当時、出産は穢れた行為だという意識が強かったため、出産の儀式は本邸では行われなかった。通常、女は里に帰るか別に産屋を設けて、そこで子どもを生む。
 しかし恵子は、清盛の子の平知盛の正室であり、義父の正室時子に仕えている身で普段から忙しい女性だったので、帰郷がままならず、今回、知盛邸の近くに産屋を設けたのである。
 産屋は、魔よけのために白で統一された空間になっている。出産を手伝う女房たちでさえ、衣を白いもので統一しなければならない。それは、新たに生まれる命が穢れたものに触れないようにという祈りを込めるためだ。
 慌てて走ってきた知盛は、一度、自邸に帰ってしまったのだが、青ざめた侍女から「ここではございません!」と忠告され、急いで産屋の方へ向かった。知盛が珍しくぜいぜいと息を切らしながら取り乱しているので、侍女や舎人などは、彼の姿を見て密かに笑い合った。
 広い庭には、正装をした知盛邸に仕える者のほか陰陽師や祈祷師もいて、知盛の姿を見ると、敬礼のために身を低くした。なぜだろうか、皆、どこか気まずそうな表情でいる。

(……まさか)

 最悪の事態になったのではないかと危惧した知盛は、ざあっと顔を青くした。白い衣の女房が、色々な道具を抱えながら、御簾を上げてぞろぞろと出てくる。そのうちの一人、知盛にもよく見覚えのある女房が、知盛の姿を見て「まあ」と目を丸くした。

「知盛さま!」
「……恵子は」

 少しふらつきながら、知盛は産屋に近づいた。足下には陰陽師が使ったらしい厳格な祭壇があったが、それをつま先でなぎ倒しながら(陰陽師は供え物や神酒が散らばったのでぎょっとしたが、相手が知盛なので何も言えない)、知盛は、真っ青な顔で女房を見上げた。
 当時、出産は相当な危険性を伴うもので、難産だった場合、妻子の致死率は非常に高かった。そうでなくとも、出産は産む女の命に関わることだったので、産屋の周りでは高僧が祈願をするし、陰陽師は占いをするし、悪霊を追い払うための童は使うし、無事を願うために供える品物もきちんと定められていた。

「恵子は?」

 唇を震わせながら知盛が問うと、女房は、急に目をつりあげ、

「知盛さま、不躾な口をきくことをお許し願いたいのですけれども、なぜこのような大切な時期に、お邸や大内裏にいらっしゃらないのです?」
「す、すまない」
「みな必死に知盛さまを探し回りましたのよ。知盛さまが不在という知らせをお聞きになって、恵子さまも残念がられて、それはもうがっかりされて」
「すまないっ! それで、恵子は!?」

 知盛が地団駄を踏んでまくし立てると、女房は嘆息しながら、出産が行われた部屋の隣の部屋を一瞥した。

「まだ産屋にいらっしゃいますわ……お疲れのご様子ですので、本邸の方にはお連れできませんの」

 女房が言い切る前に、知盛は沓も脱がずに産屋に上がり込み、恵子がいるらしき部屋の御簾を横からばさりと開けた。「まあお行儀の悪い」と先ほどの女房が悲鳴を上げたが、知盛の耳には全く入っていない。
 御簾をかき分けた知盛が見たのは、真っ白な衣を着て白い床に横になっている恵子の姿と、同じく白い衣を着た重盛と経子が彼女の隣に座している姿だった。
 知盛は、もはや人生でこれ以上ないというほど、顔を青くした。
 発する言葉も無く部屋の中に入ると、知盛は両手を床について、ゴンと音がするほど勢いよく額を床につけた。土下座したのである。今回出産した恵子の(遅刻した)夫の姿を目撃した重盛は、すっくと立ち上がり、知盛の方へ寄ると祈りに使ったらしい経典で、知盛の頭にパコンと景気のいい音を立てた。それを見た経子が「重盛さま」とたしなめたが、重盛の怒っているらしい空気を感じ取って、それ以上何も言えなくなる。

「……」
「知盛。お前、出仕していたわけではなかろう」
「……」
「大内裏にもおらず、知人宅にもおらず、探し回って人に尋ねても誰も行き先を知らん」
「申し訳、ございません」

 知盛は、床につけた額を、更にぐいと押しつけ、

「申し訳、ございません」

 もう一度、震えた声で謝罪した。
 重盛は、恐縮しすぎてどうしようもないらしい知盛の姿を見下ろしながら嘆息し、経子と恵子の方を振り返った。

「恵子殿。経子と私は去った方がよいかな?」
「いーえ、重盛さま、経子さま」

 恵子の発した声が普段より幾分低かったので、知盛は、土下座をしたまま戦慄を走らせた。床にべったりとつけた両手が震え、汗をかき始めているのが分かる。

「ここで、お義兄さまとお義姉さまに、私たち夫婦の様子をご覧いただきたいですわ」
「ほう」
「まあ」
「恵子……!」

 知盛は顔を上げ、腰を低くしながら彼女の元へ駆け寄った。すると、仰向けになって天井を見つめたままでいた恵子の紅色の瞳が、ぐりんとこちらを向いた。
 怒っている。

「んまあああ知盛さまったらどうしてこういう大切なときにいらっしゃいませんの!? お仕事中ならともかく大内裏でも見つけることができませんでしたと言われたときには心臓が凍りつきましたわ! 広大な大内裏を探すのが一体どれだけ大変なことか分かっていらっしゃいますの!? 申し訳ないことに皆さま総出で知盛さまのことをお探しになりましたのよ! 私はもう、まことに、まこっっとに恥ずかしゅうございました!」
「す、すまない」
「あの、恵子さん、あまり大きな声を出してはいけません」

 経子がおずおずと言うが、恵子は「大丈夫ですわ」と即答し、キッと知盛を睨んだ。

「重盛さまが代わりになって私のことをお見守りくださいましたわ、ええ、それはもう経子さまとお揃いで、ひどくお気の毒そうなご様子で! 宗盛さまも先導に立たれて平家一門あらゆるお方にお尋ねになってあなたさまの行方をお探しになったというのに、もう……
 ああ、恵子は、なんだか泣けてまいりました……」
「すまない、本当に」

 この通りだと再び知盛が土下座するが、恵子の腹立たしさは収まらないらしい。その間に、恵子の側にいた経子は立ち上がり、御簾の近くにいる重盛の方にそそくさと逃げた。

「知盛さま、婚儀の際の約束を覚えていらっしゃるかしら? およそ二年前のことですから、もちろん覚えていらっしゃいますわよね。知盛さまは自らおっしゃいましたのよ、出産時は命に関わるから必ず立ち会うと」
「……」
「私、恵子は、この言葉を支えに数ヶ月、つわりや身重に耐えておりました。知盛さまが近くでお見守りくだされば、きっと無事に出産できるでしょうと。可愛い子に恵まれるでしょうと。知盛さまが一番初めに衣に包まれた我が子を抱いてくださるでしょうと……ああ、それなのに、まったくもう私は残念でございます。知盛さまは、たかが女がこのような言葉を吐くだなんて無礼極まりないと思っていらっしゃるでしょうけれどもっ」
「――思っていない」

 顔を上げて、知盛は、真剣な表情で恵子を見た。それから、低い声で、

「そのようなこと、決して思わぬ」

 厳かに告げた。

「……」
「今回のことは申し訳なかった」

 静かに身を起こし、知盛は、恵子に顔を近づけた。途端に恵子は反対側を向いてしまったが、知盛は、彼女の額を撫でながら、優しい、知盛にしては驚くほど優しい声で続けた。

「一生かけて、償おう」
「……」
「一生かけて、我が子を、お前が自慢にできるような立派な子にしよう」

 知盛が誓うと、恵子は、少し機嫌を良くしたように知盛の方を見てから、自分と知盛の間にいる、白い布に包まれた小さな命を見た。

「男の子ですわ」

 その子の髪は、父親と同じ銀色だった。顔は本当に小さくて、頬は赤く、目はぎゅうと閉じられている。指先でつまめてしまうのではないかと思うほど小さな手は、何かを掴むように強く握られている。時おり可愛らしい口が開き、何か声のようなものを出すのだが、一体何を言いたいのかは分からない。
 新しい生命が、二人の間にあった。

「男の子、ですわ……」

 恵子は、微笑みながら呟いた。知盛はしばしのあいだ声を失っていたが、目元を笑わせると、心底幸せそうに頷き、

「ああ……」

 白い布にくるまれた子どもの顔を、指先で撫でた。すると、幼子もそれに答えるかのように、わずかに首を動かした。
 そんな幸せそうな夫婦の姿を見て、「やれやれ」と言いながら重盛夫妻がそっと外に出て行ったことには、ふたりは気付かなかった。