「兄上?」

 京の大通りで定期的に開かれる市場を歩いていた兄が、いつの間に自分の後ろから消えていたのに気付き、重衡は、慌てて辺りを見回した。
 午前から夕方にかけて開かれる市場には、野菜やら骨董品やらが所狭しと並んでいる。地方からやってくる農民や商人も多く、品物も豊富なので、見に来る客も下層から上層までと多様だ。地方の商人にとっては、京の市場は、人口も多いこともあり非常に魅力的な場所であり、運良く貴族にお得意様になってもらえれば、先の大きな利益となるので、威勢の良い声を出して一生懸命に客を呼んでいた。市場の管理者は一応いることにはいるのだが、勝手に入り混んで敷物を広げる者があちらこちらにいるために、通りの両脇は商人たちで埋まっていた。客側でも、牛車を停める場所が無造作なので、それが余計に道を狭くし、ごちゃごちゃとした人混みを作り出していた。
 あの兄を放っておくのは何だか嫌な予感がすると、重衡は、焦り気味に人の波の中を探した。すると、近くの売り場の前に、兄がしゃがんで品物を見ている姿が目に入った。近寄ってみると、彼は品物を見ながら険しく眉間に皺を寄せている。
 なぜそんな訝しげにしているのだろう。重衡は、屈んで兄に尋ねた。

「兄上、何かありましたか」
「んん……」
「何かお悩みですか……おや。これは」

 重衡も知盛の隣にしゃがみ、敷物の上に並べられているものの一つを手に取った。それは木製で、器用に円く削られたり、動物型に彫られていたりする、手のひらの大きさの品物である。

「玩具?」

 見てみると、他にも、鞠、お手玉、布製の人形、積み木など、様々なものが並んでいた。知盛は、その中にあった馬や鳥の形をしている木彫りの置物のようなものを手に取って、何やら悩んでいるようだった。
 兄がこんなに表情をしているのは珍しいなと思いながら、重衡は、もう一度尋ねた。

「何を悩まれているのです?」
「……」
「新たに生まれくる子のためでございましょう?」

 ふふ、と小さく笑い、重衡は、知盛の手から鳥の置物を取った。知盛の視線が重衡に移る。

「おい」
「兄上、このような先の尖ったものでは、赤子が怪我をしてしまいますよ。それに、これでは少々……」

 重衡は、その鳥の置物を自分の目線と同じ高さまで持ってきて、見つめ、

「……少々、いかめしいのでは」
「……」

 肩をすくめて素直な感想を言ってやると、知盛は、ぷいと顔を背けて、再び別の商品を眺め始めた。
 重衡は、そんな兄を横目に笑いつつ、兄と同じく玩具の品定めを始めた。

「男の子ならば良いですが、もし、女の子だったらどうするのです」
「……」
「それに、もうじき生まれるのですし、性別が判ってから買ってもよいのではないですか」
「それでもよいが、周りの人間が気を遣うだろう。父上は異国の玩具をやると言うし、重盛兄上は特注の金の鞠をくれてやるという。他にも人形、書物、食器……うんたらかんたら」
「まあ、こういうのは断ろうと思っても断れない通過儀礼のようなものですから、兄上が気になさることはないと思いますけれども」
「嫌なんだよ」

 今度は、鹿の形に削られた木細工のひとつに手を伸ばして、それを取っている。

「誰よりも先に、俺が、父親としてすることを果たすべきだろう」
「おやおや、兄上。いつかは聞くだろうと思っていた言葉をいざ耳にすると、弟の身ながらくすぐったいものですね」
「やかましい。お前は齢の割に口が達者だな、全く」

 重衡の頭を叩いて、知盛は、その積み木を太陽にかざした。無論、木製なので透けはしない。

「子どもが生まれることは、確かに祝福すべきことだが、俺は、規則や慣例や決まりごとが好きではない」
「贈り物というのは、お互いにし合うことで同等になるものなのですよ。素直に受け取ればよろしい」
「受け取るさ、結局はな」

 嘆息し、知盛は積み木を降ろして、手の中で転がし始めた。

「しかし、俺も贈り物がしたい。子どもと、俺の子どもを生む恵子に」
「なんだか、いつもの兄上らしくありませんね」
「意外か? 笑うがいいさ。俺だって、何をしていいのかよく分からないんだ……」

 どこか考え事をしているような目つきで玩具を眺める兄の横顔を見て、重衡は、少し微笑ましいような寂しいような気持ちになった。

「羨ましいですね、兄上」
「は?」
「私にも、このように、私の子どもに玩具を買ってあげるような日が来るのでしょうか」
「来るだろうよ」

 即座に返答した知盛に、重衡は、少し驚いて顔を上げた。

「そう、でしょうか」
「来るだろうさ。俺に来て、お前に来ぬ日などあるものか」
「そうなのですか?」
「願えば来る」

 知盛の強い言葉に、重衡は目を輝かせた。

「知盛兄上は、願ったのですか?」
「うん、この積み木にしよう。これならば性別関係なく使えるだろうし」
「兄上、願えば、その日は来るのですね?」
「うるさい。普段からそれなりに行いが良くないと駄目だろうがな。いくらだ?」
「それでは……私が親になるときには、先輩として兄上に教えを請うことにいたしましょう」
「しばらく先の話だろう。まて、高いな。少しまけてはもらえぬか」
「知盛!!」

 突然、知盛を呼ぶ大声がしたので、ふたりは振り返った。知盛が反動的に立ち上がると、向こうから、背の高い男が人混みをかき分けて進んでくるのが視界に入る。
 知盛は、目を細めながら、その人物の正体を確認した。

「兄上か?」
「宗盛兄上ですか?」

 重衡も立ち上がる。そのとき店主に支払いを頼まれたので、ふたりで慌てながら金銭のやりとりをしているうちに、背後から白い手が伸びてきて、がしりと知盛の肩を掴んだ。

「知盛!」

 ぐるんとその人物の方を向かされる。

「宗盛兄上」
「お前、こんなところで何をしている!?」

 重衡に積み木の入った木箱を持たせつつ、知盛は、何喰わぬ顔で宗盛を見た。他の兄弟と違って驚くほど色素の薄い宗盛の顔が、更に真っ青になっている。知盛は、無邪気に首をかしげた。

「何か?」
「この馬鹿者めが!」

 宗盛は、知盛に比べ背の高い男なので、弟の頭にげんこつを食らわせることも苦ではない。
 兄の脳天から鈍い音が鳴ったので、重衡は驚いて身をすくめたが、当の本人は平然とした顔でいる。知盛は昔から生意気なところがあったので、兄たちから黙らされることには慣れていた。

「なぜ、お前はこの時期に恵子殿の近くにおらんのだ!」
「恵子?」

 知盛の目が見開かれたのを、隣にいた重衡は見逃さなかった。宗盛は息を切らしながら、知盛の両肩を手で掴み、

「そうだ、お前、もう出産が始まっているんだぞ!? 朝からちょこまかと動きおって、どれだけの時間、我々が探したと思っているのだ! お前がいない間に陣痛が……っておい!」

 宗盛が言い切る前に、知盛はものすごい勢いで走り出し、あっという間に人の波に紛れて見えなくなった。周りの人間も何だ何だと騒然としていたが、猛烈な勢いで駆け抜ける知盛の姿さえ見えず、首をかしげながら普段の状態に戻っていった。
 宗盛と重衡は、今までにない知盛の慌て様に唖然としながら、彼の消えた方を眺めていた。

「なんだ、あいつは……」
「宗盛兄上。恵子殿の陣痛が始まったのは、いつ頃ですか?」

 宗盛を見上げて重衡が問うと、彼は「いつ頃かって?」と髪を掻き上げながら、息を整えるために深呼吸をした。

「かなり前だ。早く父親を呼べと言ったのだが、お前たちの姿が見あたらなんだ。もう、焦った焦った。父上も重盛兄上も経子殿も総出で駆け回ったぞ」
「も、申し訳ございません」
「外を探している最中、なんとなくここにいるような気がして、急いで牛車で飛んできた。ああ? あいつ、走って六波羅まで行く気だろうかね。知盛ならば難は無いだろうが……まったく。
 しかし、恵子殿、難産ではなさそうだったから、着いた時にはもう生まれているだろうな。はあ……」
「……」

 兄がなぜ市場に行くということを誰にも伝達していかなかったのかは、知盛の買い物の内容を考えればすぐに分かる。子どものための玩具を買いに行くなど告げるのは、彼にとっては照れくさいことだったのだ。
 重衡は、知盛に「ついて来るか」と言われて単純に「行きたい」と答えただけの弟、兼、荷物係である。

「……あのう。すみません、兄上」

 兄よりは体裁を気にする重衡は、とりわけ兄の振る舞いのせいで、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

「ん?」
「誰かに言い付けておくべきでした」
「重衡……」

 兄に持たされた箱を両手に抱えたまま、しゅんとうなだれる重衡を見て、宗盛は苦笑した。

「お前は兄の巻き添えを食らっているだけだろう。可哀想にな、いつも知盛に振り回されて。
 ほら、持つぞ」

 ひょいと重衡の荷物を持ち上げ、宗盛は、「これは一体なんなのだ?」などと首をかしげながら、踵を返した。

「さて、とにかく我々も急いで戻ろう。重衡、お前も私の牛車に乗って行くがいい」
「は、はい」