で深呼吸をした。

「はあ! な、長かったな」
「息は止めなくてもよいのだが」

 苦笑しつつ、アメツネは辺りを見回す。もはやセツマの気配はなく、周囲には遠くに山を背負う穏やかな草原が広がるばかりだった。
 同じくぼんやりと景色を眺めていたカヤナだが、アメツネをふと見上げて言った。

「何のつもりだ」
「何がだ」
「接吻だよ」
「ああ。セツマの憎しみの矛先を私に向けさせただけだ」

 淡々と放たれたアメツネの説明に、カヤナは急に眉をひそめた。

「……お前!」
「あの者にイズサミへの想いを汚されたくないのならば、これが一番よい方法であろう。セツマは私を恨む。そうそうイズサミに意識が向くことはない」
「だからって!」

 自分を犠牲にしなくてもいいと苦々しげに吐き捨てるカヤナに、アメツネは微笑してみせた。

「これが私の愛し方なのだよ」
「……馬鹿な。お前にとって、私にはそんな価値などないのだぞ」
「価値があるかないかは私が決めることだ」

 先ほどはすまなかったなと言いつつ、アメツネは草原の上に腰を下ろす。セツマがなかなか強烈な魔術を使ってきたせいで、少し疲れてしまった。

「やれやれ……部屋の片づけが大変だな」
「……」

 カヤナものろのろと隣に座ってくるが、その表情は冴えない。

「……あの空間は大丈夫なのか。居場所がばれたんだろ?」
「また違う場所に移すから問題ないさ」
「そういうものか。だが、一体セツマは何なんだ? お前の魔術を見破ったり、並大抵の人間ができることではなかろうよ」
「それほどそなたを愛しているのだよ」

 指を立て、口元に当てながらひょうひょうと言うアメツネを半眼でにらみ、カヤナは落胆したように肩を落とした。うつむいて下に生えている草をぷちぷちと抜き、不機嫌さを露わにしている。

「私はそんなにいい女か? 馬鹿馬鹿しい、結局のところ色恋沙汰などろくなものではない。面倒事ばかりが増える」
「そなたはいい女さ。まあ、セツマに限っては精神面でやや歪んだ部分があるが……彼の気持ちは分からぬでもない」
「同じ男だからか?」
「それもあるが、力の有無も関わってくるな」
「力?」

 きょとんとした様子で首を傾げるカヤナに、アメツネはくすくすと笑った。

「結局のところ、男には女を力でねじ伏せたいと思うところがあるのだ。もし私がセツマと同じ立場で彼と等しい感情をそなたに抱いていたとしたら、自身の強力な魔術を利用してそなたを我が物にしたいと思っていたのかもしれぬ。幸い私は年の功が邪魔をしてそれには至れないが、セツマは二千年前から全く成長していないようだな」
「そう、それだ。それが問題なんだ……」

 ああ、と力無い悲鳴を上げ、カヤナは草むらの上に仰向けに転がった。両手を大きく伸ばし、少し悲しげな面持ちで空を見つめている。
 アメツネは黙り込んだカヤナを見下ろしていたが、そのうち顔を上げて青い空を見やった。まばゆいソルが視界に差し込んできて、目を細める。

「……恋は盲目とはよく言ったものだ……」

 下から聞こえてくる呆れ混じりの呟きに、アメツネは手をかざして空を眺めたまま笑った。

「はは、そうだな」
「お前もだぞ」
「ああ、そうだ」
「と言いつつ、私もだ」
「そうだな」
「アメツネ」

 呼びかけに、アメツネはカヤナに視線を戻す。彼女は両腕を交差させて額に当て、無表情でアメツネを見つめていた。何だろうと首を小さく傾けると、カヤナは薄く笑みを浮かべた。

「お前の接吻はなかなか本格的だったぞ」
「……」

 いきなりの話題に、そう言えばしたのだった、とアメツネは溜息をついた。

「今更だな」
「驚いたよ」
「すまなかった」
「いや、いい」

 目を閉じて気持ち良さそうに深呼吸をし、

「お前との接吻は嫌いではないぞ。たかだか一種の愛情表現にすぎん。接吻ごときで私の想いはぶれたりしない……」

 淡々と言われるカヤナの言葉に、アメツネは複雑な気持ちを抱いて曖昧に笑う。彼女の答えは予想の範疇だったが、面と向かって言われると悲しいものがある。

「人を傷つけるのが得意だな、そなたは」

 試しに嫌味を言ってやると、カヤナは目を閉じたままくすくすと笑った。

「そうさ、散々男どもに傷つけられたからな。仕返しをしてやってるんだ」
「私も愚かな男のうちの一人か?」
「アメツネは私を愛しただろう」
「私がそなたを愛することは、そなたの傷になるのか?」

 少し不安になって問う。するとカヤナは瞼を上げ、口元から笑みを消してアメツネに視線を送った。
 ざあと強い風が二人の間を吹き抜ける。

「時にな」

 カヤナの一言に、アメツネはゆっくりと唇を閉じた。

「……」
「だが、自らの内から溢れ出る愛を止められないことは、私にもよく分かっている。私には全て分かるのだ。私自身がすでに知っているからこそ、お前の痛みも、セツマの狂気的な愛の感情も。私の抱くイズサミへの想いは、セツマとは現れ方が違うだけで実は何ら変わりない。一人の人間を狂ったように想い続けることが正常であると言えようか」
「……」
「アメツネ、お前も狂っている。私を愛すことによって。自らを犠牲にして誰かを守りたいと熱烈に思うことは決して人の善良さではないのだよ。愛情という狂気なのだ」
「ならば、私がこういうことをしても狂っているということで理由が説明できるわけか」

 アメツネはムキになってカヤナの両脇に手をつくと、彼女の唇に再度口付けをした。先ほどのように別のことに気が散っていないために彼女の唇をむさぼることに集中ができ、唇を舐めたり口内を舌で撫でたりしながら、カヤナを口で犯していた。カヤナは時おり苦しげな呻きを上げたが、やはり抵抗はしなかった。
 再び強い風が吹く。爽やかだが少し威嚇的な風が。
 アメツネはのろのろと顔を上げ、カヤナを解き放った。
 自分の下で横たわっている女の顔は、何の感情も宿してはいない。

「そうさ」

 低い、いつもの彼女の冷徹な声がアメツネの耳に届く。

「これも狂気のうちの一つ。
 そして私にとっては何ら意味のない行為だ」

 アメツネはカヤナの頬を片手で軽く撫でながら、無表情のカヤナを飽くことなく見つめ返していた。