重衡を総大将にした平家の軍は、三井寺を攻めた。三井寺の僧兵たちは徹底して防御に回ったが、平家方の一万の兵に太刀打ちできる術は持っていなかった。寺は焼かれ、寺の中にあった仏典や仏像が数え切れないほど燃え尽き、三井寺の周りにあった家々の多くも、戦の巻き添えを食らって焼けてしまったという。
 夜が明けてから、平家の軍は、長刀や太刀に僧兵たちの首を突き刺し、六波羅へと帰ってきた。
 望美は、しばらくの間、清良の邸にこもった。食欲不振になり、あまり外出もせず、剣の稽古をしたり誰かの邸を訪ねたりという気が起きなくなった。食べられる物がないので、粥ばかり口にしていた。身の回りの世話をする者が色々と食べさせようとするのだが、望美は首を横に振るばかりで、そのうち人が見て「痩せた」と分かるほど体重を落としてしまった。
 とは言っても、全く気力が無いというわけではなく、調子のよいときは邸の者に話し相手になってもらうなどしたし、近場への買い出しに付き合ったり、清良がどこかへ行くと言ったら、それについて行ったりもした。
 そのうち、元気になるだろうことは分かっていた。清良も、あの夜以来、望美に戦の話をすることも求めることもなく、普段と変わらない様子で毎日を過ごしていた。





 重衡が三井寺を攻めてから一ヶ月ほど経った。
 すでに、季節は夏である。蝉の声を聞いて、そういえば来てから一年以上は経つのだなと望美は思った。自分が考えている以上に、時の流れは早いものだった。
 望美は、清良の邸の母屋にいた。ここは邸の主人である清良の居場所なので、世話をしてもらっている望美にとって、最も居心地のよい場所だった。
 身に着けている衣服は、清良から借りた水干だった。嫌になるほど暑い季節、望美には男も女も関係なかった。麻布で作られてはいるが、着崩し、なるべく肌が出るよう両腕をまくっていて、長い髪はひとまとめにし、髪飾りで留めていた。邸の者は望美の行動に慣れているので、どんな姿をしようが何も言わない。咎めることを主に禁じられているのだろう。

「ね、清良」

 棚に置いてある自分の剣を手に取り、裏表に返して鞘を眺めつつ、望美は言った。清良は、蒸栗色の狩衣を着ており、少し離れた場所で書を読んでいる。

「私ね、そろそろ、剣の稽古を始めようと思うんだ」

 言葉に、清良はのろのろと顔を上げた。

「剣の稽古? 大丈夫なの?」
「うん。ご飯も食べられるようになって、身体も動くようになったし、清良に習って、弓もちょっとできるようになったよ」
「あれで? まだまだ」
「分かってるよ」

 畳の上に横になり、手足をだらしなく伸ばして、目線だけ清良に向ける。

「知盛や重衡さんたちが元気かどうか知りたいんだ。手紙……文とか来てない?」
「望美宛のは全然来ないんだよね。人気が無いわけじゃないだろうに」
「ちが、そういう文じゃないよ。ああ、でも、そっか。こっちの世界ではそうなるんだ……」
「そういえば」

 思いついたように、清良が、懐から折りたたんである紙を出した。

「友兼から来てたんだ」

 友兼というのは清良の友人で、噂好きな男である。たまに清良に文を出しては、大内裏の色々な情報を清良に教えてくれた。だが、あまり人に知られたくない内容らしく、清良は読んだら燃やしたり細かく切り刻んだりして処分していた。
 望美は興味深げに彼の手元を見た。

「友兼さんは、大学寮っていうところで働いてるんだよね。大学寮って、どんな仕事をしているところ?」

 立ち上がり、畳を引っ張ってきて清良の側に置き、そこに身体をうつ伏せにすると、顎の下に両手を重ねて頭を載せた。清良は文をゆっくりと広げながら、望美の問いに、なぜか渋い顔をした。

「大学寮は、実際にはもう閉鎖されているも同然なんだ」
「え、そうなの?」
「うん。かつては官僚になるための唐文化に準じた教育を行う機関だったんだけど、その内容が時代にそぐわなくなってきて、寮内部でも身分による格差が生まれるようになってしまった。大学寮というのは名だけになり、特定の家門のために教育を行うことが重んじられるようになったんだ。大内裏の近くに大学寮庁舎があったんだけど、数年前に火災に遭って焼失したままになってしまっている」
「そう、なんだ。よく分かんないけど……その大学寮は、つまり人を教育する場所だったんだよね?」
「うん。でも、徐々に儒教が世の中に受け入れられなくなっていって、その教育内容も少しずつ変わっていった」
「儒教……」

 習ったことがある気がするけれど、なんだったっけ……と上目遣いで考えていると、見透かした清良は苦笑しながら説明してくれた。

「儒教っていうのは、もともとは孔子を始祖とする学問だよ」
「あ、孔子なら知ってる! 確か……論語?」
「よく知ってるね。望美の世界でも有名なんだ?
 孔子は、礼儀である理と、人間の中にある善意や慈愛である仁を重んじよと説いた人だ」
「清良も儒教を勉強したの?」
「友兼は学問の家系だから、僕もよしみでついでに色々と教えてもらっていたんだ。亡くなった彼の父親が大学寮に務めていたから、そのツテで友兼も後を継いだ形になったんだけど、さっきも言ったように、大学寮内では特定の貴族の家門のための講師を務めている状態だったから、大学寮という肩書きが無くなってしまった今は、引き続き貴族の私邸で学問を教えたり、他省で臨時に働いたりしているんだよ」
「臨時職員だなんて、仕事の現場は私たちの世界とあまり変わらないんだね」
「僕は、大学寮は再建されるべきだと思ってるんだけどね。儒教も広く学ばれるべきだと思う。家族の和こそ国家の礎、と彼は言っている……」

 清良は文を広げ、しばらく文字を目で追っていた。なかなか濃い内容だったらしく、のどかな沈黙が続いて、横になっていることもあってか、望美はうとうととしてしまった。

「……うーん」
「なあに?」

 眉間を寄せ、清良は文を閉じた。

「頼朝の話さ。最近、噂されているんだ。彼が力をつけてきたらしいってね」
「よりとも、って、源頼朝?」
「そう。伊豆にいる……って、なんで知ってるの」
「私たちの世界でも有名だよ」
「ふーん……
 ……。
 彼はね、十三、四歳頃に、伊豆に流されたんだけど」
「どうして?」
「頼朝の父親、源義朝が謀反を起こしたのがきっかけさ。頼朝は初陣で負けて逃げたんだ。でも、捕まって伊豆に流された。伊豆では自由気ままにのんびり暮らしてたらしいけどね。
 北条政子が彼の隣にいるから、北条付近が源氏側につくような気はするけれど」
「また、何か起こる?」
「うん」

 清良は例の通り紙を丸め始めた。

「動くきっかけになったのは、以仁王の乱だろうね。確か、以仁王が、頼朝に平家追討の令を出していたんだよ」
「以仁王が、源頼朝に?」
「そう。
 結局、以仁王が頼ったのは源氏だったからね。以仁王は頼朝だけでなく、かなりの武士に令を出したんじゃないかな。でも、この前の戦で以仁王も源頼政も討たれたでしょ。頼朝が挙兵する前に、ふたりとも死んでしまった。頼朝は御曹司だから、それを聞いて黙っているわけにはいかないんだ。父親が平治の乱に負けて殺されたこともあるし。
 なんにせよ、頼朝が平家を敵に回す理由はいくらでもある。それに便乗する人間もたくさんいるだろうね。この前の以仁王の件で、かなりの人間が源氏側に回ったんじゃないかな」
「そうなの?」
「そういうものだよ」

 清良は立ち上がり、小さくなった文の塊を近くの灯台の上に置いた。不思議そうに望美が見ていると、戻りかけた清良は「ああ」と言って振り返り、

「これ、燃やしておけって合図でね」
「え。不用心じゃない?」
「意外と大丈夫なんだ。信頼してるから」

 確信持った声で言い、元の位置、望美の側に腰を下ろした。

「ま、頼朝がこれから何か起こすだろうねっていう内容の文だったよ」
「ふーん」

 両足を上下させながら、

「戦が起きるのかな?」

 上目遣いで訊くと、清良は再び開こうとしていた書から目を上げた。

「だろうね。今後攻めてくるのは平家が勝てる軍勢じゃないかもしれない」
「そうなの? 大変じゃない」
「ここは安全だから」

 事も無げに言い放ち、清良は書に視線を戻す。しばらく彼の手元を眺めていた望美だが、ふと疑問に思い、目線を清良の顔まで上げた。

「安全?」

 問い返す。
 清良の邸のある場所は、まず、洛中(都中心部)の大内裏を北にして見下ろしたとき、縦に中心線を引いたところの東側である。
 洛中には、東西南北に”大路”と呼ばれる、全体を碁盤目状に区切る通りがいくつも走っており、東西に走る通りは、北から順に三条大路、四条大路……と順に数が降られている。清良の邸は五条大路にあり、その大路は、洛中の東西の中心から、やや南にあった。
 東西に対し、南北に走っている大路は、数ではなく、固有名詞が当てられている。そのうちの西洞院大路という、洛中の南北の中心線から東に数えて五番目の位置に存在している通りと、東西に走る五条大路が交わる場所すぐに、この安藤邸はあった。
 この五条大路を東に真っ直ぐ行けば、洛中の東端に着き、そこには南北に鴨川が流れている。その鴨川を挟んで更に東側に、望美がよく通っていた平家一門が居を構える六波羅があった。
 ものすごく六波羅に近い場所にあるわけではないといえども、都で戦があれば邸宅は必ず戦火に巻き込まれるので、人々は、戦時になると、より戦場から離れた身内のもとに避難することも多かった。かつて起こった崇徳上皇と後白河院天皇の間で行われた保元の乱も、鴨川を挟んだ東西で行われた都の戦いであった。
 まさか誉れ高き平家が東国の者たちを六波羅まで攻め込ませるとは思えないが、打倒平家を考える者たちにとって、六波羅は真っ先に標的とする場所である。

「ここって安全じゃないよね? 六波羅に近いし」

 望美が身体を起こしながら言うと、清良は、少しのあいだ口を閉じていたが、

「……じきにばれることだから、言うけどさ」

 急に神妙な面持ちになり、望美を見据えてきた。望美が「何?」と姿勢を正しながら問いかけると、清良は手に持っていた本を閉じて、静かに自分の横に置いた。
 そして。

「今ね、六波羅に、平家はいないんだ」

 と、明澄な声で告げた。