03
おい、アメツネ、アメツネ!
曖昧な意識の中に、聞き覚えのある女性の声が紛れ込んできて、アメツネは目を開けた。いや、開けようとしたが、睡魔のせいで完全には開ききれなかった。もしかしたら幻聴かもしれないと思って声への返答を諦め、ベッドの上に深く沈むと、
アメツネ、助けろ!
再び声が頭の中に流れ込んできたため、アメツネは唸りながら片腕を伸ばし、救助を求めている声の主を魔術によって呼び寄せた。うわっという悲鳴とどさりという重たい音がして、一体なんだろうとアメツネはようやく目を開けきった。自分がうつ伏せになって眠っていたベッドの脇で、カヤナが尻餅をついて険しい表情をしている。床に尻を打ったらしい。
「いたた……おいっ、アメツネ! 早く戻さんかっ」
「んん……」
戦女神の声が煩わしく、アメツネは顔をカヤナと反対の方向に向けて、深い息をついた。せっかくの眠りが邪魔されてしまった、やれやれ、と再び心地よい睡眠を得るために掛け布団を引き寄せると、ほぼ同時に布団が引っぺがされてしまう。
一体何事だとアメツネは眉間に皺を寄せながら、自分を覗き込んでくる女性を睨み付けた。
「騒々しい」
「大変だったんだぞ、こっちは!」
ばさりと布団をアメツネから遠ざけて、カヤナはベッドの端に腰掛けた。腕を組んで鼻息を着いている戦女神の後ろ姿は、何やら話を聞いて欲しそうである。アメツネは渋々カヤナの方に身体を向け、横になったまま枕の上に片腕をついた。
「どうした」
「お前がセツマの所に戻すからだろうが」
ベッドの上で薄ら笑いを浮かべているアメツネを半眼で見下ろし、カヤナはふて腐れた様子で言う。その表情は、怒りというよりは呆れだった。
「私がお前と共に消えたことで混乱していたぞ。お前に次会った時にはただではおかないそうだ」
「やれやれ……学習しない男だな」
せっかくの睡眠が邪魔されてしまったと改めて毒づくと、カヤナは、お前でも睡眠を取るんだなと不思議そうな顔をした。人間だから当然取るさ、生きているんだからと言いながら起き上がり、カヤナの横を過ぎてベッドから立ち上がる。首を左右に曲げるとパキパキと音が鳴った。
「それで? セツマから脱するために、私を呼んだわけか。私はそなたの便利屋か?」
「別にそういうつもりではない!」
アメツネの嫌味に、カヤナも負けじと言い返す。
「だが、お前、さっき私を一人でセツマのところに戻しただろう! 戻された瞬間、目の前にあいつがいて焦ったんだからな。怒ってるし、機嫌は悪いし、相変わらずカヤナ様カヤナ様だ。嫌になってしまう、あいつが私のものだと? 私は欲しいだなんて言った記憶もないぞ」
「あの者に同情するな」
苦笑しつつ、アメツネは水を飲むために隣の部屋のテーブルへと向かった。カヤナもキーキー言いながら寝室からついてくる。
「セツマが可哀想か? だが気持ちを押しつけられた方の身にもなってみろよ」
「正々堂々と話せばよい」
水差しからコップに水を注ぎつつ、アメツネは淡々と返した。
「“私はこのバルハラにおいてもイズサミが好きだ、だからお前のことは好きになれない”と」
「言えるわけないだろうが。また同じ事を繰り返すだけだ」
「ならばセツマを好きになるしか方法は無いのではないか? セツマはそなたが自分を好きにならない限り、相手が誰であろうと喧嘩を売りに行くぞ。もはやそなたを殺せなくなった今、喧嘩をふっかける相手はそなたと関わり合う全ての人間であろうからな」
「うう……」
頭を押さえてかぶりを振り、肩を落としてカヤナは近くの椅子に腰掛けた。アメツネは立ったままテーブルに寄りかかり、冷ややかな目でカヤナの姿を見つめてコップの水を口に運ぶ。うなだれる戦女神の姿は痛々しかったが、どうしようもない想いを抱き続けようとする本人自身が悪いという考えもアメツネにはある――とは言いつつも、元凶はセツマの嫉妬深さだが。それさえ無ければ二千年前の運命は変わっていただろう。
「セツマの魂を消し去ろうか?」
不意にアメツネが言うと、カヤナは驚いたように顔を上げたが、すぐに渋い表情になって首を横に振った。
「駄目だ。あいつには世話になっている。そんな酷なことはできんよ」
「わがままだな。言っておくが、私もそうそう毎回そなたの望みを叶えられるわけではないぞ。今回も睡眠を邪魔されたし」
「それは悪いと思っている……」
私だって睡眠を邪魔されたら嫌だからな、とカヤナはぱたぱたと手を振りつつ嘆息した。
「……分かった。お前にはあまり頼らないようにする。そもそもお前には関係が無いからな……」
「それはそうだな」
「イズサミを愛することが、バルハラでも罪になりそうで嫌になるよ」
苦笑いをし、カヤナは椅子の上で足を組んだ。近くにある窓からぼんやりと外を眺めている。この店がある場所はどこでもない場所なので、外には何もない。ただ白い空間が延々と続いているだけだ。
カヤナの落胆気味な言葉に、アメツネはコップをテーブルに戻しながら返した。
「死者は生前を背負う者なのだろう? 全てが零に戻ることが死ではないのだと。そなた自身が言ったことだ、ならば愛もまた背負わねばならぬものの一つなのではないのか?」
感情の含まれていないやや冷たい言いぐさを不満に思ったのか、カヤナはじろりと目線だけをアメツネに向けた。
「そうだな。疲れるよ、実に」
「そなたはこれからどうしたいのだ。イズサミを想いつつ、あのバルハラでどう過ごすつもりなのだ?」
「特に何も。目的は消えた。私もセツマも死んだ……することなど無い。在ることの意味など。
そうか……この途方もない絶望感を抱いて、お前は生き続けているわけだな」
「……」
「――正直言うと」
カヤナは立ち上がり、窓ガラスに両手をつけて、眺めても意味もない無の空間を無表情で見つめた。
「イズサミに逢いたい」
感情の宿らない口調で放たれたその言葉に、アメツネは沈黙した後、彼女に訊いた。
「逢わせようか?」
その場から動かず、カヤナはうつむいた。
「……まだ、迷っている」
つい先ほど自分に対して不満をうるさいほど喚いていたとは思えない、威勢の消えた女性を、アメツネは横から見つめ、ただ黙っていた。
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