ああ、二人はどれだけ愛し合ったのだろうなあ。
 どれだけの隔たりが二人と自分の間にはあるのかなあ。
 差が埋まることなんてこの先あるのだろうか。
 いつまで祈り続けなければいけないのだろう。
 いつまで。





 二階で風呂を済ませ、手ぬぐいで髪を拭いながら一階に降りたとき、いつもアキとカヤナが鍛冶をするときに利用する作業台の前にカヤナが座っていて、クラトはそろそろとそちらに近づいた。彼女は何やら真剣な面持ちで卓上の仕事をしていて、覗き込んでみたところ、剣の設計図を書いている最中だった。軍隊などから武器の注文を受けると、彼女たちはまず注文に従った剣の型紙を用意し、元になる金属に描き込んで基本の成形を行う。その最初の段階の作業をカヤナはしているらしい。
 クラトの気配に気が付いたカヤナは顔を上げた。

「ん、ああ。風呂から出たのか」
「うん。アキは?」
「アクトと採集に出ていった。あいつら仲いいよな」

 再び手元に視線を下ろし、紙の上に鉛筆でざっくりとした線を描きはじめる。料理や掃除など家庭的な仕事についてはてんで駄目な彼女なのに、鍛冶や戦闘となると天才的な能力を発揮するのがつくづく不思議だ。
 仕事を邪魔してはいけないだろうと思いつつも、好きな女と二人きりの時間を無為に過ごすのはどうにも勿体なく感じて、部屋の隅にある古い椅子に腰かけ、彼女の姿を少し離れたところから眺めることにした。
 真剣な横顔と強い色をした緑の瞳は、いつ見ても美しい。本当にきれいな人だ。この女性に愛されたイズサミという男は世界一の幸せ者に違いない。
 タカマハラ国にいたとき、少しの間だけアキの家でイズサミと一緒に過ごしたことがあったが、性格はカヤナとまるで違った。どうして彼女はあの男のことを好きになったのだろう。クラトは気になって試しに訊いてみることにした。

「なあ……カヤナ」
「んー?」

 手元を見たまま顔を上げようとしない彼女に怯んだが、このチャンスを逃すまいと気を取り直し、後を続けた。

「カヤナはイズサミのどこが好きだったんだ?」

 過去形で訊いたのは、以前から彼女が恋愛を過去のことにしたがっている様子だったからだ。
 カヤナはちらりとクラトを一瞥し、再び卓上に視線を戻した。

「……うーん、どこだろうなあ……」

 機嫌を損ねるかもしれないと危惧していたクラトは、回答を得られそうな反応にほっとした。カヤナは手を動かしながら無表情でいたが、何かを思い出したのか、そのうちふっと笑みを浮かべた。

「優しいところ、かな」

 ごく一般的な答えを返され、クラトは物足りなさを感じ、もうすこし追求してみたくて再び問うた。

「優しいところ? まあ確かに、そんな雰囲気はあるけど」

 正直なところ、イズサミは初対面のときからずいぶんと突っかかってきて、クラトにはそれほどいい印象がないのである。
 カヤナはクラトが不満そうでいることに気がついたらしく、製図中の手を止め、不敵な笑みを浮かべてクラトに身体を向き直した。

「意外か? まあずいぶん、あいつはお前に食らいついていたからな」
「カヤナの周りにいる男みんなに嫉妬してるんだろうなとは思ってたけどさ。あからさますぎて、けっこうびっくりしたっていうか」
「あいつは私に依存していたからなあ……」

 微笑したまま、思い出を振り返っている目つきでカヤナは床を眺めた。

「でも、きっと、依存しているのは私も同じだったよ」
「え……そうなのか?」

 カヤナはしっかりしているからそんなふうには見えないと正直に言うと、彼女は面白がるように笑った。

「私はこんな性格だから、友人の一人もいなくてな。一人きりでいるのが寂しくて、イズサミに毎日会ってたんだ」
「ま、毎日?」
「ああ、毎日。丘の上や花畑に行って、二人で他愛もない話をしながら過ごしているのが好きだった……」

 その、記憶を慈しむ優しげな表情に、クラトの心は複雑だった。好きな女が、別の男との思い出を愛おしげに語るところを見るのはなかなか堪えるものだ――
 クラトはカヤナから視線を外し、自分の足下をじっと見つめた。

「……どうして、過去形なんかにするんだ?」

 答えなど知りたくないのに、暗い声で、そう尋ねていた。

「そんなに好きだったのに、どうして……」
「私は人に恋することを忘れたのだ」

 すかさず感情の読めない淡々とした声が返ってくる。表情を見たかったが、なぜか恐怖を感じて顔を上げることができなかった。

「それって、イズサミを愛していたからだろ?」

 クラトもまた、小さな怒りを感じながら言い返した。この問いは自分にとってなんの得もないと分かってはいたものの、彼女がいつまでもはっきりした意見を言わず、思い出や愛から逃げていることが許しがたくなった。
 カヤナはしばらく黙っていたが、ふと、消え入りそうな声で呟いた。

「うん……そうだな。
 きっと、そうなんだ……」





 ああ、二人はどれだけ愛し合ったのだろうなあ。
 どれだけの隔たりが二人と自分の間にはあるのかなあ。
 差が埋まることなんてこの先あるのだろうか。





「……くそっ」

 二階に上がり、先ほど交わした会話を後悔してクラトは奥歯を噛んだ。いつもアキたちと食事をする座卓に突っ伏し、一階にいるカヤナに聞こえない程度の力で床を殴る。
 苦い感情が喉元までせり上がってきていて、苛立ちが収まらない。誰にぶつけることもできない、どうしようもない感情を抱き続けて、いったい何になるというのだろう。怒りで涙がにじんでくる。気分が悪い。今は恋愛などで取り乱している場合ではないのに、心はいつまでも彼女にまとわりついて、無様だ。

「…………
 はあ」

 叫びたくなる衝動を抑えて出たものは、情けない溜息ひとつだけだった。

 いつまで祈り続けなければいけないのだろう。
 いつまで。