「いらしたの、ですね」

 ふわん、と波紋のように、どこか懐かしい音が鼓膜に響き、
 彼はふと瞼を上げました。
 目の奥が痛くなるような白い白い空間の中には、たくさんの気泡が見えました。
 温かく緩やかな流れが、全身をするすると滑っていくような感じがして、
 彼は、
 ああ、ここは、水の中なのだ、と思いました。

 白い白い空間の中に、ぼんやりと浮かび上がる人がいました。
 緩やかな茶色の髪が、水の流れに合わせて、ゆるゆると散り、
 薄紫色の衣が、まるで蝶の羽のように水中に広がって、
 もしこの世に平家を象徴するただ一人の人間がいるのだとすれば、それは
 目の前にいるこの男なのではないか、と彼は、そんなことを思って
 思わず、小さく笑いました。

 目の前の人は、ゆっくりと手を差し出しました。
 彼は、その繊細そうに痩せた手を眺めて、
 わずかに目を細めました。

「ずっと、ここにいたのか」

 彼の問いに、男は、ふふ、とひどく穏やかに笑いました。
 そういえば、この男の笑い方は、かつてはこのようなものだった気がします。
 優しく、悲しいほど穏やかで、どうしようもなく慈悲深く、それはいっそ愚かなほどで
 誰かを殺すくらいならば自分が死んだ方がいいと思ったのでしょうか、男は、
 いつの間に、自らを水底に沈め、その静かな命を絶っていたのでした。
 当時、彼は、それを悲しみはしませんでした。むしろ、この男にとっては、
 それが最も楽になれる選択であろうと納得したものでした。
 その後、恐るべき力で男は蘇り、苦しみ、狂い、自らの理性を無くしながら、
 それでも父への愛、平家への愛を守り、
 いつしか聖なる力によって、ようやく安寧を手に入れ、それはそれは清らかに
 眠りについたに違いありません。
 優しい光の中で、指先から解け、緩やかに記憶を失いながら。

 それなのに、なぜ目の前に、この男はいるのであろう?

「わたくし、ずっと、見ていました」

 泣きたくなるほど優美な笑みを浮かべ、男は、自分の差し出した手を見つめながら、そう呟きました。

「わたくし、ずっと、皆さんを見ていました」

 死してもなお、甦るその美しい穏やかさに、彼は
 柄にもなく、もしかしたら自分はこの男の言葉で泣くかもしれない、と思いました。
 この、本来こうであった男を見やるのは、本当に久々なことだったのです。

 彼は、目前の男の綺麗な白い顔立ちを眺めながら、ぼんやりと口を開きました。

「俺は、
 死んだよ」

 彼の言葉に、男は目線を上げて、彼の藤色の両目を見ると、
 優しげに笑んだまま、
 ええ、と頷きました。

「とても、ご立派だったと思います。
 本当ならば、あなたには、この先も生き、術を無くした平家の人々を導いて欲しかったけれど、
 それは、わたくしが言えることではございません」
「お前は」

 すかさず、彼は尋ねました。

「なぜ死んだ?」

 その問いに、男は、表情をやや悲しげにして――しかし依然微笑は宿したまま――目を伏せました。

「……わたくしは、ただ」

 その声は、たおやかではありましたが、強い憂いを含んでいました。

「あの、愛しいものたちが生きる世界を、
 ただただ、やさしい世界であるのだと、
 信じたかったのだと、思います」

 もし、彼に、
 その答えを拒まれ、叱られたらどうしよう、と
 男は、おそらく不安に感じているのでしょう、少し手を震わせて、

「だから、わたくしは、もう、何も見たくなかったのです」

 そう、答えました。

 彼は、やや泣き出しそうにしている男の面持ちをじっと眺めた後、
 男が先ほどから伸ばしている右手を、自分の右手で掴みました。
 男は、驚いたように目線を上げて、彼の顔を見つめました。

 彼は、無表情のまま、男のその答えを肯定も否定もせずに、ただ、頷きました。

「そうか」

 男は、彼のその静かな相づちを耳にすると、途端に唇を震わせて、悲痛に顔を歪め、
 目に涙を浮かべました。
 ここは水の中なのに、涙を浮かべているのが分かるというのは、とても不思議なことでしたが、
 それはきっと、男の姿を昔から知っている、彼の記憶がそうさせたのでしょう。

 彼は、男の手を強く握りしめて、再び、そうか、と言いました。男は、
 気持ちが高ぶったように、顔をくしゃくしゃにしながら、握られていない方で
 涙で濡れた自分の目元を何度か拭いました。

「どうして」

 男は、痛ましい声音で吐き捨てました。

「どうして、あなたは死んでしまわれた。
 なぜ、あなたは、ここに、いらっしゃるのです。
 あなたは死ぬべき人ではないのに」

 大切にしていた二刀を持ち、静かに笑みながら、水中に沈む場面さえも男は見ていたのでしょうか、
 思い出すとそれが悲しくてどうしようもないのだというふうに、男はしゃくり上げました。

「あなたは、多くの人から愛されていた。あなたの導きによって、平家は少なからず救われました。
 わたくしはあなたに生きて欲しかった。生きて、生きて、この先も生きて、
 その美しい優しさと気高さで、あの世界を育んで欲しかったのに」

 もし、生きていたとしても、
 敗北が目に見えていた平家の武将たちは、一人残らず
 首をはねられ処刑されるのだと、男も、彼自身も、もちろん分かっていました。
 しかし、男は、それでも。

「願わずにはいられないのです。
 愛しいものたちが、この先も、幸せに生きていてくれることを……」

 涙混じりに吐き捨て、今にも崩れ落ちそうでいた男の細い身体を、彼は、肩と胸元で支えました。
 男は、彼の肩に顔を伏せて、しくしくと悲しげに泣くのでした。

「知盛殿、
 どうして、なぜ、死んでしまわれた……」

 彼は、泣きじゃくる男の、背中に流れる柔らかい茶髪を撫でながら、少し微笑みました。

「どうして、だろうな」

 低い低い声音が、水中に響き渡り、

「先に逝った者が寂しい想いをしていないかと、ふと、思ったのかもしれぬ」

 まばゆい光が、頭上から神々しく降り注いだ。



 その光は、決して太陽の光ではない。
 ここは光も届かぬ海の底。
 彼らが自ら身を投げたのは、
 那智と壇ノ浦、遥か遠い場所にある。
 それなのになぜ?
 ここはあまりに温かく白く、
 優しい光に満ちあふれ、
 遠く離れた二人が、どうして今同じ場所に佇んでいるのであろう。
 朽ち果てた身体は、もはや骨だけになっているかもしれないのに、
 なぜ?
 背中を撫でる手のひらには、相手の温度が伝わってくる。



 その、無垢な白い海。



「……ふふ、知盛殿。
 優しいのですね」



「けれど、大丈夫。
 この先に、皆がいると知っているから。
 わたくし、寂しくなんてなかった」



「寂しくなんてなかった。
 ただつらかった。
 大好きな人たちが、戦って、命を奪い、悲鳴を上げて、殺されていくことが。
 けれど、わたくしは、視なければいけないと思った。
 最後まで、視なければいけないと思った」



「まだ、戦いは終わっていない。
 わたくしは、ここで、皆さんを待ちます」



「全てを見届けるまで」



「だから、知盛殿は、皆のいる、向こう側でお待ちになってください」



 繋がれている手を



 放そうと、
 男が、小さく力を込める。
 しかし、彼は、それを拒むように、男の手を握り返した。
 目を丸くして手元を見やる男に、彼は、微笑んだ。



「俺も、待とう」



「ここで、お前と共に」



「俺の愛するものたちを待とう」



「お前の愛するものたちを」



 彼の言葉に、男は、
 唇を噛み締め、じっと彼の双眸を眺め、
 握り返してきた手にぎゅうと力を込めて、頷く。



「……ええ」







 白い光の差し込む水中に、
 ゆっくりと二人の姿が溶けて、ほどけて、
 透明になり、跡形も消えて無くなって。







 また、いつか
 彼らの愛するものたちが訪れた時、二人は、
 そこに現れるだろう。
 それは、ほんの少し悲しいことだけれど。







 二人は、そこに現れるだろう、
 全てを見届けるまで。