数日後、望美は知盛の邸を訪れた。というのは、宗盛が知盛の邸を訪れるという知らせがあったからだ。自分が着く頃には帰ってしまっているかもしれないと不安だったが、宗盛と望美が知盛の邸に着いたのは同時刻だった。どうやら、宗盛が約束の時間に遅れたらしい。
 宗盛は、自分の息子を連れてきた。清宗という、まだ十歳に満たない宗盛の長男である。薄茶色の髪が父親とよく似ているが、性格は、少々異なるらしかった。

「知章っ。とーもーあーきーらー!」

 表門をくぐるなり、大きな声で叫びながら、邸の中に駆け込んでいく。見た目からして知章の方が年上なのだが、呼び捨てもおかまいなしといった様子だ。

「こら、清宗!」

 父親が拳を挙げて怒るが、本人の耳には全く入っていないようだ。知章を探し、邸の中を走り回る。騒々しさに、知盛がなんだなんだと奥から中門廊までやってきて、邸に到着している宗盛の姿に気付くなり、「ああ」と微笑を浮かべた。

「清宗殿ですか」
「騒がしくしてすまん。知章殿と手合わせをしたいと聞かぬで」
「いえ、知章も喜ぶでしょう。兄上もご足労いただきありがとうございます……」

 ふと知盛が望美を見やる。顔に笑みを宿したまま、首を傾けた。

「春日の姫君?」

 なぜここにいるんだという問いかけである。事前の知らせもなく、突然押しかけてしまったのだ。

「あ、あの、ごめんなさい、勝手に来ちゃって。ここに宗盛さんが来るって聞いたから」
「私ですか?」

 宗盛も、意外そうに望美を見る。望美はもごもごと口の中で言葉を探したが、頬が熱くなってきて、そのうちうつむいてしまった。
 もともとは、宗盛に色々と話を聞いてみようと思い、直接、彼の邸を訪ねるつもりだったのだが、勇気が出なかった。一度話したことがあるだけで、宗盛がどのような人物か把握できていなかったし、貴族でも何でもない望美に宗盛が会ってくれるかどうか分からなかったのだ。
 「宗盛さんに会いたい」という旨を伝えていた清良の邸の舎人が、たまたま宗盛が知盛の邸に向かうという情報を仕入れてくれて、この機会を逃すわけにはいかないと牛車に乗ってやって来たのだが、少々、向こう見ずだった。
 帰った方がいいかなと落ち込んでいると、見かねたらしい知盛が、溜息混じりに声をかけてくれた。

「まあ、いい。ただ、邪魔はするなよ」

 知盛の言葉に、望美は顔を上げる。

「いいの?」
「兄上に訊け」
「あの、いいですか?」

 望美が懇願の瞳で宗盛を見やる。宗盛は、事情がよく呑み込めないといった感じだったが、引きつった笑みを浮かべると、

「あ、ああ……?」

 と、承諾してくれた。





 知章と清宗は、邸の中庭で手合わせを始めたらしい。
 知盛と宗盛、そして望美の三人は、中庭の少年たちの様子を見守りながら、寝殿の南廂に座っていた。
 しばらくの間、宗盛は喋らなかった。いまいち顔色が冴えず、口を開きかけるのだが、何やらためらうらしく、また閉じてしまう。望美が心配して顔を覗き込んだりするのだが、宗盛は苦笑するだけだった。知盛は、そんな兄の気持ちを察しているのか、自分から何かを言うことはなかった。
 だが、手合わせを受けている自分の息子が木刀を地面に落としたとき、その表情を一気に苦々しいものにして、

「すまん……!」

 と、知盛に対して謝った。

「法皇の一件は、全て私のせいなのだ。どんなに父に掛け合っても、事を止めることはできなかった。やはり、私は重盛兄上にはなりきれぬ。兄上ならば、法皇さまを鳥羽殿に閉じこめる真似など、やろうと思ってもできなかっただろう」

 両手を握り締め、唇を噛みながら、宗盛はうつむいた。

「私は、なんと無力なのだ」
「兄上。あまりご自分を責めぬよう」

 知盛は、笑みを消してはいたが、いつもと変わらない冷静さで宗盛に向き合っている。

「私は、法皇になんということを……。我が息子の清宗が、幼少の頃どれだけ法皇に可愛がられていたことか。父上は、それを知っておきながら、私に命を下されたのだ」

 正座をして黙っていた望美は、宗盛の苦渋の言葉に、思わず声を漏らした。

「ひどい……」
「私は、その命さえ振り払えなんだ。なんという不甲斐なさよ。今も父上にお心を変えていただくよう掛け合ってはいるのだが、頑として聞き入れてくださらぬ」
「父上は……」

 知盛が、その表情にゆっくりと影を落とす。

「今の天皇を引きずり降ろすおつもりでしょう」
「そうだ。より早い時期に言仁さまを即位させるために」
「ときひと?」

 聞き返したあと、邪魔をしてはいけないということを思い出し、望美は慌てて口を閉じた。
 知盛は目だけを望美に向けて、ふっと笑みを浮かべると、低い声で、

「言仁さまは、今の高倉天皇の第一皇子だ。俺の妹、徳子の息子でもある」

 と、説明してくれた。しかし望美は目線を上にしながら、うーんと唸ってしまう。

「えっと……」
「父上の孫だよ。清盛公は、言仁さまの祖父として政権を握るつもりだ。言仁さまは、まだ二歳だからな」
「え、でも、言仁くんのお父さんの高倉天皇は、法皇さまの息子だよね? そうなると、言仁くんは法皇さまの孫でもあるんじゃ……あ!」
「そうさ。だから父上は後白河法皇が邪魔なんだ。法皇を幽閉して院政を止め、高倉天皇を引きずり降ろし、自分の孫である言仁さまを天皇として即位させれば、都の政務は父上の思うままだ」

 知盛の確信を持った言葉に、聞いていた宗盛は、力無くうなだれた。

「父上……。我が一門のためを思ってのことだろうが、恩を仇で返すようなことばかりなさる」
「万が一天皇側につくような真似をすれば、我々もことごとく首を切られるでしょう。我々が甘い汁を吸えるのも、父上のおかげだ。父上は、平家のことをいたく愛しておられる。あくまで勢力を保ちつつ、父上の振る舞いを抑えることが、我々にできる唯一のこと……」
「だが、現に源氏や藤原氏が動き出しているだろう」

 宗盛が、知盛に視線を向けた。その両目は鋭い。

「おそらく、この一件で戦が起きるな」
「でしょうな」
「え、戦?」

 ぎょっとして望美が聞き返すと、知盛は不敵な笑みを浮かべたまま頷いた。

「法皇も天皇家。我らが平家一門と互角に張り合えるような後ろ盾はついている」
「戦って、誰が起こすの?」
「鼠は多すぎて把握しきれぬ」

 クツクツと喉の奥で笑いつつ、知盛は懐から蝙蝠を出した。

「平家は、疎まれることが多いのだよ。天皇家の近辺が仕掛けてくるのは間違いないだろうが、必ずしも藤原氏が企てるわけではない。天皇家の周りには、父上に恨みを抱く源氏がうようよしているからな。今回のことで、天皇家を使い、打倒平家を考える者も出てくるだろう」
「それって、事前に防ぐことはできないの? 戦が起こるだろうってことを分かっているなら、無理して天皇を仕立て上げなくても」
「父上も承知の上さ」

 パッと蝙蝠を開き、含み笑いの浮かぶ口元を隠す。

「逆らう者は潰す、欲しいものは手に入れる、戦には勝つ。
 父上は、何事にも勝つつもりでいるのだよ。だからこそ、平家はここまで栄えた。己に自信のない者が、世を統括できるまで上りつめることなど、できはせん」
「でも、宗盛さんだって、やりたくないことをさせられたんでしょう? 自分の子どもの意志を無視してまで、平家の力を強くする必要なんてあるのかな」
「……春日の姫君」

 ふと、宗盛が憂いのある瞳で望美を見た。宗盛は悲しげな笑みは、まるで平家の陰湿な策謀などには似合わない。

「父上が一門のことを想うように、我々もまた、一門のことを想わなければならないのです。知盛が言うとおり、我々は父上のおかげで官位を手に入れることができたし、一族もその恩恵を受けて、より良い暮らしができるようになった。私の苦しみなど、物の数にも入らないのかもしれない……」
「そんな。だって、清宗くんは法皇さまにお世話になったんでしょう?」

 望美が言うと、宗盛は一瞬苦しげな表情になったが、すぐに苦笑に変えてみせた。

「確かに、我々にとって、力を持つ天皇家は相容れぬ存在。共に世を治めていこうというには、互いの力は大きすぎる。全体を見通して考えなければ、我々子孫が平家を引き継ぐことは不可能なのかもしれません」
「平家は、他との共存を望まないのだよ」

 知盛が、蝙蝠を望美に向けながら、強い口調で言った。その態度からは、何かを憂うような様子は見られなかった。もはや知盛は、平家の志を受け入れているようだった。息子という立場として、受け入れざるを得なかったのかもしれない。あるいは、誇り高き平家一門の血を強く受け継いでいるからか。
 平家は、他との共存を望まない。それはすなわち、彼らの父である清盛が、他との共存を望まないということである。

「我々は、平家の栄華を守るのみ」

 知盛は、宗盛を諭しているらしい。年の離れた兄弟だが、平家として確立した信念を持っているのは弟の方なのだろう。
 知盛の言うことも、望美には理解できる。彼も清盛と同じく平家を守りたいのだ。だが、平家には敵が多いのだろう。自分の地位や家族を守るためには、横暴な振る舞いすることを、自分に許さなければならないのかもしれない。
 しかし、宗盛は、知盛とは違うようだった。

「私は、父上に、法皇を鳥羽殿から出してくださるよう頼み続けることにする。やはり、天皇家の力を侮ってはいけない。戦は、できるだけ避けねばならぬ」
「……」

 宗盛の言葉に、知盛は何も言わず、蝙蝠で自分の顔を覆っていた。だが、冷たい瞳で兄のことを眺めているのを、望美は横から見てしまった。

(……恐い)

 望美は黙りこくってしまったふたりを見比べながら、どうすればいいのか分からずにいた。
 すると、中庭の方から、

「この無礼者っ!」

 という、知章の大声が聞こえてきた。視線をやると、知章が、顔を真っ赤にして、地面に尻餅をついた清宗に、なぜか木刀の切っ先を突きつけていた。

「喧嘩か?」

 知盛が、目を細める。宗盛も息子が劣勢な立場にあるせいか、腰を浮かせて心配そうな表情になった。
 望美は立ち上がると、簀子に出て、欄干に身を乗り出した。

「どうしたのー?」

 叫ぶ。すると、知章が堰を切ったように、

「我が父の二刀流は、我ら平家一門を守るために父上が会得したものだ! それを……それをずるいなどと!」

 吐き捨て、眉を引き上げる。どうやら、清宗が、知盛の太刀について何かを言ったらしい。清宗は、自分の前で荒々しく叫ぶ知章に少々驚いていたようだったが、そのうち鼻で笑った。

「ずるいじゃないかよ。一本でも充分強いんだろ? お前の父上は」
「清宗!」

 宗盛が腰を上げて叫ぶ。

「清宗、お前、年上の者にそのような言葉遣いをするでない! 知章殿は、お前の我が儘に付き合ってくださっているんだぞ。身の程をわきまえろ!」
「だって、卑怯じゃないですか! 普通、武人はひとつの武器で堂々と戦うものです。相手に斬り傷をふたつもつけるなんて、信じられない」
「清宗!」
「ふはは……」

 話題になっている当の本人は、蝙蝠を上下させながら、可笑しそうに笑っている。

「清宗殿は、年齢に似合わず流暢な言葉を遣われますな」
「すまぬ、知盛。まだあいつは戦の意味を分かっておらん」
「かまいませんよ」

 ぱちんと蝙蝠を畳むと、知盛は立ち上がり、望美の側に立った。そして微笑を浮かべて、知章の名を呼んだ。清宗の前に佇む知章はびくりと肩を震わせ、こちらにを向き直り、姿勢を正した。

「お前の父は、ずるいのさ」

 口元に蝙蝠を当て、知盛は、静かに言った。

「そもそも、太刀は二本使うものではない。俺は、単に好きで二本使っているだけだ。理由は、戦っている最中に相手に隙を与えないため。それは、誰かを守る、守らない以前の話だ。第一に大事なのは、我が身よ。
 我が身も守れぬ人間が、人を守れるわけがない」

 望美は、知盛を見上げた。知盛は、先ほどと同じような表情で息子を見ていたが、その瞳は徐々に鋭い光を帯び始めていた。

(ああ、これは)

 稽古中の彼を思い出す。

(武人の平知盛だ)

 知盛は、貴人たちの中にいるときは、とてもおとなしい男だった。歌や舞の集まりや宴の時などは、自分は積極的に参加せず、ひとり黙って酒を飲んでいることが多いらしい。望美は、直接見たことはないのだが、弟の重衡から「兄の代わりに喋らされた」という愚痴を聞かされたりするので、知盛はそういう性質の人間なのだろう。文官がやるようなことは、知盛にとって退屈なのかもしれない。
 しかし、戦の話になると、知盛の顔は変わった。瞳には不思議な光が宿り、浮かべる笑みが深くなる。心の奥底で何かが煮えたぎっているような、武器を手にしたくてうずうずしているような、そんな感じになる。その態度を大げさに表に出したりはしないが、周りの人間に「獲物を狙っている獣のようだ」と言われたとき、知盛は否定しなかったらしい。確かに、知盛がいつも浮かべている微笑は、決して優しいものではない。何かを企み、それを心の奥底に秘めているようにも見える。

「し、しかし……父上が太刀を持って戦うのは、平家一門の誇りを……」
「無礼者はお前だ」

 急に冷酷な形相になり、知盛は、閉じてある蝙蝠をびしりと知章に向けた。

「初陣を迎えたこともない人間が誇りなどと口にするな」

 知章は身体をこわばらせて押し黙った。地面に尻をついたままの清宗も、知盛に圧倒されて何も言えないでいる。それは望美も宗盛も同じだった。

(……やっぱり恐いよう……)

 知盛の顔を見ていられなくなった望美は、ぎゅっと目を閉じ、冷え冷えする空気が去ってくれることをひたすら願った。