わああああああああああああ

 絶叫だった。ちょ、まて、えええ!?と訳の分からない叫び声が自分の口から出て、意味もなくぶんぶんとかぶりを振りながら、せめてそれが視界に入らないように片手を前に突き出す。

「早く!!!! 早くカーテンの後ろへ行け!!!!」

 クラトのとんでもない狼狽様に、滅多に動じないカヤナも戸惑いを覚えたのか、しぶしぶ風呂場に再び入り直してシャッとカーテンを閉めた。まったく何なんだ!という憤慨した声が向こう側から聞こえたが、それはこっちの台詞だと胸中で言い返す。
 動悸がする。腰が抜けたらしく、いつの間に床に座り込んでいた。先ほどの光景がちらついて、全身が激しい熱を帯びる。モルトカの街にあるアキの借家にクラトも現在滞在中なのだが、ちょっとした買い物から帰ってきたら、アキもアクトも部屋にいなかった。どこへ行ったんだろうと少し不安になりながら二階に上がった瞬間、見えたのだ、カヤナの――

「――あああああああ!!」

 両手で頭を抱え、クラトはまた絶叫した。もうわけが分からない、顔は尋常でないほど熱いし、身体中から汗は噴き出すし、手足は震えるし、心臓はバクバク言っているし、カヤナはカーテンの向こうで「大丈夫か、クラト!?」と心配しているし。ちょ、出てくるなよ!と、制することで、彼女が風呂場から出てくることは防いだが。
 クラトは、見てしまったのだ。カヤナの全裸を。

「風呂に入ってたんならそう言えよ!!」
「は!? お前らが家にいないから入ってたんだぞ!? 貴様に文句を言われる筋合いはない!!」
「ていうか二人はどこ行ったんだ!」

 夕飯の買い出しついでにコロと散歩してくると言っていたぞと説明してくるカヤナに、言いようのない脱力感を覚えてクラトはへろへろと床にうずくまった。

「ああ……もういやだ……いやだおれ……泣きたい……」
「なんだよ、裸くらいで……別に減るものでもないし」
「あのな、素っ裸で部屋を歩くな。せめてそこで着替えてから出てこい!」
「はあ!? だから、お前らがいないからその間にと思って風呂を使ってたんだぞ! 着替えのために裸で歩いていようが誰も咎めないではないか、お前が勝手に帰ってきて二階に上がるのが悪いんだろうが!」

 キーキー言いながらカーテンを押しのけようとするので、クラトは反射的に立ち上がってそれを抑えた。何をする!とカヤナがカーテン越しに怒鳴る。

「出られないではないか!」
「出るな! 着替えはおれが取るからそこにいろ、いいか、出てくるなよ! 絶対にだ!!」

 カヤナの使うベッドに畳まれて用意されていた服までズカズカと歩き、再び風呂場の方に戻って隙間から服を差し出そうと、少しだけカーテンを払ったときだ。
 がこんと音を立てて、カーテンを吊り下げるために突っ張らせている棒が外れた。カーテンがくしゃくしゃになって床に落ち、垣根を失った風呂場に佇む女性の姿が視界に飛び込んできて、クラトは完全に固まった。呼吸も止まっていたかもしれない。
 濡れた漆黒の髪が、目がくらむほど白い素肌にゆるゆると張りついている。女性らしい腰のラインとふくよかな胸、長い脚、こちらを見上げる翡翠色の大きな目、長く黒い睫毛、そして、赤い妖艶な唇。
 クラトは服を手から落とし、自分でも知らないうちに彼女を抱きしめていた。
 それは無意識から生まれた衝動だった。華奢な背中に触れると、手のひらがじっとりと濡れる。肌に直に触れているクラトの服にも湯が染み込んでしまっただろうが、もうかまわなかった。素肌の女性の姿を道徳上視界に入れてはいけないという強い戒めと、今なら閉じこめてしまえるという激しい欲望が自分の中でぐちゃぐちゃになり、渦を巻いていた。しかし、頭は妙に冷静で、この抱擁は当たり前のことだと思っていた。彼女が悪いのだ、男という生き物の前に、彼女を好きでいる人間の前に、無防備な女の身体を晒す方が悪いのだ。これは当然のことだ、もしこの状況が第三者に見られたとしても、自分は責められたりしないのだ――
 女の名をそっと呟く。すると、落胆した声が耳元で聞こえた。

「クラト。私は、お前を愛さないよ」

 かまわない。クラトは即座に心の中で答えた。かまうものか、もう振られてしまった身だ、不安に思うことなど何一つない、たとえ嫌われてしまっても同じことだ。
 手を滑らせる。それを嫌がるように、カヤナはぐっと背筋を反らした。抵抗しても、ますます身体を押しつける形になるだけだ。クラトは密かに暗い笑みを浮かべた。
 自分より背の低い女の首筋に、顔を埋める。湿った髪がクラトの頬を濡らす。なめらかな肌に、唇をゆっくりと這わす。先ほどより少し必死そうに名を呼ぶ声が聞こえる。かまわない、かまうものか、嫌なら突き飛ばすなり悲鳴を上げて助けを求めるなりすればいいのだ、そして嫌いになればいい、憎めばいい。もう二度と顔を会わせたくないと吐き捨てればいい、その方がこちらも楽だ。ずっと楽だ。
 首筋に舌先を這わせる。
 そのときだった。
 抵抗されると思っていたのに、カヤナが、クラトの背中に腕を回したのだ。何も纏っていない身体を、こちらにそっと寄せた。何が起きているか分からず、思わず行為を止める。

「クラト」

 その声は穏やかで、しかし、どこか悲しかった。

「私を抱くことで、お前の心は楽になるのか」

 クラトは目を見開く。

「傷つけただろう、私は、お前を。
 私を抱くことで、お前の傷は少しでも癒されるのか」

 ひどく落ち着いた声音に、唇が震える。

「もしそうなら、いいよ、クラト。お前の心を傷つけた私でもいいなら、私を、抱くといい……」

 深い響きを持つ言葉に、視界が涙でにじんだ。
 やめてくれ、とかすれた声で吐き出し、彼女の肩に額を置く。

「カヤナ……」

 涙が溢れ、それは彼女の身体を流れていった。

「カヤナ、愛してる……おれは、お前のこと」
「……」
「好きで、好きで、守りたくて……そばにいたくて、大切で……誰よりも大切で……
 ごめんな、カヤナ、ごめんな……」

 繰り返し謝りながら、クラトは静かに泣き続けた。その間、カヤナはクラトの背中を撫で、うん、うん、と相づちを打ちながら、クラトの言葉を聞いて、受け入れていた。
 ああ――どうしてだろう。どうして、こんなに無様なのだろう。また大好きな人を傷つけるのだ、彼女は自分を犠牲にしてしまうのに、それを知っているのに、弱みにつけ込むような真似をするのだ、こんな男、振られるのは当たり前だ、嫌われても当然だ。彼女に釣り合うはずがない、隣に並べるはずが、頼られるはずがない。
 もし。

「愛してるよ……」

 彼女を抱けたら、自分は吹っ切れるのだろうか。愛しい人をズタズタに傷つけて、満足するのだろうか。愛する人の身体に触れたい、声を聞きたい、自分の名を繰り返し呼んで欲しい、自分のためだけに微笑んで欲しい、他の誰よりも求めて欲しい、深く深く愛して欲しい。そんな想いをいつだって抱いていて、届かない願いを祈るたびに胸が張り裂けそうになる。彼女は、他の人々は知っているのだろうか、こんなにも狂おしくて切ない気持ちを。
 愛が胸元から溢れ、こぼれ落ちていく。
 クラトは、カヤナの頬に唇を触れた。愛しいという想いを込めて、名を囁く。
 依然、素肌の彼女が腕の中にいる。

 もし彼女を抱いたら、この愛は終わるのだろうか?