私には、お前の気持ちが分かるよ。
 結ばれないことが、どれほどつらいことか。





 ああ、おちる。

 おちるという感覚は、きっとこういうことを言うのだ。
 クラトは思った。
 頭がぼんやりとして、心は妙に平静で、視界は澄んでいて、神経は恐ろしいほど研ぎ澄まされていて、心臓は氷を押しつけられたように冷たい。周囲の音は消え失せ、異常なまでの静寂の中、まるで世界に一人きりになってしまったような感覚に陥る。
 おちる、おちていく。
 間違った道が大嫌いな自分のはずなのに、どんどんおちていく。
 横たわる白い身体は、ぼんやりと光っているようで、本当に美しかった。湿っている黒く長い髪が、女性らしく柔らかなラインを描く肌の上に、くっきりとした色で散らばっている。
 彼女が纏う妖しさと神聖さに恍惚とした感覚を抱きながら、クラトは長く細い息を吐く。

「きれいだ」

 独り言のように呟くと、感情のない緑の瞳がこちらを見た。

「クラト。なぜ、私などを欲しがる」

 淡々とした問いに、クラトは答えなかった。代わりにベッドの端に腰掛けたまま彼女の方に前屈し、白い肩に口づけした。頭を撫でながら首筋まで唇を持ってきて、そこを舌で舐め上げる。彼女が身じろぎするのに耐えられなくなり、クラトはベッドに上がると覆い被さった――もう、初めから耐えられなかったのだ、彼女の素肌を見たときから。そして、彼女の唇をそっと奪ってしまったときから。
 無表情で、カヤナはクラトを見つめた。

「二人が帰ってきたらどうする」
「知らない」
「……」
「知るもんか」

 全てがどうでもよかった。愛する人には振られ、弟には深く憎まれて、まるで自分は世界に要らないと言われているようで、途方に暮れていた。もちろん自国には戻りたい。皆が心配しているだろう。けれど弟に殺されてしまうなら、そう考えることにも意味がないし、死ぬ前に一つくらい願いが叶ってもいいではないか。少しくらいわがままを言ったって、今まで色んなことを押し殺してきたのだから、いいではないか。

「カヤナ、好きだ」

 愛してほしい。

「愛してるよ」

 彼女にも、愛していると言ってほしい。けれど、愛しい人の口から言葉は返ってこない。怖くなって唇を唇で塞ぐ。伝わってくるのは一度死んだ人間だとは考えられないほど柔らかな体温だった。カヤナの身体は滅んだはずなのに、再び肉に血を巡らせてここに存在しているという。どうしてそんな人を好きになってしまったのだろう、いずれ彼女はまた逝ってしまうのに。
 口内を舌でかき回し、激しく貪っていく。息ができないと訴える苦しげな呼吸に、クラトは満足していた。自分のせいで、彼女は苦しんでいる。自分のためだけに、今この場所で、この腕に抱かれてくれている。ああ、きっと、彼女は深く傷ついているだろう。平気そうにしている顔の裏で絶望しているのだ。だが、そのこと以上に、この愚かな行為に満足している自分がいる。
 手のひらを、腕に、手に、腰に、胸に這わす。柔らく滑らかな感触が伝わってくる。敏感なところに触れてしまったのだろう、ふと彼女の口から小さな呻き声が漏れた刹那、心に暗い炎が灯り、自分が欲望に呑み込まれていくのが分かった。彼女の体温を知りたくて、腰ひもを緩め、自分の着ている着物をはだけさせる。下にはもう一枚着ていて、裸になるにはそれを脱がなければならないのだが、カヤナが肩を両手で押さえてきたため、上手くできなかった。額に落としていた唇を離して見やると、女の苦しげな、しかし頬の上気した顔があって、クラトは今まで感じたこともない強く激しい衝動を覚えた。
 自分のものにしたい。自分だけのものにしたい。今ならできる。別に通じ合う心なんて無くていい、愛されなくてもいい。どうせ死ぬなら愛しいものを手に入れてからだ。ほんの一瞬だけでもいい、わずかでも、ひとかけらでも愛する人が自分のものになればいい。
 カヤナはクラトの腕の中から出たがっているようだった。今更、臆したのだろうか。許さない。だって彼女は一度でも自分に心を許したではないか。逃げ出さないように上から体重をかける。男の力に女が勝てるはずもない――いや、勝てたとしても、彼女は抵抗しないだろう。自分を好いている男を傷つけたという罪悪感が少しでもあるからだ。彼女がクラトに身体を許した理由がまさしくそれだからだ。
 名を耳元で囁く。ますます彼女を追いつめるために。彼女は悲しげにクラトの名を呼び返した。
 クラトは嗤った、愛しい人が悲しんでいるのに己を止められない自分を。

「なあ、カヤナ。おれの願いを叶えてくれないか」

 額に額をつけて間近に迫り、暗く微笑みながら言うと、カヤナは眉間に皺を寄せて口を噤んだ。抗うことをためらう苦々しげな面持ちだ。たとえ拒まれたとしても自分はこの行為を続けるだろう。やめてくれと、嫌だと言われても続けるだろう。
 再び、彼女の柔らかな白い肌に、きつく吸いつき始める。



 ああ、どうか。
 もし二人が帰ってきたら、こんな悲しい場面など見られないように、この身体を粉々に打ち砕き、跡形もなくして、深い泥に還してほしい。
 何事もなかったように。