とんでもない光景を目にしてクラトは総毛立った。アキとアクトに夕食の下準備を頼まれていて(捕虜という扱いで滞在しているのに家族団らん状態になっているのが疑問だが)、二階の台所へ行こうと階段を上り切ったとき、風呂の前にある簡易なドレッサーの椅子に座っているカヤナが、鏡をのぞき込んで自分の髪を切ろうとしていたからだ。
 目撃した瞬間、訳の分からない叫び声が出て、クラトは自身でも知らないうちに走り込んで彼女の手からハサミを取り上げていた。手を届かせないために腕を伸ばし、高い位置にハサミを運びながら怖い顔で彼女を睨めつける。

「何してるんだよ!」

 カヤナは相当驚いたらしく、目を丸くしてクラトの顔を見つめ返した。え、あ……とどもった後、クラトの手に握られているハサミを一瞥して、戸惑がちに言った。

「何って……切ろうと」
「どうして切る!?」
「ど、どうしてって……邪魔だからだよ!」

 カヤナも突然の男の行動に怒りが込み上げてきたのか、あるいは自分自身が驚いたことが悔しかったのか、目をつり上げて立ち上がり、クラトに向き直った。そのとき初めて彼女がとても薄い着物一枚しか着ていないことに気付き、クラトは風呂上がりらしい彼女から視線を外した。

「邪魔だから、だなんて理由にならないだろ?」
「私の髪だ、私の所有物なんだぞ!? どう扱おうが私の勝手」
「カヤナは自分の髪が大事なんだろ!?」

 目線をあさってに向けたままの台詞だったが、カヤナがびくりと肩を震わせ、口を噤むのが視界の端で分かった。

「……」
「前に、髪が短い時の自分は思い出したくないって言ってたじゃないか」

 急に静かになったカヤナに不安を覚え、声のトーンを落としながら続ける。伸ばしている腕がしんどくなってきたので下ろしたが、ハサミだけは奪われまいと手のひらで強く握った。

「それに……おれだってカヤナの長い髪が好きなんだ。綺麗だよ。切るなんてもったいないよ」

 カヤナは意味深長に沈黙していて、ふとうつむくと、暗い声で「分かった」と呟いた。聞きなれない声のトーンに焦り、慌てて視線を戻して見下ろす。彼女は黒い睫毛を伏せ、悲しげな表情を浮かべていた。
 傷つけてしまったのだろうか? 腰をかがめてカヤナの顔を覗き込む。途端に顔を背けられ、頭の中にガンと強い衝撃が走る。どうやら彼女の何かに触れてしまったらしい。

「カヤナ? ごめん……」

 彼女の態度はよく分からないが、謝るのが先決だ。カヤナは気にするなというようにゆるくかぶりを振って、踵を返すと、ベッドの端に腰かけた。クラトは依然、同じ場所に佇みながら、彼女の虚ろ気な横顔を見つめるしかできなかった。
 長い寂があった。クラトは自分から動き出すことができず、ただただ囚われたようにカヤナの姿を見つめ続けた。彼女はクラトのことなど忘れてしまったような面持ちで、ぼんやりと窓の外を眺めている。おそらく現実にはその眼には何も映っていなくて、頭の中に甦っている映像を見ているのだろう。そこには何が映るのだろう。確かに分かることは、その中に決してクラトという男の姿はないということだ。
 どのくらい経ったか分からないが、カヤナが緩慢な動作でこちらを見た。緑の瞳が真っ直ぐにクラトを捉える。

「ありがとう、クラト」

 それは何に対する礼なのだろうか? どういたしましてという言葉は出ず、むしろ彼女が自己完結していることに腹が立った。クラトは、ようやく動き出してハサミをドレッサーの上に置き、台所まで行くと、何も言わずに夕食の準備に取りかかった。
 後ろから「手伝おうか」という声が聞こえきたので、振り返らないまま「カヤナが手伝うと大変なことになるからいいよ」と断った。いつもならカヤナがぶうぶうと文句を言ってくるのに、今日はそれ以上何もなく、大人しいままだった。
 それがなんだか悲しくて仕方がなかった。