従者に木箱を預けたあと、中門で靴を履こうとしていると、ひとりの女性が衣の裾を床板に擦らせながら望美の方に向かってきた。片足が靴に半分入った状態のままで、そちらを振り返る。望美を見送りに来た知盛も、驚いた表情になった。

「恵子?」

 けいしと呼ばれた女性は、知盛の横まで来ると、ちらりと彼に視線をやり、

「ご挨拶したいのだけれど、よろしいかしら?」

 首をかしげながら、にっこりと笑った。下瞼が上がるような笑い方なので、とても愛嬌がある。黄金色の髪を持つ、色白な美人で、この時代の女性と比べるとかなり背が高く、知盛と並んでも凸凹が少ない。

「挨拶?」

 恵子の言葉に、尋ねられた知盛は訝げにしたが、恵子は「挨拶くらいかまわないでしょ?」と、強引に知盛の前を過ぎた。

「あなた、春日の姫君と呼ばれている方よね?」
「えっ、は、はい」

 望美は、とりあえず靴を脱いで、床に上がり、彼女に向き直って姿勢を正した。すると、恵子は上から下まで望美を眺め、なにやらふんふん言ってから、がっしりと望美の両腕を掴み、

「まあ、可愛い!」

 と、花が咲いたような満面の笑顔になった。

「こんな可愛らしい子が剣の稽古をしているなんて、意外だわ。もっと無骨な女性なのかしらと思っていたけれど、もう、本当に姫君じゃないの」
「えっ、え」
「あなたずいぶん薄着ね。もっと綺麗なものに召し替えたらどう? そうね、黄檗色の衣なんていいかしら? うーん、でも、少しくどいかも」
「あ、あの」
「あら、紅梅色の髪なのね? 珍しいわ。この辺ではあまり見かけないのよ。異国から来たんでしたっけ。髪が紅梅なら襲色目では雪の下という感じかしら? この襲は冬のものだけれど。そうそう、名前はなんていうんでしたっけ?」
「えっと、望美です」
「変わった名前ね。でも、とても美しい名だわ。私は恵子というのよ。恵むという字を遣うの。一応、この方の妻なの」

 知盛を振り返って、うふふ、と笑う。弾丸トークの末、いきなり話を振られた知盛は戸惑ったらしく、片手を中途半端に上げたまま、首をひねった。

「恵子……」
「まあ! 知盛さまってば、髪に葉っぱがついていますわ」

 足早に知盛に近づき、ぱぱっと手で葉を払う。恵子の身長だと、知盛の頭の先まで目がいくらしい。髪のゴミを取ったついでに「あら、お召し物が着崩れしてますわ」とシャキシャキ衣を整えていく恵子を見下ろす知盛は、望美がいまだかつて見たことがないほど困惑している。

「まったくもう、知盛さまは容姿端麗ですのに、ご自身ではこういうところに目がいかないんですのよ。きちんとしていればどこから見たって完璧ですのに」
「……恵子」
「ああ、そういえば聞きましたわ。この前のお花見で、重衡さまを代役にされたとか? 歌合わせで人数を揃えなければならず大変だったとおっしゃってましたわ。もう、知盛さまだって和歌はお上手ですのに、どうして出席されないの? もったいないわあ」
「恵子、お前、なぜ」
「この方にお会いしたかったの」

 くるりと身体を回転させ、今度は望美を向く。望美がきょとんとしているのを見て、恵子は口元に袖を当てると、

「あらやだ。ごめんなさいね、私ってば、ちょっとお喋りなの」

 頬を赤らめて笑った。望美よりずっと年上のはずだろうに、なんだかとても可愛らしい。望美も、つられて顔をほころばせた。
 そのとき、呆れ顔になっていた知盛が、恵子の肩に手を置き、短く言った。

「恵子。戻れ」

 声音に凄みがあったせいか、恵子は知盛に振り返り、今度は悲しげに眉を八の字にしてみせた。

「まあ、もう?」
「こいつは帰るんだ。従者も外で待っている」
「そうね……ごめんなさい」

 先ほどとは打って変わった落ち込んだ表情を見て、望美は慌てて「かまいませんよ」と言おうとしたが、知盛は彼女に引っ込んでもらいたいらしいので、自分が引き留めるのはよくないかと迷い、知盛に目をやり、そこで、望美は唖然とした。

(知盛って、こういう顔するんだ……)

 どうやら、この恵子という女性に、知盛は頭が上がらないらしい。信じられないほど狼狽した様子だった。知盛は嘆息し、恵子の頭を撫でると、中に戻るように促した。恵子が幾分不満の入り交じった顔で見上げるが、知盛は、その表情を見ないよう、さっと視線を外した。見たら負けなのだろう。
 なんだか面白いなあと望美が心で笑っていると、今度はバタバタと大きな足音が聞こえてきた。

「母上っ」

 知盛によく似た風貌の少年――知章である。水色の狩衣を来ていて、手にはなにやら巻物のようなものが握られていた。

「母上! せっかく言仁さまの御所から戻られたのだから、もう少しゆっくりなさ……」

 知盛の後ろまで来て、知章は、目をぱちくりさせた。

「春日の姫君?」
「挨拶」

 横から父親に低い声で言われ、知章は、慌てて姿勢を正す。

「姫君、お久しぶりです」
「あ、うん。久しぶり」
「父上も、お疲れさまでした」

 知章が見上げると、知盛は目を笑わせて、息子の頭を大きな手のひらで撫でた。予想だにしていなかったらしい知章は、びっくりしたように目を丸くして、頬を染めた。
 そのとき、また別の子どもが、ととと、と小さな足音を鳴らして走ってきた。

「ははうええええ」

 両手を突き出して転びそうになりながらこちらへ来るのは、まだ三、四歳くらいの幼い男の子だった。母上とは恵子のことだろう。母親が恋しいのか、泣きべそをかいている。
 男の子の銀色の髪と軽い癖毛を見て、望美がもしやと思って知盛を見ると、当人の視線はすでに男の子に向けられており、「おいで」と腰をかがめて両手を差し伸べた。
 男の子はぴたりと足取りを止め、じいと知盛の顔を見て、くしゃくしゃな顔で笑いながら、勢いよく走り知盛の懐に体当たりをした。反動で知盛は体勢を崩しかけたが、後方の片足で踏ん張り、両手で男の子を持ち上げた。

「久しぶりだな、知忠」
「ちちうえええ!」

 首に巻きつくので、知盛は苦しげである。恵子が水干の袖を引っ張って注意するが、本人は全く聞いていないようだ。
 久しぶりだと知盛が言ったので、普段顔を合わせることが少ないのだろうかと望美は思う。考えてみれば、この時代は通い婚であるし、知盛は他の女性の家にも赴かなければならない。それに、重要な地位にいる知盛は、目まぐるしいほど多忙な身だ。子どもに会う時間さえ取れないのかもしれない。

「まったく。お前が来るから、知章も知忠もつられたぞ」
「ご、ごめんなさい」

 恵子が少々焦った様子で知忠を引き離そうとするが、知忠は、小さな手で知盛の髪をがっしり掴んで放さなかった。むやみに引っ張ることができず、恵子はどうしていいのやらと両手を泳がせている。

「でも、でもね、私、どうしても彼女に会いたかったのよ」
「春日の姫君にですか?」

 不思議そうに母親を見上げ、知章が訊く。恵子は頷いた。

「そう。知盛さまがお話になる方がどのような女性なのか知りたくて。言仁さまの御所への出仕が終わったら私、このお邸に戻るでしょう? そうなったときに、望美さんをお招きしたいと思っているの。異国のお話を聞かせて欲しくて」
「あ、それは」

 言いかけて、知章は一瞬口をつぐんだが、知盛が知忠に気を取られているのを確認すると、

「僕も、聞きたいです」

 ぼそりと言った。すると、恵子は嬉しそうに目を笑わせ、知章の頭を優しく撫でた。

「そうよねえ」

 母親にも愛撫され、照れたのか、知章は口元をむずむずさせている。

「ね、望美さん、だめかしら?」

 恵子が不安げに尋ねてくる。よく表情が変わる人だなと感心しながら、望美は、快く頷いた。

「もちろんです」
「本当? 嬉しいわ。お話できたらいいなとずっと思っていたのよ。あ、望美さん、甘いものがお好きなのよね。知盛さまから聞いたわ。唐菓子を用意して待っているからね」
「ああ、もう、そのくらいにしろ」

 知忠を床に降ろし、ぱんぱんと手を叩いて、知盛が呆れた声を上げた。

「明日は陣を組むんだ」
「は、そうだわ。私ってば、望美さんのみならず知盛さままで引き留めてしまった」
「母上、戻りましょう」

 知章が言うと、恵子は「そうね」と真面目に頷いて、知忠の手を取り、望美に頭を下げて、邸の奥へ戻っていった。
 今まで真面目な人間ばかりに囲まれていたが、中には、あのような賑やかな人たちもいるらしい。その事実に何となく嬉しさを感じつつ、彼らのいなくなった方を眺めていると、不意に、知盛が微笑を浮かべて、

「……戦なんて、まるで感じさせないだろう?」

 小さく囁いた。
 いつになく優しげな口調に、望美はいささか驚いたが、すぐに知盛の笑みに応えて、

「うん」

 こっくり首を縦にすると、知盛は嬉しそうな顔をして、恵子や息子たちの声音のする方に穏やかな眼差しを向けた。