「盛長」
「はい」

 重衡が呼ぶと、付き人は従順に主人のもとへとやって来る。
 重衡の乳母の子どもで、名を後藤盛長という。あまり表情が無くツンとしていて、どこか気むずかしいそうな印象を与える青年だが、重衡が付き合う人間の中では最も信頼を置いている男だった。
 てきぱき素早くというわけではないが、非常に仕事が丁寧で、例えば主人の毎日の身の回りの世話や馬の面倒を見ることに関しては、不気味なほど抜かりがなかった。重衡がどこかへ行くと仄めかせば馬から何から完璧に用意するし、文のやりとりも、重衡と客人の仲立ちも、重衡が感心するほど失敗が少なく、周りの人間から「盛長は、態度さえ悪くなければ、喉から手が出るほど欲しい優秀な従者なのだがなあ」と言われるほどである。
 だが、何事も怠らないようにする神経質な性格ゆえか、常に寝不足気味らしい。機嫌が悪そうに見えるのも、そのためかもしれない。重衡は、遠慮せず休んでいいと言うのだが、頑固な本人は頷きながらも従おうとはしない。だから、寝不足のせいで手に持っていた壺を割るとか、扇子を壊すとか、そういうことが希にあるのも彼の性格だった。そんな盛長に対して、重衡は、あまり怒らないでいる。

「準備は整ったか」

 盛長は、重衡の従者であると同時に親友でもあった。公達の子と乳母の子は大体同じ時期に生まれるので、共に過ごし、親しい仲になることが珍しくない。

「準備は整いましたが、重衡さま。あちらに」

 盛長は、門で待機する馬の手綱を押さえながら向こう側を見た。つられて重衡も見ると、暗がりの中、母屋の簀子に、こちらを見つめて佇んでいる者がいる。

「先ほどから、ずっとお待ちのようでしたよ」
「なぜ、早く言わない?」

 じろりと盛長を睨む。本人は、何喰わぬ顔でひょいと肩をすくめて、

「だって、重衡さま、機嫌が悪くて私の話を聞いて下さらないまま、ひたすら武具の準備をしていらしたではないですか」

 と、強気な態度で答えた。両親からは、主の前で粗相の無いようにと散々言い付けられていたであろう盛長だが、実際には重衡も盛長も主従という関係にそれほどのこだわりは持っていかなったので、余所の従者には信じられないやりとりであっても、二人は全く気にしていなかった。
 「今度からは早めに知らせるように」と溜息交じりに言いつけ、重衡は、その人物が待っている寝殿に向かって歩き始めた。先ほどより装備品が増えているので、地を踏みしめるたびに金属音がシャラシャラと鳴っている。
 目的の場所へたどり着くと、重衡は、庭に佇んだまま簀子を見上げた。

「輔子」

 呼びかけると、彼女はその場に座し、長い髪を垂らしながら深く頭を下げた。丁度、頭が火に照らされる位置になり、彼女の雪色の髪が、火の橙色と混ざり合って不思議な色で浮かび上がる。
 いつまでも面を上げないので、重衡は苦笑を浮かべた。

「かまいませんよ」
「なりません。私が、あなたさまより高座におりますなど」
「そうか」

 重衡は、馬上沓を脱いで段を上がった。すぐ右に輔子が座っており、彼女は、慌てて重衡の方を向くと、再度深く頭を下げた。
 重衡は、くすくすと笑いながら、その場にあぐらをかいた。

「顔を上げなさい、輔子」

 言うと、輔子は素直に面を上げた。涼しげな白い顔が、薄い闇の中に浮かび上がる。彼女の肌は、思わず息を呑むほど色白だ。訪れた客が彼女を垣間見たとき、あれは病気なのかと訊いてくるほどである。
 暗闇でも充分に分かるその白さに目を細めながら、重衡は、輔子の方に少し身を寄せた。

「待たせたかな」
「いえ」
「何か用だろうか」

 輔子の髪を手のひらにすくいながら重衡が尋ねると、彼女は、躊躇いがちに間を置いた。

「……いいえ」

 聞いた重衡は、おや、と眉を上げる。

「珍しい。必要以上には姿を見せない輔子が、私の見送りでここに?」
「……」
「そうなのかな?」

 沈黙していた彼女だが、そのうちに、見逃してしまいそうなほど小さく頷いた。重衡の表情が緩む。

「そうか。それは、嬉しいことだ……」
「……ただ……」

 輔子は、わずかに顔を伏せて、小さく唇を動かした。

「遠目がちに、ご加護があるようにと、お祈り申し上げていたのでございます。重衡さまを引き留めるつもりではございませんでした……」

 細い喉から紡ぎ出される声音は、他の女性に比べると低く、澄んでいる。

「私事で、申し訳ございませぬ」
「輔子、もう頭は下げなくていいのですよ。私は、とても嬉しいのだから」

 言いながら、重衡は、手に取った輔子の雪色の髪を愛おしげに撫でた。

「普段から忙しく、あなたと顔を合わせることもほとんどできません。なのに、こうやって見送りに来させてしまうのが戦の前とは、本当に皮肉なものですね……」
「……」
「それでも、あなたは私を想ってくださる。後悔してはいませんか、このような男があなたの夫で」
「まさか」

 輔子は、ゆっくりだが、懸命に首を横に振り、

「私は、重衡さまを、誰よりも……」

 言葉を紡ぐのだが、その白い顔がどんどん赤くなり、終いには耳まで紅潮させ、唇を閉じてうつむいてしまった。
 輔子は、凛とした表情を滅多に崩さない女性なのだが、重衡の前では、なにやら脆い面があるらしいのだ。普段から心に秘めている想いを伝えようとすると、恥じらいが勝ってしまい、言葉が出なくなってしまう性格なのだろう。
 藤原輔子は、清盛の親友である藤原邦綱の娘で、初めて出会ったとき重衡は彼女の冷たそうな様子に取っつきにくさを覚えたのだが、とある日、社交辞令のつもりで言葉をかけると、輔子の方は以前より重衡のことを気にかけていたのか、不意に照れ屋な一面を露わにしてくれて、それ以来、この可愛らしい姿を他の誰にも見せたくないと思ってしまったのだった。
 輔子は頭の回転が速く、人の心を読み取るのが上手い女性で、周囲の空気が涼やかになるほど凛としていて美しく、また物静かで深く教養もある。こういった性質は、言葉少なくとも次にすべきことを相手に分かっていて欲しいと思っている重衡にとって、非常に好ましいものだった。

「ふふ」

 黙ってしまった輔子を労るように、重衡は、そのこめかみを軽く撫でてやった。

「あなたは、やはり、かわいらしいね」
「……」
「私の妻でよかったよ」

 輔子は照れたのか身を小さくして、細い指先をゆっくりと前に置き、頭を下げた。

「輔子は、とても、嬉しゅう、ございます」

 たどたどしく微かな声で紡ぐ。それは照れ屋な彼女が言える精一杯の言葉なのだろう。
 重衡はとても嬉しくなって、輔子の指先を取り上げ、そっと手を握った。

「あなたには今後も心配ばかりかけるだろうけれど」

 顔を上げた輔子に、重衡は、自分の顔を近づけ、痛くないよう加減して、彼女の額に己の額をつけた。とても長い輔子の睫毛と白藍の瞳が、重衡の間近にある。ますます白く見える肌が、目に痛いほどだった。
 輔子は、夫とあまりに近い距離なので、両目を丸くしながら、更に頬を紅潮させていた。本当にかわいらしい方だと、重衡は、うっとりした声で後を続けた。

「私は、どんなに遠くからでも、あなたを信頼し、あなたを想い、あなたの姿を思い浮かべ、あなたのもとへ帰ると約束しましょう」

 重衡の低い声が、ふたりの間に響く。
 輔子は、整然と並んだ睫毛を伏せ、安らかに笑み、

「輔子も同じように、どんなに離れても、あなたさまのことをお慕い続けると、深く誓っておりまする」

 と、まるで舞い落ちる雪のように静かな声でそう告げた。
 それは、心の奥底で絶対的な絆を持っている、美しい夫婦の誓いだった。