気がついたら、見知らぬ天井が見えた。

「……」

 しばらくの間、天井の木目をぼうっと眺めていた。そのうち、うねうねと曲がる年輪が燃えさかる炎に見えてきて、望美はたまらず目を閉じた。
 身体がひどく重い。どうにか力を振り絞って上半身を起こしてみると、自分が寝具に包まれていたことを知った。見覚えのない柄なので、いつも眠っている場所ではないらしい。清良の邸ではない、別の邸の一間のようである。
 一体どこだろうと見回していると、御簾の向こうから、ひとりの女が現れた。

「お目覚めになりましたか」

 御簾を巻き上げて入ってきたのは、若い女だった。顔立ちからすると、望美よりは年上のようだ。雪色の髪が長く背中に垂れ、薄紅色の袿に流れている。左目の下に泣きぼくろがあるのが印象的だった。
 女は、音も立てないような物静かさで、望美の側に正座した。

「召し物は侍女がお取り替えいたしましたので、ご安心を」

 女に言われて、望美は自分の胸元を見下ろした。戦闘時に身につけていた胸当は外され、白い小袖姿になっている。
 顔を上げ、

「あなたは?」

 と訊くと、女は、

「輔子(ほし)と申します」

 身体は微動だにせず、口だけを動かして答えた。

「平重衡の妻です」
「重衡さんの?」
「ご帰還の際、お倒れになった望美さんを邸まで運んだのが、我が夫です」

 女性の言葉に、望美は目を丸くした。

「倒れた?」
「はい」
「倒れたの? 私」
「はい」
「……」
「清良殿のもとにお運び申し上げようと思いましたが、清良殿がご心配なさるのが気がかりでしたので、一度武具を外し、望美さんがお目覚めになったのち牛車にてお送りしようと、わたくしが重衡さまに申し上げました。清良殿にも、そうお伝え申し上げております」

 淡々と、輔子は説明した。

(倒れたんだ、私……)

 倒れまいと思っていたわけではないが、まさか倒れるとは思っていなかった。

「お疲れのご様子です。お水か、あるいは粥をお持ちしましょうか」
「ううん……」

 呆然としたまま首を振る。輔子は、いっそ冷たく感じられるほど、一切の表情を見せなかった。

「重衡さまが、お邸にいらっしゃいます」

 望美は、つと輔子を見た。

「重衡さんが?」
「はい。心配なさっておいででしたので、お目覚めになったことをお知らせ申し上げてください」
「……分かった」





 望美が目覚めたのは、戦が静まった日の夜だった。簡単に単を羽織って輔子に言われた方へ向かうと、母屋の南廂から庭に降りる階段に腰掛けている重衡を見つけた。具足姿の重衡は武器やら防具やらを側に散りばめながら、布で鎧を磨いていた。
 近寄って呼びかけると、重衡は無表情で望美を見上げた。

「お身体の方は大丈夫ですか?」

 普段と変わらない涼しげな口調で尋ねられる。望美は重衡の手元を見つめながら頷いた。

「はい」
「顔色が悪い。まだすぐれないようですね」
「そう、なのかな。そうかもしれない……」
「あなたの馬は繋いであります。武具は布で拭き、舎人に預けました」

 武具という言葉に、望美はふと思い出す。

「あの、重衡さん、私の防具を作ってくれたんですよね。どうもありがとうございます」
「いいえ。作ったのは私ではなく具足師ですから」

 にこりと笑って振り向くが、言葉は冷ややかだった。

「……」
「姫君の顔を見て安心しました。これで心おきなく出兵できます」
「出兵?」
「ええ」

 重たい鎧を膝に抱え直し、ゴシゴシと力を入れて拭く。どうしてこのような雑事を彼の従者がやらないのだろうと望美は不思議に思う。

「以仁王をかくまっていた三井寺は朝廷の敵となりましたからね。寺院を焼きに行くんです」

 告げられた言葉に、望美は絶句した。重衡は望美の方を見もせず、淡白な様子で後を続けた。

「三井寺には僧兵が集まっています。今頃、柵を巡らしたりして防戦の準備をしているのではないでしょうか」
「……そ……」
「都で体勢を立て直してのち出発するので、六波羅の邸の者にも顔を見せておこうと思いまして」
「重衡さん」
「そろそろ時間ですので」

 重衡は立ち上がり、近くに控えていた若い男を呼んだ。

「盛長。来なさい」

 呼ばれて歩み寄ってきたのは、重衡の付き人らしい、彼と同じ年くらいの青年だった。くねった青緑色の短髪と翡翠色の瞳の、こざっぱりした印象の若者だが、彼も重衡と同じく具足姿になっているので、身分としてはそれほど低くはないようである。
 盛長は、重衡に指示された武具を受け取って、何も言わずに門のある方へ向かっていった。それに続き、重衡も歩き始める。
 が、不意に、

「恐れながら」

 望美に向き直り、

「私が総大将を務めます」

 と、重衡は強い口調で言った。向けられる薄紫の瞳は、まるで望美が知らない人のように鋭く冷たかった。

「……重衡さん」
「忠度叔父上が副大将を務められます。叔父上の方が、私よりも総大将に適任なはずなのですが」
「重衡さん、ねえ」
「それほど時間はかからないでしょう。姫君は都で休養を取られるとよろしい。それでは」

 くるりと身を翻す重衡に、望美は叫んだ。

「重衡さんっ!」

 どうして彼を引き留めたかったのかは分からない。
 だが、もう嫌だと思った。

「なんですか?」

 重衡が振り返る。その冷静で無感情な様子に、望美は、伸ばしかけた腕を止めた。口を開いたまま、それ以上何も言えなくなる。
 自分は一体、彼に何を言おうとしていたのだろう。

「……」

 ――止めては駄目だ。
 重衡は、これから戦に出るのだ。
 それは、武士の狂気の沙汰からではない。
 人のため。平家のためだ。
 平家の人々を守るためだ。

「姫君。もう、清良殿の邸にお戻りなさい……」

 目元を笑わせて、重衡は、優しい声音で静かに告げた。