「知盛殿も、男の子が生まれたとなると、これから先、武芸の教え甲斐があるでしょうねえ」

 義妹恵子の出産も無事済み、知盛邸から邸へと帰宅する牛車の中で、経子が嬉しそうに言った。重盛も、異母兄弟とはいえども弟に子どもが、すなわち自分にとって甥ができたことは大きな喜びで、彼女の言葉にこっくりと頷いた。

「そうだな。これから皆にお披露目だ。知盛は、そういう人前に出ることは好きじゃないから、少し見物だな」

 意地悪な声で囁くと、まあ、重盛さまったら、と経子は口元を隠してくすくすと笑う。

「知盛殿は、きっといい父御になるでしょうね」
「ああ。ぶっきらぼうだが、根は真面目で優しい子だからな。
 しかし、こういうめでたいことがあると、基盛のことを思い出すよ」

 物見の窓から明るい空を見上げていると、七年前に亡くなった弟を思い起こすのだった。基盛は一つ下の弟で、幼き日々を、まるで一心同体のように共に過ごしてきた。晴れ渡った夏の空のように明るく、人なつこくて、同じ母から生まれたというのに、どうして生真面目で堅物な兄とこうも違うのだろうと不思議に思ったものだ。
 そうですねえ……と、経子もまた、亡き義弟のことを思い浮かべているようだった。

「基盛殿は、誰かにおめでたいことがあると、まるで自分のことのように心からお喜びになる方でしたねえ」





 父清盛から、そろそろお前も妻をもらえと言われた日、重盛は憂鬱だった。その日は肌寒く、小雨が降っていて、清盛の邸の柱に背を持たれつつ、白く霧がかった庭の景色を心ここにあらずといったふうに長いあいだ眺めていた。
 そのうち渡りからトコトコと足音が聞こえてきて、斜め後ろに止まった。その人物が誰かは足音で分かっていたので、重盛は振り返らなかった。

「重盛兄上。父上から聞きました。お相手は、越後守藤原成親(なりちか)殿の妹御だとか」
「……」
「おれ、成親殿のことはよく分からないけれど、父上の選ばれるお人なら、きっと良い方のような気がします」

 明るい声で言われると苛立ち、重盛は返事の代わりに深い溜息をついた。弟は、兄の態度に小さく笑い、重盛の隣によいしょと腰を下ろした。

「今日は、まとわりつくような雨で嫌ですね。それとも、兄上がそんなだから、こんなふうに雨が降るのかな」
「うるさい」

 普段は弟に対して優しくしてやる重盛だが、今日ばかりは、いつもの親しみを持つことはできなかった。目も合わせず、ただ葉の落ちた庭の地面を睨むしかなかった。
 機嫌の悪いときの兄がどうなり、何を思うのか、昔から共に過ごしているためによく分かっているのだろう、突き放す言葉に、弟は動じもしなかった。

「兄上の妻になる女性は、幸せ者だと思うけどなあ。真面目で優秀で誠実で。おれが成親殿の妹御にお会いした暁には、重盛兄上がどれだけすばらしい人かをお伝えしないといけないな」
「基盛、やめてくれないか」

 不機嫌さを隠さず、低く唸る。基盛は一度口を噤んだが、兄が自ら喋り出すつもりがないと分かると、再び話し始めた。

「兄上は、父上に利用されたと思われているんでしょ。確かに、あの名門藤原家に平氏との血縁関係ができれば心強い。成親殿の父君である家成殿が、お祖父さまや父上との親交深く、さらには母上の従兄弟であることも決め手となったのだと思います。こうしてみると、まったく悪い話ではないですもんね」
「……」
「兄上は、真面目すぎるほど真面目だから、平家の力を強めるためにはやむを得ないことだけれど、当人たち抜きで勝手に色々と決められては、成親殿の妹御にも申し訳ないと、そこまで気を回してるんじゃないかなあ」

 重盛は、いちいち的確に図星を指してくるのに感心と呆れを覚え、半眼で基盛を見た。

「お前は人の心を読み取るのが上手いな、まったく」
「兄上のおかげだと思いますよ。兄上は、自分の腹の内は絶対に明かさない人だから、幼い頃から、この人はいま何を考えてるんだろうと弟なりに窺う努力をしてきましたので」

 肩をすくめ、基盛は、兄に言われたことが嬉しかったように笑った。基盛は、重盛と非常によく似た相貌で、体型も似ており、違いといったら、濃い青色の髪に癖があるかないかくらいだった。重盛は母親譲りで真っ直ぐさらさらしているが、基盛は父親に似たらしく、少しばかりうねりがある。
 見た目は変わらないが、性格はだいぶ違うよな……と重盛は灰色の空を見上げた。

「抵抗する気はないさ。でも、本当にこれでいいのだろうかと案じている」
「成親殿の妹御に不満がおありなのですか?」
「そんなはずはない。公卿の娘など、おそれ多いくらいだ。しかし、会話すらしたこともない方といきなり夫婦になれと言われると、そういうものだとは分かってはいるが、腑に落ちない部分があるのは当然だろう」
「真面目だなあ、兄上は」

 袴の裾の絞りのひもをいじくりながら、くっと基盛は笑った。

「もっと単純に考えればよいのです。つまり、今回の婚姻の件は、縁というやつだと」
「えにし?」
「そう。兄上は、父上の思し召しがあって成親殿の妹御をあてがわれるけれど、それは、たまたま父上が殿上人になっていて、内裏で公卿たちと親交を持っていて、その方には偶然、婚姻できるくらいの年齢の妹御がいて、父上の成親殿の合意があって、ちょうどよい年頃の重盛兄上のところに行き着いたから、そうなった。この一連の出来事はすべて偶然であり、のちに妻となる人も、この世に生まれて巡り巡った縁である。ならば、その縁が一体どのようなものか、良いものなのか悪いものなのか、吟味することも、己の人生を楽しむ一要素になるのではないでしょうか」

 空を眺めやったまま反応しない兄を気遣ったのか、おずおずと「楽観的すぎますかねえ……」と呟いた基盛に、重盛はゆるくかぶりを振った。

「初めから、基盛のように考えられればよいのにな、と思って」
「いや、もちろん、真面目なところは兄上の長所だと思いますよ。女性からすれば、その誠実な性格は好ましいものなのではないですか」
「……」
「大丈夫ですよ」

 基盛は立ち上がり、ぽんと兄の肩を叩いた。

「何か不安なことがあれば、いつだって相談に乗ります。成親殿の妹御にも、兄上のよきところをたくさんお伝えして、その兄上たちが幸せになれるよう、弟として精一杯努力させていただきますから、ね」

 上から降る、弟の優しくて思慮深い物言いに、重盛は空を見つめながら、少し泣きそうになった。
 それでは、と基盛がその場から離れていったあとも、重盛は背後の柱に頭をつけ、霧雨の舞う空をぼんやりと眺めていた。

「私は、よき弟を持ったな……」

 己の呟きに深い慈しみが含まれていることに気づき、重盛は穏やかに笑った。