清良の邸である。
 出迎えに来てくれた清良は、もう夜も更けたというのに寝間着姿ではなく、狩衣を着ていた。
 望美は、輔子によって手配された牛車が闇に消えていくのを見送り、両手に武具の入った箱を抱え、表門から入った。舎人が馬を繋ぎ、箱を受け取って先に邸に上がっていくと、すれ違いざまに中門廊(入り口に近い廊下)に清良が出てきた。彼は、沓脱から少し離れたところで立ち止まり、望美のいる方をじっと見つめた。
 望美は清良を一瞥して靴を脱ぎ、静かに床に上がった。二人は見つめ合ったまま沈黙していたが、清良が先に口を開いた。

「おかえり」

 その声から感情は読み取れなかった。

「ただいま」

 同じような調子で、望美は返した。先ほどの舎人が奥から戻ってきて、箱をどこへ置けばいいのか訊いてきたので、部屋に置いておいてくれと伝えると、彼はさっさと中へと戻っていった。
 普段あまり見ることのない無表情の清良の視線が受け止めきれず、目を伏せて、望美は言った。

「……夜遅くで申し訳ないけど、湯殿を使いたいんだ」
「用意させるよ」

 淡々と応え、清良は背を向けて奥へと入っていった。彼の足音が聞こえなくなるまで望美は佇んでいたが、ここでこうしていてもどうにもならないと嘆息し、重たい足取りを前へと進ませた。





 もうけっこうな時刻なので、望美は、湯殿を使うために邸の者を動かしたことを後悔した。
 この時代には、望美が自分の世界で利用していたような全身浴用の大きな桶はない。渡殿(廊下)に屏風などで囲いをし、湯を汲んだ桶を持ってきて身体を拭いたり、蒸気で満たした密室に入って身体をこすったりするのが一般だった。それまで望美が過ごしてきた世界と、昔の京都と思しき世界の様々に異なるこの文化の中、望美が最も欲したのが風呂だったが、そもそもガスや電気といった設備がないのだから水を炊くことすら大仕事である以上、どうしようもなかった。
 湯浴みを終えた望美は、与えられている部屋に戻り、用意されていた寝具に大の字で仰向けになった。

「……
 痛い……」

 長時間、馬に乗っていたためか、腰と尻が痛かった。身体も怠いし、ひどく疲れているようだ。まだ睡魔はなかったが、どうにかして眠りたかったので、無理矢理に目をつむった。
 途端、視界を赤色が覆い、望美はびくっと震えて目を見開いた。

(なに)

 瞼の裏に甦った色が不気味で、手足を引き寄せて小さくなる。

(なに、今の……)

 心で問いかけるが、答えはない。
 しばらく横になっていると、御簾の向こうから清良の声がした。はっとして身を起こす。

「ああ、いいよ。そのまま横になってて」

 清良は、その場にあぐらを掻いたようだった。

「疲れた?」

 普段通りの飄々とした調子で訊いてくる。望美は、ゆっくりと横になり、うん、と小声で答えた。

「少し」
「重衡殿には世話になったね」
「うん。輔子さんにも……」
「輔子殿は優しい方だったでしょう」
「うん。綺麗な人だったよ」
「お腹は空いてる?」
「ううん」
「そう」

 会話が途切れる。

「……重衡殿と輔子殿に、何かお礼をしなくてはね。望美の防具のこともあるし」
「うん」
「……」
「……」
「重衡殿は、もう向かわれたのかな」

 三井寺攻めのことだ。思い出した望美は、眉を寄せた。

「私が輔子さんのお邸を出るときは、もう出発してた」
「そう。重衡殿もお疲れだろうに」
「そうでもなかった、かな……」
「重衡殿はすぐ上の兄御に似たんだね」

 清良の口調に、笑みが灯る。

「立場的に苦労の多い方だけど、周囲への気配りは怠らない、良い人だ。気さくで人懐こいから人気があるんだよ」
「そうなんだ……」
「無事にお戻りになればいいけれど」
「……帰ってくるよ」
「そう?」
「強いもの」

 重衡の、暗闇の中で光っていた真剣な瞳が思い出される。

「重衡さんは、すごく強くて……
 真っ直ぐで……」

 大切な人々を守るために課せられた責任が、彼にはあった。だから、疲れている身体であっても、立ち上がらなければならなかった。それが本人にとってどれほど苦痛なことであっても、意に反したことであっても、世の高みに降臨し続けようとする限り、一族の権力を脅かすものから逃げることはできないのだろう。
 果たして重衡は、自ら望んで、課せられた使命を果たしに行くのだろうか?

「……」

 そう想うと、目の前が、涙でゆらいだ。

「清、良……私、私ね。
 たくさん人が死んでるのを、見たの」

 詰まっていた言葉が、胸の中から堰を切ったように溢れ出した。

「すごいんだ。本当に、すごい数なんだ。みんな矢が刺さったり、太刀で斬られたりして、死んでた。川の周りに、死んだ人たちがいっぱい転がってたの。私がぼんやりしていたせいで、敵の人、行盛くんに殺されちゃった。首に矢が刺さったんだ。すごい血だった。行盛くんは、私を守るために、矢で射ったの。その後、怒られた。死にたいのかって怒られた。私、死にたくなかった。だから馬で走ったよ。馬で川を渡って、向こう岸に着い、たら」

 呼吸が荒れる。

「着いたら、人が、山みたいに死んでた、みんな、殺されたり、自害したりして、信じられないほど、たくさん。それを私は、馬で、踏み、つけた。ま、まだ……生きてるのに。死んじゃった、かな。私のせいで。み、みんな、平家に殺されて、知盛も、行盛くんも、太刀で切ったりして、人の血を、く、首を……」
「……」
「……うわ……うわあああ……」

 顔をくしゃくしゃにして、望美は激しく嗚咽を漏らした。今まで経験したことのない、腹の底から打ち響く強い衝動に、ひたすら泣くことしかできなかった。両手で口を塞ぎ、泣き声が漏れるのを防ごうとするが、それは手のひらに涙を溜めることにしかならなかった。

「うっ、うっ……首が、どっ、どうして……重衡さん、また、戦に行くの? 本当は、きっと、行きたく、ない、のに……あんなに、優しい人なのに、鎧、ふっ、拭いて……
 ほ、輔子さん、待って、る、のに……
 うっ……う、うわあああん……」

 この身に悲しいことなど起きていないし、怪我もしていない。この手で誰かを殺したわけでもない。自分は何もしていないのに。

「うわあああん……」

 なのに、こんなにも悲しいのは、自分ではない、望美が大事に想っている彼らが苦しいからだ。

「えっ……うっ、うえっ……」
「望美。よく頑張ったね」

 清良の言葉に、望美は泣いた。それがエゴのための涙なのか、それとも彼らへの懺悔の涙なのかは分からなかった。ただ、自分が深く傷ついていると感じ、悲しくてつらくて、どうしようもなかった。
 その夜、望美は、涙が枯れるまで眠ることができなかった。
 清良は、ずっと側にいて、望美のことを静かに見守っていた。