モルトカの街のアキの借家に滞在(実際は不法滞在だ)しているクラトの寝床は一階にある。アキとカヤナは二階で寝るのが習慣だったため、乱入してきた白き翼の国の警備隊員には居場所がなく、そういった関係でもない女性と臥所を共にするなどあってはならないと、鉄と炭の臭いがする鍛冶場に寝床を設けることにしたのだった。簡易な敷布団と掛布団と枕では、朝起きたときに身体のどこかしらが痛むのだが、居候の身でわがままなど言っていられなかった。
 夜、蝋燭の火を借りて読み物をしていたクラトは、すでに寝静まったと思っていた二階から降りてくる微かな足音が聞こえて顔を上げた。一階から届く蝋燭の明かりで起きてしまったのだろうか、現れたのはカヤナで、彼女は極力物音を立てないようにそっと階段を踏み、布団にうつ伏せになって読書をしているクラトに気づくと、小さな溜息をついた。

「まだ起きていたのか。蝋燭の消し忘れかと思った」

 彼女は寝巻の白い着物を身に着けているだけだった。素の華奢な足首が裾から覗いていて、なんとなく気まずさを抱いてクラトは目をそらす。

「起こしたならごめん」
「いや……私も寝付けなくてな」

 アキがなかなかすごいいびきをかいているのだと、カヤナは苦笑した。確かに同じ場所で一緒に寝るには、あの騒音は障害になりうるかもしれない。
 クラトもまた苦笑いを浮かべて、持っていた本を閉じてそっと床に置いた。

「もう寝るよ」
「なあ、どこかで白い紐を見かけなかったか?」

 髪を縛るためのやつ、と言いながら彼女は階段を降り切ると、立ったまま床をきょろきょろと探し始めた。クラトもむくりと起き上がり、白い紐とやらを視線で探したが、この暗がりではよく分からない。
 カヤナはクラトの寝床の近くにある蝋燭のもとにしゃがみ、引き続き周囲を見回していたが、そのうち小さく嘆息して肩をすくめた。

「暗くてよく分からんな。明日探すよ」
「寝るときに髪が邪魔なのか?」
「ああ。二つにゆるく束ねて寝ている。紐が一本だけ見当たらなくて」

 よくよく見ると彼女の長い髪の半分が結わえられ、胸元に垂れ下がっている。もう片方は下ろされたままだ。

「仕方ない、一つに束ねて寝るさ」
「カヤナって髪を結わえたりするんだな。そういうところを見たことがなかったから、今の姿もなんだか新鮮だ」

 カヤナは心底不思議そうにクラトを見て、そうか?と自分の髪を見下ろした。

「邪魔なだけだし、切ってしまってもいいんだが、そうすると昔短かったときのことを思い出してな。あまりいい気分ではなくて」
「そうか。綺麗な髪だから、切るのはもったいないよ」

 自然に言ったつもりだが、心の中ではかなりの恥ずかしさがあった。けれど彼女に伝えた言葉は紛れもない本心で、濡れたような漆黒の髪が背中に垂れ下がる様は、クラトの目にはいつも美しく映った。彼女が女神と云われる所以は長く美麗な黒髪にあるのではないかと思わせるほどだ。
 カヤナは自分の髪をひと房手に取り、それを見つめながら小さく笑った。

「ふふ……なつかしいな」

 それは、女の独り言だった。よく分からない返事を聞いたクラトは、おそらく自分の言ったことに対する反応ではないだろうと怪訝に思って彼女の横顔を眺めた。きめの細かな白い肌が、炎のオレンジ色にゆらゆらと照らされている。整った顔立ちもまた他に類を見ないほど美しく、クラトは天の恵みとしか思えない女の姿形を目にするたび、言いようのない胸のざわつきを覚えるのだった。
 カヤナは微笑んだまま立ち上がると、おやすみと一言置いて、二階へと静かに戻っていった。
 蝋燭の明かりを吹き消し、クラトはもそもそと布団の中へと戻った。暗闇の中、口元まで掛布団をかぶり、深い溜息をつく。

 "なつかしいな"

 遥か昔の時代に彼女の髪を褒めたのであろう男の姿がちらついて、目を閉じる。
 ああ。
 自分がどれだけ愛する女を深く称賛したとしても、彼が彼女に贈る言葉には、決してかなわないのだ。