おびただしい数の馬が地面を蹴るせいで、舞い上がる土埃がひどかった。
 率いている兵と共に宇治川を渡り終えた重衡は、鼻腔に入ってくる埃を片手で防ぎながら、平等院を目指していた。
 足利忠綱が「川を渡れ」と叫んだとき、重衡率いる軍は忠綱たちよりも宇治川の上流にいた。橋から遠い上流付近は戦いにくいため敵が来る可能性が低く、重衡の軍のみの配置にして守りを薄くしていたのだ。
 轟音を立てながら川を渡っていく味方を見たとき、重衡たちもそれを真似ようと思ったが、川をせき止められるだけの兵が揃わず、いったん宇治橋付近に戻って忠綱たちに便乗し、川を渡るしかなかった。その頃には、知盛の兵の姿も行盛の兵の姿も無かった。彼らの最後尾の姿さえ、重衡たちがいる場所からは見えなかった。
 足下に転がる死体を眺めながら、重衡は、埃と汗のにじむ額をぐいと拭った。
 倒れている死体は、ほとんどが源氏側である。白い旗や印をつけて、平家側との見分けがつくようにしている。そういった印が必要なのは、混乱している戦場で同士討ちを避けるためだ。無論、死体の中には、死闘の末に果てたのだろう平家の兵も混じっていた。平家の色は赤であり、赤い旗や布、紋章や扇を身に着ている。ここで死んでいる平家方の兵は、川を渡った後、馬から引きずり落とされたか矢を受けたりして殺されたのだろう。
 平家の印と血が混じる真っ赤な戦場を見たとき、重衡は、心が冷えていく感じを覚えた。戦いを終えた景色を見るとき、いつも重衡の中にわき起こる感情だった。
 それは、恐怖などではない。

(……)

 背中にひやりとした蛭が這うかのような、もっと不気味で混沌としている、何かなのだ。

(先を越されたな)

 重衡は、ふうと大きく息をついた。憎しみとも悲しみともいえるような沸々と煮えたぎる何かが自分の内にあるのは分かったが、気にしない振りをした。
 戦の最中、弓を使いはしたが、放った矢が源氏側に当たったのかは分からない。今回の戦は、敵に比べて味方の数が多すぎた。誰が誰を殺したかなど、あれだけ混乱している場所で分かりはしない。
 重衡は、片手に持っていた愛用の武器を握り返した。
 重衡の得意とする武器は、戟という長柄の武器である。先が鋭い斧のようになっているが、細身で、鍬や鎌に近い刃の形をしている。薙ぐ、引っかける、突くなど、槍や長刀とは違った戦い方をするので、使いこなすことが難しく、実際に戦場で使用する人間は少なかった。
 また、戟には長戟と手戟があり、長戟は両手で、手戟は片手で使う。重衡が持っているものは、長戟である。背が高いこともあり、戟は、重衡にとって太刀よりも得意な武器だった。

「重衡さま」

 すぐ後ろにいた兵に呼びかけられ、重衡はハッとした。前方を見ると、屍の中で、上半身だけ起こし、弓をこちらに向けている兵士がいる。背中にある千切れた白い旗から、源氏の兵であると分かった。走る馬に脚を砕かれてしまったようで、立つことができないらしい。

「射ます。お伏せください」

 同じ速度で馬を走らせたまま、背後の兵が、ギリリと弦を鳴らした。が、重衡は、自分を射落とそうとしている兵に与力が残っていないことを確認すると、味方を振り返り、「待て」と手のひらを向け、

「私が殺す」

 短く言った。手に持っていた戟の柄を再び握り直し、手綱を引いて、馬を加速させる。重衡の馬は、これから重衡が起こすことを予測しているのか、何の抵抗をすることも無く、真っ直ぐにその兵を目がけて突き進んだ。
 相手との距離は、さほど遠くなかった。

「あなたに恨みはありません」


 矢を放とうとしていた源氏の兵は、ぎりぎりまで弦を引っ張っていたが、途中で力尽きてしまったらしく、弓矢を地面に落とし、自分に迫ってくる重衡を見上げた。
 命を乞うような瞳で。
 馬が彼の横を通ると同時、重衡は、重力に任せて戟を振り落とした。
 ザンと鈍い音が鳴り、手のひらに、固いものを切る感触が伝う。
 いま自分が何をしたのか振り返って確認することを、重衡はしなかった。自分の愛用の戟についた液体を振り払うために武器をぶんと振っただけだった。
 戟の刃が馬の脚に当たらないよう斜め下に向けつつ、馬を更に加速させた。軍の先頭から抜きん出ると、従える兵たちの遥か前方でくるりと馬を後方に向き直させ、「止まれ」と低い声で叫んだ。重衡の言葉を聞いた兵たちが、「止まれ、止まれ」と後ろに伝達していく。
 遠くの方からは戦場さながらの人間の雄叫びが聞こえたが、重衡たちのいる場所は、厳かな静寂に包まれている。

「副武将」

 重衡が呼びかけると、陣列の先頭にいた数人が、重衡に向かって馬を走らせた。
 副武将とは、武将――すなわち、ここでは重衡――の陣で、武将の下にいる者たちのことである。普通、配置された各陣には武将がひとり、副武将が数人いる。ひとりの武将が率いる陣では、戦いの規模によって数百、時に数千の兵を使う場合があるので、武将だけで全ての兵を従えることは難しくなってくる。そのため、配置されたひとつの陣を更に分割し、それぞれに副武将を置いて陣を統括する。そうすれば、武将は、副武将に直接命令を下すだけで済むという、単純な構図である。
 今、重衡の陣にいる副武将は五人だった。重衡を中心に、扇状に集まる。

「聞け」

 彼らの視線が、重衡に向いた。

「この戦、平家が勝つ」

 重衡は、抑揚のない淡々とした口調で言った。副武将たちは、重衡と同じ平静な表情で、言葉に頷いた。大して喜びもしないのは、戦場の様子からして明らかに勝敗が決まっていたからだろう。

「先には、総大将や侍大将がいる。我々より先に頼政や以仁王に遭遇し、その首を討ち取って戻るだろう」

 少し出遅れたために兄たちに先を越されたことが悔やまれるが。

「我らの役目は終わった」

 重衡が言うが、副武将たちの顔色は変わらない。互いに目配せするだけで、安堵の息を漏らすこともしない。皆、どことなく暗い顔でいるのは、これから起こることを懸念しているためか。
 ならば申し訳ないなと、重衡は口をつぐんだ。
 できることならば、生き残ってくれた大切な戦闘員には、このまま無事に都に帰還してもらって身体を休めて欲しいのだ。戦に駆り出されるという重圧は、実際に武器を振わない者でも強烈なものである。戦の前と後では人の様子が全く異なることを、重衡は経験から知っている。中には戦が好きで疲れを知らない特異な人間もいるが、大抵の男は、凄惨な景色が脳裏に焼き付くという精神的外傷も含め、もはや立ち上がれないほど心身共にボロボロになってしまう。兵の中には妻子ある者も数多くいるし、都にも、彼らの帰りを待つ女どもがひしめき合っている。
 平氏よりは弱い立場にいる、戦場に駆り出された普通の男たち。都において、名誉は何より大事だろうが、本当はこれ以上戦わせたくはない。

(しかし)

 己が進んで参戦し、戦場に立って武器を握る限り、武人は武人でしかないのだ。

「我らには、まだ他にすべきことがある。一度都に戻り、次の出征の準備をせよ」

 重衡の言葉に、副武将たちは表情を変えないままで頷いた。

「私は一度御大将の元に行かなければならぬ。勝敗を確認次第、都に帰還、お前たちと合流する。出征はすぐだ。無駄の無いよう迅速に動け。
 行け」

 重衡の呼びかけに、彼らは駒を翻させて自分の隊列に戻った。それぞれが武将の言葉を伝達すると、重衡の直下である副武将以外、馬の頭を向き直し、最後尾だった者を先頭にして、もと来た道を戻り始めた。
 再び蹄から土埃が舞い上がり、目の前が茶色く霞んだ。重衡は、埃が入らないよう目を細めながら、握り拳を口に当て、苦い顔をした。

「……」
「重衡さま」

 残った副武将のひとりが、再び重衡に馬を近づけ、心配そうな声をかけてきた。重衡は、表情を変えてから振り返った。

「何だ」

 その男は、先ほど「射ます」と重衡に言ってきた男だった。

「先刻は、差し出がましい真似をしてしまい、失礼いたしました」
「いや、ぼんやりしていた私が悪い。手間をかけてすまなかった」
「恐れ多い」

 彼は、何かを言おうとしたが、なぜか言いづらそうに唇を閉じた。なかなか言葉を発しない部下を疑問に思い、重衡は首をかしげた。

「何だ?」
「……あの」

 男は意を決したように重衡を見据えると、強い口調で問うた。

「何か、思い詰めていることがおありになるのでは」

 言葉に、重衡は一瞬、戸惑った。

「私に?」
「あ、いえ、私の思い過ごしならば申し訳の立たぬことですが、先ほどから重衡さまのお顔の色が優れなかったので」

 言われ、重衡は苦笑した。

「ここで血色の良い顔をしていたら、気味が悪いでしょう」
「いや、ま、そうですが……」
「私は、大丈夫です」

 気遣ってくれてありがとうと、重衡は微笑んだ。彼は「とんでもない」と手を振ったが、重衡が穏やかな表情を見せたことに安心したのか、緊張が解けたような顔をして、同じように笑みを浮かべた。
 重衡は気を取り直し、手綱を握った。

「では、我々は大将のもとへ参るぞ」

 副武将たちも頷き、重衡の後に続いて馬を走らせた。