宇治川を渡る際には、足を取られたり群れから離れたりした馬が、人と共に何百騎も流された。川には色とりどりの鎧が浮き沈みを繰り返し、たくさんの色を使った絵を見ているようだと望美は思った。
 無事に渡り終えた望美含む平家軍は、岸辺に、おびただしい数の源氏側の兵が積み重なっているのを見た。矢で打ち抜かれ、斬り殺され、中には己の腹に剣を刺して自害している人間もいた。敵に殺され首を取られることは、戦う人間にとって最大の恥だ。自ら死んだ方がましなのである。
 望美は、転がる死体をなるべく見ないようにしながら、馬を走らせていた。心が沈んでしまい、顔を伏せていたいのに、下を見ると必ず屍が目に入るので、うむつくこともできなかった。とにかく前を走る行盛の背中を見てやり過ごすしかなかった。
 都波は、望美を背中に乗せ、自分の意志で行盛の馬の後を追っているようだった。望美は手綱を握っているが、都波を操作してはいない。都波は賢い馬だとつくづく思う。
 行盛の行く先が一体どこなのか、望美は知らなかった。無数の死体に虚無感を覚えつつ、曖昧な心地で都波に乗っていることしかできなかった。
 しばらくして、行盛が馬を止めた。望美も機械的に馬を止め、ゆっくりと顔を上げた。見回すと、そこには大勢の兵がいて、甲を外しながら、互いに何かを話していた。

「知盛叔父上」

 行盛の声がしたので、望美は彼を向いた。馬に乗っている行盛の後ろ姿のほかに、知盛が、馬に乗って人の合間から出てくるのが見えた。

「来たのか」

 言いながら来る知盛の顔は、血にまみれている。怪我でもしたのだろうかと望美の背筋が凍ったが、痛がっている様子はなかった。外傷は見あたらない。どうやら返り血らしい。
 部下に渡された布で血を拭きながら、知盛は、行盛に尋ねた。

「死人は出たか?」
「恥ずかしながら出ました。下流にも源氏が一軍」
「和睦は?」
「交渉決裂で矢戦です。数が少なかったので、ほとんど矢で殺すことができましたが、死者はその際に」

 滞りなく喋る行盛を眺めながら、望美は不思議な心地に見舞われた。頭の中が曖昧になり、目の前が暗くなる。馬にまたがっているはずなのに、ふわふわとした浮遊感があった。

「首は取れたか?」
「相手方の将には自害されました。危機迫った味方同士で首を取り、さらに目前に川があるとなると、取った首を川に投げ込む輩もおりましたゆえ」
「そうか。実は、こちらも頼政の首が取れなくてな」
「え?」

 行盛が聞き返すと、知盛は、残念そうに眉を寄せ、

「先頭の忠綱殿らが辿り着いた頃には、頼政は平等院の本堂で自害していた。しかし、その遺体には首が無かったんだ」
「誰かが取って捨てたということですか?」
「ああ。頼政の息子の仲綱も同じく自害していたんだが、やはり首が無かった。まったく……首の無い身体を持って帰ったところで何になる」

 知盛は悔しげに溜息をついた。

「今回の戦は、相手の自害が多いようだ。平家方の犠牲が少なかったから、まだ許せることだが、川を渡る際に流されてしまった騎兵の数が気になる。清盛公のお叱りを受けるだろうな……」
「高倉宮は?」

 失礼、と言いながら馬から下り、ずれた脛当を直しつつ、行盛が訊く。知盛は、馬の上から彼を見下ろし、

「以仁王は逃走している。景家殿が数百騎をつれて追撃している最中だ」
「宮が逃げたのは南ですか?」
「地理的にそうだろうな。景家殿の読みだから、あくまで推測だが」
「……かげいえって、だれ?」

 先ほどから黙っていた望美は、おぼつかない声を上げた。訊かれた知盛は望美を振り返ったが、怪訝な瞳で望美を見つめて「忠清殿の弟御だ」と短く答えた。そして、すぐに望美から視線を外し、再び行盛と喋り始めた。望美は、知盛の答えに「ふうん」と返事をしただけで、それ以降、言葉を発することはしなかった。
 何かがおかしい、と望美は頭の片隅で思っていた。
 身体に感じている妙な感覚もあるが、それよりも、自分の周りの景色がおかしいのだ。知盛の鎧には、一体何人殺したのだろうと思うほどの血がこびりついていて、まだ生々しい色をしているそれは、つい先ほどまで人を殺していた証拠だった。知盛だけではない。周りの者たちの身体には、まるでそれが当たり前であるかのように返り血が付着していた。
 望美は、ふらつきを覚えてうつむいた。
 ――殺さなければ。
 自分が死ぬのだ。
 だから手に武器を持って戦うのだ。
 人を斬れば血が噴き出すだろう。
 血は人の体内を巡っているのだから。
 大量に体外に溢れ出れば人は死んでしまう。
 血液は地面に注がれていく。
 まるで川のように連なり、大地を赤く赤く汚していく。

「……」

 望美の目から、涙が溢れ出した。
 一体、ここは何なのだろう。
 なぜ、これほど多くの人が刃を振るい、見知らぬ誰かを殺していくのだろう。どうして皆、当たり前のように武器を持っているのだろう。望美の世界では、武器を持って歩いていれば警察官に捕まってしまう。望美の生きる世の中には、そんなものは必要ない。今の日本は平和で戦争もないし、自分が大きな事件に巻き込まれることの方がまれなのに。
 望美の降り立った時代に生きる人々は、自分たちと何かが違うのだろうか。確かに、日本は少し前まで戦争をしていたし、大昔こういう戦があったということについても歴史の時間に教わっている。望美のいた世界は、数々の戦いの上に築かれた平和な世界なのである。望美はその事を知っていたし、先人たちのおかけで今の暮らしをできることに感謝しなければならないと思っていた。事実、望美は感謝していた。歴史の授業の時に教科書を開き、たびたび昔の人々に向かって感謝をしていたのだ。
 戦が、本当はどういったものなのか知らなかったから。

「くっ……」

 だから、望美は、簡単に感謝することができた。大したことも考えずに「ありがとう」と。

「うっ、ひっ……」

 彼らは、こんなに残酷な場所で生きようとしていたのに。

「ご、ごめ……な……」
「姫?」

 気付いた行盛が、馬に乗ったままの望美を見上げ、不安げに声をかけてくる。

「ど、どうなさったのです?」
「ごめ、なさ、ほん……と、ごめ……」
「姫?」

 行盛が望美の片手を握り安心させようとするが、それがただただ苦しくてたまらなかった。
 どんなにつらい役目を負っていても、この目の前にいる人間たちは、やはり優しくて。

「うわああ……」

 彼らは、屍を築き上げてきたのだ。もう自分で死ぬこともできない、地面で「痛い」と呻き声を上げる人間たち。そのような者たちを殺すために馬で踏みつけ、地面に伏している無惨な死体を更に踏み砕く。これは当たり前だと思いながら、武人たちは命運のために決して馬を走らせることをやめない。
 否。
 この戦乱の時代では、やめることができないのだ。

「うわああああん……」

 人の死は恐ろしい。血液の赤い色が瞼の裏から離れない。馬の轟きも、鬨の声も、人の断末魔も、脳裏に焼き付いてしまった。二度と自分の中から消え去ることはないだろう。
 望美は、まるで子どものように泣き続けた。あまりの恐怖に、それを恥じらう余裕さえなかった。周りの兵たちがぎょっとして、場違いな奴だと蔑視を向けている。しかし、望美はかまわず泣いた。流れる涙と鼻水を拭いたかったが、行盛がしっかりと手を握っているので片手しか使えず、望美の顔はぐしゃぐしゃだった。

「姫」

 行盛は、握った手に力を込めた。

「姫、僕たちは……」

 しかし、言葉が続かず、行盛はうつむいて黙ってしまった。
 知盛は、哀れみも同情も示していない、冷ややかな瞳で泣きじゃくる望美を見つめていた。少しして、血の付いた布を部下に預けると、馬の手綱を握り、告げた。

「よく、気を失わなかったな。
 大したものだ」

 知盛は、馬ごと踵を返し、味方の馬の中に紛れ込んで見えなくなった。
 しばらく泣いていた望美だが、しゃくり上げるまでの間隔が長くなると、はあと息をついて顔を上げた。すぐそばで行盛が見上げているのが分かった。その行盛の顔にも、返り血がついている。

「姫」

 行盛は、汗ばんだ望美の手を握り返し、

「知盛叔父上が、姫をご立派だと言っていましたよ」

 あどけない表情で、笑う。
 まるで戦にそぐわない優しい笑顔に、望美の胸が詰まった。

(……なんだか、もう……)

 再び泣き出してしまった望美を見て、行盛はまた強く手を握った。行盛を安心させるために笑顔を作ろうとしたが、やはり今は無理だった。





 それからすぐに、以仁王を追った景家が帰ってきた。以仁王は、雨のように降り注ぐ矢に射殺されて死んだという。
 景家の手に討ち取られた以仁王の生首があるのを見たとき、望美は、とうとう気を失った。