宇治川の両岸では、平家軍と源頼政の軍が矢を放っていた。宇治川は巨大というわけではないが、川の真ん中は足が着かないほど深い。橋を使わなければ、渡れるものではなかった。
 飛び交うのは、空が真っ黒に染まるほどの数の矢だった。びゅんという風を切る音が聞こえ、速い矢は鼓膜を引き裂いていくようだ。両軍の川岸には、頭や胴に矢を受けた兵が無造作に転がっている。敵の強弓を受けた者は、甲の上から脳天を破られたり、矢の勢いで腕を射落とされたりしてしまう。生き長らえている者もいるが、呻いているだけで再び戦場に戻ることが不可能な者が圧倒的に多い。
 矢も、侮ることのできない武器だ。遠距離から攻撃できるので、第一に自分の身を危険にさらさなくて済む。矢を射る際にできる胸元から肘にかけての隙は、防具の部品で保護すれば問題ない。矢を放ってから敵にぶつかるまでの時間差があるため、相手に避けられる可能性は高いが、一斉に放てば、逃げ場を失った大勢の敵を同時に射殺すことができる。空中で加速した矢は、手で握る太刀では決して発揮できない強力な殺傷能力を持ち、太刀では相当の力を入れなければ切り落とせない腕や首も、矢であれば骨さえ砕くことが可能なのだ。
 互いに放ち合った矢は、大体同じだけ当たっているようだった。木板を繋げたものを楯にしているが、自分が射る際にはどうしても身を乗り出さなければならない。その時に顔を撃ち抜かれたり、首を射られて戦闘不能になる者がほとんどだった。
 戦う者の中には、弓矢ではなく長刀を持ち、橋げたを伝って対岸に乗り込む兵もいた。弓が苦手な者や、直接戦った方が功績を残せるという考え方を持つ者がいるのである。相手も同じだけ乗り込んでくるので、狭い橋の上は、ごちゃごちゃと人の入り乱れた混戦状態だった。そのほとんどは、川に落とされるか首をはねられるかして死に、川には、落ちた人間や馬が浮きながら流されていた。
 戦場が見える頃。

「兄上。私たちは左方にまいります」

 重衡が、自分の兵を率いて、知盛たちから離れた。望美は、知盛の軍について行けと言われたので、知盛のすぐ後ろにいる。
 川に近づくと、知盛の後ろについていた兵が、どっと前に出た。先に戦っていた味方に矢が当たらない所まで移動し、馬の上で弓を引いて、対岸を目掛けて矢を放つ。本当の戦が始まったのだと、望美の身体が震えた。

「橋の上で戦うなあ!!」

 誰かの、喉が裂けんばかりの大声が聞こえる。橋げたがまばらな橋の上で両軍が密集して戦うのは、やはり危険だ。

「余計な犠牲を」

 知盛が、険しい顔をして吐き捨てた。
 知盛の視界の中に、もはや望美という存在は入っていなかった。状況を把握するために、あらゆる方向に集中力を移動させなければならず、額に浮かぶ汗が、どれだけ神経を酷使しているのかを物語っていた。
 少し経って、ひとりの男が、知盛の前に馬に乗って現れた。茶色く短い顎髭を生やした壮年の男で、身体が細いらしく、鎧がぶかぶかとしている。が、骨格は大きいので、近くに来ると普通の男より一回り大きく見えた。小顔と一重の目、そして、緑色の瞳が印象的である。

「どうした、忠清殿」

 知盛が、その男に言った。忠清と呼ばれた男は、弓と矢を片手に持っていて、肩を上下させながら、

「橋げたから落下する兵が多すぎます。橋に上がるなと言っているのですが、敵が躍り込んできて応戦せざるを得ない。向こうに強い弓を引く者どもがいて、前線の楯も崩されています。川を渡ろうにも、流れが速すぎて無理でしょう」

 渋い顔をして言った。声の感じから、どうやら先ほど叫んでいた男が彼らしい。

「相手も渡ることを躊躇っているようだな」
「我々も宇治川を渡らなければ平等院に攻め込めません。西を迂回するのはどうでしょう」

 堰を切ったような口調で喋る忠清の後ろから、別の男が馬に乗って現れた。

「御大将! 忠清殿!」

 太い声だった。生き生きとした目をした、腕のたくましい大柄な男である。顔は若々しく、歳は、望美と大差ないとみられる。彼はじゃらじゃらと赤色の縅の音を慣らしながら、知盛の前に馬を止めた。

「迂回などしていては敵に逃げられるだけです」
「忠綱殿!?」

 ぎょっとしたように忠清が声を上げる。しかし、忠綱の目は、知盛しか見ていなかった。

「南には、おそらく頼政側の軍勢がいます。ぐだぐだしているうちに奴らに合流されたりでもしたら厄介です」
「そうだな……」
「御大将。わたくし足利忠綱は、関東の武士。関東の武士は利根川を経験しています。宇治川を渡るなど、利根川に比べたら造作もないことです」

 忠綱は強い口調で言い、にいっと笑みを浮かべた。

「わたくしにお任せあれ」
「よし」

 忠綱の言葉を聞いた知盛は、迷いなく頷いた。合意を確認すると、忠綱は、馬の手綱を引いて、こちらに背を向けた。そのまま前へ馬を走らせ、向こう岸に矢を放ちながら大声を上げる。

「みなの者、甲をしろ! 我々は宇治川を渡る! 強い馬は川上に、弱い馬は川下に寄せろ!」

 兵たちに指示をする顔は勇ましく、自信に満ちていた。

「知盛殿! よろしいのですか?」

 信じられないといった様子で、忠綱の行動を見ていた忠清が悲鳴を上げた。だが、知盛は忠綱を眺め、微笑を浮かべるだけである。
 忠綱の指示に従い、兵が、わらわらと自分の馬を動かし始めた。知盛と望美がいる場所からは、まるで魚や虫の大群が音を立てて移動しているように見える。

「馬の足が川底に着くまでは、手綱は緩めておけ!」

 叫びながら、忠綱が川辺に寄った。どうやら兵を先導するらしい。

「馬の足が浮いたら手綱を引き、馬を泳がせろ」

 そうこうしているうちに、川岸が人で埋め尽くされた。

「ゆくぞ!」

 忠綱の掛け声と共に、平家の馬が一斉に動き始めた。ものすごい数の人である。川を横断しようとする平家を狙い、敵側の矢が放たれる。が、それらは傾けた甲によってはじき返された。始めに忠綱が「甲をしろ」と言ったのは、このためだ。
 馬の身体がぴたりと寄り添っているおかげで、川の水がせき止められた。馬が足を取られない程度の流れになり、そのまま、忠綱を先頭とする騎兵が向こう岸に着かんとする。途端、源氏側の兵士が慌てて弓を投げ捨て、太刀を取り出した。しかし、腰が引けてしまったらしく、背中を向けて走り出す者が多数あった。興奮している馬に踏み砕かれてはひとたまりもない。轟々と音を立てて迫る平家から逃れようと、我も我もと手当たり次第に馬にまたがり始める。

「よし」

 様子を見ていた知盛は満足げに頷いた。

「忠清殿、行きましょう」
「……はい」
「え、ちょっと」

 望美が声を上げると、馬を走らせようとしていた知盛が勢いよく振り返り、

「お前は先頭にいてはだめだ。大群の半ばに……いや」

 面倒くさそうに舌打ちをした。

「下流には湖があるせいで道が阻まれている。下を固めていた行盛が、おそらくこちらに上ってくるだろう。姿が見え次第、お前はあいつに合流しろ。それまでここで待機だ」
「こ、ここにって」
「矢に当たるなよ。身を隠しておけ」

 そう早口で言い、知盛は、馬に掛け声をやって前に走り出した。

「知盛っ」

 叫ぶが、もはや聞き入れない。忠清も知盛の後に続き、その姿はあっという間に紛れて、分からなくなった。