馬にまたがったまま望美は取り残された。唖然としているうちに、あらゆる方向から騎兵が集まってきて、先ほどと同じ手順でまとまり、轟音を立てながら川の中になだれ込んでいった。
 同じ事が、すでに数回繰り返されていた。せき止められた川が再び流れ出せば、今度は、先ほどより数段強い流れが襲いかかってくる。こちらの岸に置いてけぼりにされてしまう前に、軍ごと早々に川を渡らなければならないからだ。
 望美は、立ちすくむだけだった。戦の展開の早さに、全くついていけない。

(なんで……)

 なぜ、彼らは、あれほど勇猛に敵に立ち向かうことができるのだろう。
 そして。

(なんで、私は……)

 何もできないのだろう。
 目の前が暗くなっていく。情けなさよりも、絶望感の方が強かった。「お前はここにいてはいけない」と周りの空気が言っているような気がした。目の前には、敵の数より遙かに多い大勢の仲間たちがいるというのに。
 いや。
 仲間などと言ってはいけない。自分は彼らのようなことはしていないのだから。何も成してはいないのだから。
 呆然と川を眺めていると、右手の方から声がした。

「やんごとなきお方とお見受けする!」

 振り返ると、崩れた鎧を身に纏った男が疾走しているのが目に入った。男は、望美に向かって走ってきているようだ。なぜだろうと、望美は、その男を見つめた。
 男は、平家側の攻撃を受けながら決死の思いでこちらの岸にたどり着いたのだろう。甲もつけていないうえ、防具の部品があちこち失われている。弓矢は無く、手には太刀を持っているだけだったが、その太刀はつい先ほど人を殺したらしく、血を垂らしていた。

「女を殺すはいたたまれぬが、武将に守られていたとあれば高貴なお方に違いない。その御首、頂戴する!」

 男の荒ぶる声を聞き、そこで、初めて望美は思った。

(殺される)

 戦慄が走った。
 早く、剣を抜かなくては。剣を抜いて、相手の太刀を受け止めなければ。しかし、手が震えて力が入らない。今まで経験したこともない震えが全身を支配し、身体の自由を奪っている。
 望美が焦っている間に、男との距離が迫った。男は雄叫びを上げながら太刀を振りかざし、気が狂ったような形相でこちらに向かってくる。

(に、逃げなきゃ)

 馬を走らせようとするが、手綱を引いても助走が間に合わない。それ以前に、ガタガタと震える手が役に立たなかった。
 追いつかれる。
 確信した望美は、愕然とした。

(うそ、うそ、うそ)

 隠れていろという知盛の言葉が、今更、頭の中をよぎった。

「はああ!」

 叫ぶ男が太刀を振りかざし、こちらに飛びかかってくる。

(嫌だっ)

 全身からぞわりと汗が噴き出す。
 死にたくない、殺されたくない。ここは恐い。ここは危険だ。どうして自分はこんな場所にいるのだろう。一体どうしてこんな場所に来てしまったのだろう。なぜ自分が狙われなければならないだろう。
 "自分は平家でもないのに"。
 無責任にも、望美はそう思ってしまったのだ。
 その時、急にきゅんという風を切る音がして、

「が」

 と、男の短い声が上がった。
 いつまでも刃が当たらないので、疑問に思って目を開くと、前方に、だらりと口から血を流している先ほどの男の姿が見えた。首に矢が刺さり、裂けている。振りかざしていた手から力が抜けたらしく、太刀が、ぼとりと地面に落ちた。
 そのまま男は白目をむいて、横にどさりと倒れた。
 両手を胸に引き寄せて小さくなっていた望美は、首から吹き出す大量の血を凝視した。

(……血……)

 喉の奥から、何か熱いものがこみ上げてくる。その熱いものはしだいに頭部に上り詰めていき、涙となって目の中から出てきた。
 矢が飛んできた方を見る。そちらからは数え切れないほどの馬が音を立てて走ってきた。視界がぼやけてよく見えないので、袖で涙をぬぐった。先頭に、行盛がいる。行盛の手には、先ほどの矢を放ったらしい弓が握られていた。

「春日の姫君! 一体何をしておられるのです」

 行盛は怒りに満ちた表情を浮かべながら、望美の前に馬を止めた。

「僕たちも行きますよ」
「……行く?」
「宇治川を渡るのです。さあ!」

 馬を川の方向に向け、行盛は、横にいる騎兵たちを見やった。

「我らも続くぞ!」

 呼びかけると、行盛に続いていた数百以上の兵が、鬨の声を上げて川へと向かっていく。
 その様子をぼんやりと見ていると、行盛がいつまでも動かない望美を喝破した。

「姫君! あなたも戦うと言ったでしょう!?」
「う、ん」
「ここにいたら先ほどのように襲われますよ」

 行盛の馬が走り始めたので、望美は慌てて手綱を引いた。

(……なんで)

 ボロボロと落ちる涙をぬぐいながら、望美は行盛の背中を見つめた。

(なんで、そんなにしっかりしてるの)

 同じ初陣なのに、なぜ勇ましく兵を指揮することができるのだろうかと、望美には、ただひたすら疑問だった。