01





 なだらかに流れる雲が、果たして地上から見てきたものと同じ雲なのか、そうでないのかは分からない。二本の足が立つ場所は、不思議な透明の板によって地と天の境を作っている。自分が本当にそこに佇んでいるのかどうかも曖昧な浮遊感の中で、カヤナは景色を眺めていた。遠くまで広がる風景はどこまでも清らかで、美しく、彼女がそれまでいた生者たちの世界とはまるで違った。あらゆるものが螺鈿のような色を帯び、優しく静止している世界。目まぐるしく時代が流れる現世と対を為す場所。
 ここは時間軸の無い世界だというが、カヤナは自分の中に時を感じていた。この感覚はバルハラでの二千年間、失われることが無かった。魔術師との契約により、自分が復活して憎むべき者に復讐をするという目的があったおかげだった。しかし、この死後の国で過ごすことに慣れれば、この感覚もいつか消え去る時が来るのだろうか。自分には、もう目的がない。審判の時を待つという目的がない。目的のない生が無意味であるように、目的のない死も無意味なのだろうか。自分はどこへ行けばいいのだろう。眠ればいいのだろうか。眠った先に何があるというのだろう。
 こんなことを考える意識などさっさと無くなってしまえばいいのに。
 ふと、気配を感じる。冷たくて温かい、不思議な気配だ。それはきっと彼と自分が違う存在だからだとカヤナは思った。自分は死んだが、彼は生きている。そうだ、考えてみれば、彼は死なないのだから、この先決して自分と同じ存在になることはないのだろう。死に続ける自分と生き続ける彼。なあ、お前、アメツネよ、苦しくはないのか。

「苦しくはない」

 声が響く。確かに背後から聞こえるのに、別の場所から響いているようにも聞こえる、低い声。
 カヤナは振り返った。あの醜い老人の外見から元に戻った、優しげな若い男性の姿がある。彼はカヤナの隣に並び、かつて戦女神と呼ばれ運命に翻弄された女性をひどく穏やかな目で見つめる。彼が持つのは不思議な輝きを持つ青い目だ。まるで瞳だけがぼんやりと光っているように錯覚する。確かにそれは優しい目だが、どこか虚無を抱いている目だった。カヤナは彼の顔を見つめ返した。
 アメツネは、苦しくはない、と再度穏やかな声音で呟く。

「なぜなら、苦しみも喜びも、とうの昔に忘れてしまったからな」
「……」

 カヤナはアメツネから視線を外し、遠くまで広がる幻想的な景色を眺めた。現世で朽ち果てた自分の居場所はここにしかない。ならば、彼の居場所はどこにあるのだろう。生きる者とも死んだ者とも違う、永久に生き続ける者の居場所とは、一体どこに。

「私からすれば、それはつらいことさ」

 カヤナが言うと、隣でアメツネが小さく笑った。

「そうかもしれぬな」

 それは、無感というよりは、全知だからこそという口調だった。

「だが、それはそなたが限りある生を知ったからこそ生まれる感覚だ。誰かによってはつらく、誰かによってはつらくはない、その程度のもの」
「お前はそればっかりだ」

 溜息をつき、ふて腐れたようにあぐらをかいて座り込む。アメツネは隣に佇んだまま、続けた。

「人はいつも物事を二択にし、どちらかを選択しようとする。生きるか死ぬか、勝つか負けるか、幸福か不幸か」
「言っておくがな、お前が特殊なんだぞ。不死なんだからな」
「言ってくれるな」

 苦笑混じりの声が上から降ってくる。アメツネの過去については彼から聞いたばかりなので知っていたが、彼に気を遣ってやるつもりは毛頭無かった。

「生きる人間は皆愚かだ。私も、アメツネもそうだったように」
「そうだな」

 アメツネも腰を下ろし、カヤナの隣に座ってくる。ちらりと横目で見やると、彼は笑みを浮かべたまま、遠い目でどことも知れない場所を眺めていた。
 しばらく沈黙していたが、じきにカヤナから口を開いた。

「不死とは、生き続けることではないのだな」

 発した言葉に、アメツネが振り返る。

「うん?」
「不死は、死んでいるのと同じだ」

 カヤナの一言を聞いたアメツネは、沈黙した。ゆっくりと視線を景色に戻し、浮かべていた微笑を消して、堅く唇を閉じている。
 しかしカヤナは構わず続ける。

「お前は、全ての事象が不定であり、決めつけることのできないものだということを、長らく生きて悟ったのだろう。
 だが、その悟りが終わったとき、お前の生には意味が無くなった。知るべきものも、知る目的も無くなったのだから。だから余所から人の運命を見つめている、自分が退屈しないように」
「……そなたには、そう見えていたか」

 無表情で返され、カヤナは「ああ」と、やはり無感情に返した。

「傷つくか? しかし間違いではないだろう。生きることにアメツネは退屈していた。だから私を助けた。私は他に比べて波乱の多い生を歩んでいたからな、お前にとって見所も多かったのだろう」
「私がそなたの人生を傍観して楽しんでいたということか」
「そうだ」
「……そうかもしれぬな……」

 溜息混じりに、アメツネは呟いた。そしてゆっくりと腰を上げ、カヤナに手を差しのべる。何だろうと思いカヤナが見つめ返していると、アメツネはどこか悲しげに微笑んでみせた。

「だがな、私がそなたを助けたのは、そなたの人生を弄んでいたからではない。単純に、そなたを守りたかったからだ」
「……お前にもそういう感情があるんだな」

 いたずらっぽく笑み、カヤナはアメツネの手を取った。強い力で引っぱられ、カヤナも立ち上がる。
 手を離そうとするアメツネを、カヤナは握り返すことで止めた。きつく繋がれた右手に、アメツネが少し驚いた声を出す。

「カヤナ?」
「だが、私は……なあ、アメツネ。お前、人を愛する心を私に戻したよな?」

 カヤナの問いに、アメツネは沈黙した後、答えた。

「……ああ」
「やはりな。お前、勝手に対価を戻すなんてやめろよ。どれだけの決意を持って私が対価を払い、蘇ったか分かっているのか? それとも、愛することを思い出すことで、私がお前を愛するだろうとでも思ったか」
「高慢な態度を取るな?」

 カヤナの上から目線の言いぐさに、さすがに不機嫌になったように眉をひそめる。

「言っておくが、そういうつもりではない。人の心を縛ることにすら私は興味が無いからな」
「どうだろうか……」

 遠ざけようとするアメツネの手を力を込めて掴み、放さないようにする。ますます困惑した表情を見せる彼に、カヤナは不敵に微笑む。

「セツマがいい例だ。それまで何も素振りを見せなかった奴が、いきなり嫉妬に狂ったり」
「それはそなたが気付かなかっただけであろう……」
「悪かったと思っている。だが私は、愛することを思い出したとしても、セツマもお前も愛することはできないかもしれない」

 カヤナは力を失ったようにアメツネの手を放した。弱々しく笑み、彼から少し身を離して、その場所から遠くを見やる。虹色のような雲が、風と共に流れている。

「お前に対価を戻されたことで、思い出したんだ……」
「……イズサミか」

 アメツネの口から放たれた名を耳にして、カヤナは苦々しげに目を細めた。そのまま、どこへ着くかも分からない方向へ歩き始める。後ろからアメツネがついてくる。

「イズサミに会いに行くか?」
「……」
「彼も、このバルハラのどこかにいる」
「……できると思うか……」

 立ち止まり、カヤナは両手を握りしめた。神話時代の様々な思い出が蘇ってくる。イズサミと出逢った時のこと、好きだと言い合ったこと、別れを言った時のこと、自分の剣で彼を貫いたこと、そして自分と彼の出生の真実を知らされた時のこと。
 未だにイズサミの身体を剣で刺した感覚が手のひらに残っている。忘れたくても忘れられない、あの瞬間。永遠の罪を背負った裏切りの日。

「……なあ、アメツネ」
「ん?」

 すぐ背後に佇んでいるアメツネに、カヤナはうつむいたまま言った。

「愛することを思い出した今、バルハラでなら、私は彼と愛し合うことができるのだろうか。私を愛してくれたイズサミを愛し返すことができるのだろうか。この時の止まった永久の地では、もはや人間の血統など関係がないだろう? 私とあいつが、腹違いの姉弟だということも……」
「……」
「お前の力でどうにかならんのか」

 アメツネは、すぐには返事をしなかった。それが愚かな問いであることはカヤナにも分かっていたが、訊かずにはいられなかった。生前果たせなかった願いを、もし今ここで叶えられるのならば叶えてしまいたい。酷い仕打ちをしてしまったイズサミに懺悔をしたい。その懺悔とはイズサミを愛することだ、彼が自分を愛してくれるのと同じように。

「私はきっと、身分や家など関係無しに、人を愛したかったのだ」

 風が吹き、髪が揺れた。一度は切ってしまったのに、いつの間に伸びた癖の多い長い髪。イズサミだけだ、自分が短い髪になっても偏見を言わず、真っ直ぐに愛してくれたのは。
 ああ、この美しい死んだ世界で、お前を愛したいよ。

「できない」

 アメツネの一言が、カヤナの希望に満ちた空想を破壊する。

「そなたたちを、ただの恋人たちとして愛し合うようにすることができたのならば、そなたの生前にとっくにそうしていた」
「……そうだな」

 分かり切っていたことだが、やはり彼の返事に空虚感を覚え、カヤナは深く溜息をついた。

「その通りだ。無意味な争いも起きずに済んだだろうな」
「私には人の生き方や運命を変えることはできない。望む者に対し、対価と引き替えに望みを与えるだけだ。私にも常識はある、むやみやたらに人間の人生が変わってしまうようなことはせぬ」
「でも時に事物の流れを操作していただろう、お前は。私をセツマから逃がしたように」
「ごく希にな」

 しかしそういう存在がいても良いだろうというアメツネの言い分だった。カヤナは苦笑して、そうかもしれないな、と言い返す。

「いてもいいかもしれないし、いない方がいいかもしれない。お前流の言い方だ」
「……」
「私は、イズサミを愛し続けると思うよ」

 アメツネに振り返ると、彼は無表情でカヤナを見下ろした。どことなく寂しげな目をしている男に、カヤナは微笑する。

「そんな顔をするなよ」
「……そんな顔、とは」
「アメツネは私を愛するのだろう? お前、私に対してはやたら甘いからな」
「そうか?」
「そうさ」

 トンとアメツネの胸元を手のひらで叩く。彼の困惑気味な表情が、カヤナには少し面白かった。

「私は構わない。愛されることにも憎まれることにも慣れている。それでも私の心は私だけのものだ。
 けれど私は、愛の言葉をイズサミには伝えられない。心のどこかで、やはり私たちは愛し合ってはいけないと考えている。それが原因でここまで来た私たちだ。今更それを覆して愛し合おうだなんて、古の我らの国の者たちに対しても申し訳がないだろう」
「カヤナ。そなたはもう死んだ。バルハラでは解放されても良いはずだ」
「そうだろうか? 死ねば、罪は浄化されるのか? 我々の生は零に戻るのか? そうではないだろう。死とはやり直すことではない。それまでの生を背負うことだ。誰かが私の墓を作り崇めているだろう、それは私が生前を背負う死後の者だからだ。私には、今を生きる者たちへの責任がある。現に私は今ここにいる時でも私という自我を持っている。この自我を忘れ去らぬ限り、私は責を背負い続けるだろう」
「全ての記憶を元に戻し、そなたを人形のようにすることも、私にはできる」

 アメツネが真剣な面持ちで言うのを、カヤナはくすくすと笑った。

「ははは……それはできないことではなかったのかな」
「生者には施せぬ。だが、死者に施すことは可能だ。死者はもはや実体すら失った存在、魂など、あってもなくても同じ」
「あってもなくても同じ、か……しかし、アメツネは強く優しい男だな」

 アメツネの頬にそっと指先で触れると、彼は驚いたように目元を微動させた。しかしそれ以上の動揺はせず、近くからカヤナをじっと見下ろす。鮮やかな湖のように神秘的な青い色の瞳で。
 彼の虹彩に吸いこまれそうになる感覚を覚えつつ、カヤナは笑んだまま彼に言った。

「そうだな、私がつらくてどうしようもなくなったら、お前に頼むことにするよ」
「カヤナ」

 背中に腕が伸び、急にアメツネに抱きしめられる。自分の肩の上に彼の頭が来て驚いたが、抵抗はしなかった。だが、彼を抱きしめ返すこともしなかった。
 アメツネはカヤナの首元に顔を押しつけて呟いた。

「私には、そなたの人間味がうらやましい。そのうらやましいという感覚が、私が人間だった頃の感情を甦らせる」
「……」
「だから、私はそなたを守りたかった。自分が自分を思い出すために、そなたを失いたくなかったのだろう」
「……アメツネ」
「結局のところ、自分の私利私欲なのかもしれぬが」
「アメツネ!」

 離せ!とカヤナが叫ぶと、アメツネは言われた通りに解放した。カヤナは数歩後ずさり、苦しげに奥歯を噛む。

「私に愛を与えるな、アメツネ。愛されようとも、私はお前に愛を返せない。私の愛はイズサミのものだ。それが、私のあいつに対する償いなんだ」
「……それでも」

 アメツネは微笑んだ。それは今にも崩れ落ちそうな微笑みだった。

「私は、そなたを守ろう。イズサミを愛するそなたごと、その存在を」

 その透き通った言葉と、彼の低く穏やかな声音に、カヤナは思わず泣きそうになる。

「……アメツネ」
「そなたが誰を愛し続けていてもいい。私は、友として見守っている」
「やめろよ……私がイズサミに対してした仕打ちを、お前にもしなければならないというのか……」
「一方通行の愛を選んだそなたに、私の一方通行な想いを咎める資格は無いぞ」

 くすりと笑い、アメツネはうつむいているカヤナに近づいて、そっと頭を撫でた。そのたおやかさに、カヤナの目に涙が溜まる。

「そなたと私は、相手は違えど同じ形の愛を抱くことになるのだろう。それでいいではないか。誰も咎めぬ。死のうが生きようが、我らの時は止まっている。しかし、思いは止まらぬ。いずれそなたが苦しみから解放される日が来るかもしれぬし、来ないかもしれぬ。それで、いいではないか、カヤナよ」
「……そんな考え方が出てくるのは、長年生きた証だな」

 溢れてきた涙を指先で拭い、カヤナは気を取り直すために手に腰を当てた。

「お前は強いよ、すごく強い」
「何千年も生きているからな」
「その間に好きな女はできなかったのか? そもそも、なぜ私なんだ」
「さあ、なぜだろうな」
「お前はそればっかりだ」

 再びトンとアメツネの胸を拳で叩き、カヤナは踵を返した。歩いている場所は透明だが、地を踏みしめるような感覚はある。バルハラには何もないが、時おり何かがある。あまりに広大なため、カヤナにもバルハラの全てを把握し切れていない。

「久々のバルハラだ、少し見て回ろう。付き合えよ、アメツネ。セツマを叱りに行かねばならん」
「セツマ……言っておくが、あの者はそなたへの執着を捨てたわけではないぞ。そなたは二千年ぶりかもしれぬが、あの者は二千年間そなたのことを想い続けていた。会えば同じ事を繰り返す可能性もある」
「はあ? 私はもう死んでるんだ、あいつもな。いいかげん繰り返さないように言いつけにいくんだ」
「どうだかな……奴は嫉妬深い。私と共にいることで激情するかもしれぬ」
「だから守ってくれるんだろう? 私を」

 振り返り、いたずらに笑って言う。アメツネも苦笑を浮かべ、カヤナの後にゆっくりと続いた。