重盛が亡くなってから、数ヶ月経った。
 その数ヶ月は長いようで、あっという間だった。その間、望美は剣の稽古をしたり、都をぶらついたり、町の人と話をして、この時代の人々の暮らしぶりを観察していた。元の世界へ帰る方法も探していたが、今のところ何の手がかりも掴めなかった。
 外の様子はといえば、夏の面影はどこへやら、木の葉は紅く染まり、風が冷たくなってきていた。着込む衣の枚数も多くなっているようで、女たちの容姿が、夏よりも少し大きく感じられる。望美の世界に比べると、こちらの世界の風は切るように冷たく、何枚重ね着しても肌がピリピリするほどだった。

「ああもう……寒いよう」

 望美は、小さな火鉢を自分の方に引っ張りながら、清良の邸の母屋でうずくまっていた。頭に着物を被り、寒さをしのいでいる。
 近くで読み物をしていた清良が、顔を上げて、くすくすと笑った。
 清良は、望美のひとつ年上の男だった。好んで淡い色の直衣を着ていたので、望美の中には、なんとなく色素の薄い印象がある。
 この世界に来たとき、望美は、清良の邸の庭に気を失って転がっていた。見慣れない剣も望美の側に落ちていたので何事かと思ったらしいが、清良は人がいいのか警戒心が乏しいのか、不審者だと言って突き出すようなことはしなかった。目覚めた望美が右も左も分からないことを悟ると、清良は、自邸で望美の面倒を見ると言い出した。望美にとっては都合が良かったが、あまりの展開の早さに、何か企みでもあるのではないかとさすがに清良を疑ってしまった。とはいっても何も悪いことはしないようなので、望美はすっかり彼の家に馴染んでしまっていた。
 清良の氏は、安藤という。聞けば、親戚は、陰陽道に携わる家系らしい。

「望美は寒がりだね」

 面白がるような清良の言葉に、望美は口を尖らせ、半眼で振り返った。

「だって、こんなに寒くないでしょ、普通」
「そう? そろそろ雪が降り始めるんじゃないかな」
「これ以上寒くなるなんて、やだよ」
「望美の世界は、もっと暖かかったの?」

 清良は、望美が別の世界から来たということを一応信じてくれているらしい。ちんぷんかんぷんな事ばかり言う望美を見ていれば、嫌でも信じざるを得なかったのかもしれない。

「寒いっていえば寒いけど、エアコンやストーブがあったし」
「?」
「ほら、前に言った、電気で動くやつ」
「ああ。ビリビリとしびれる、不思議な力のことだっけ」
「そう。エアコンは電気の力で暖かい空気を出すし、ストーブは金属が真っ赤になって」
「稲妻を手に取れるなんて、望美の世界はすごいねえ」

 何やら勘違いをしているようだが、訂正はしないでおく。
 清良は望美の世界に興味があるらしく、何かと説明を求めてくるのだが、説明するのが非常に難しいのだ。こちらの世界の人間には、そういった不思議な力は、陰陽術や呪いといった類に聞こえるらしい。
 再び本を開く清良にほっとしつつ、望美は手のひらを火鉢に当てた。くすぶる炭がパチパチと音を立てている。無言で時を過ごしていると、女房が現れ、折り畳んである紙を清良に渡した。気づいた望美は、火鉢ごと、清良の近くに移動した。

「何?」

 興味津々で覗き込むと、清良は素直に教えてくれた。

「この折り方は、友兼だね」
「ともかね? あ、大学寮に勤めている人だっけ。噂好きの」
「そうそう、噂好きの」

 くすくすと笑い、清良は文を開ける。

「でも、この文は秘密文書だから、他言しちゃだめだよ」
「うん」

 白い紙には、つらつらと墨で文字が書いてあった。筆字を見慣れていない望美には、何が書いてあるのかまったく分からない。代わりに清良の表情を窺っていると、彼の顔が、なぜか曇っていった。

「何か、嫌なこと?」
「……」

 清良は黙ったまま、長い間その文に目を通していた。何回か読み直しているらしい。
 しばらくして、清良は文を閉じ、深く息をついた。

「参ったね」
「何が」
「清盛公が、天皇家で面倒を起こしたらしい」

 言いながら、清盛は文を火鉢の中に投げ入れた。友兼という男からもらった文は、こうしなければならないようだ。

「清盛さんが?」
「うん」

 火鉢に立てかけてあった火箸を持ち、紙が燃えるようにつつきながら、清良は頷いた。

「後白河法皇を幽閉したらしい」
「どこに?」
「鳥羽殿。京の郊外さ」
「じゃあ、内裏にはいられないってこと?」
「うん」
「そんなことしたら、仕事ができないじゃない」
「できないだろうね」

 清良の口元には苦笑が見えた。

「清盛公は、とうとう天皇家の権力を奪ったのさ」
「奪った?」
「しかも、後白河法皇の側近たちの官位まで奪い取ってる。そこまでやらないと気が済まないみたいだ。
 清盛公は、後白河法皇が邪魔なんだよ。後白河は、法皇になっても――つまり、天皇を引退した後でも、権力を行使し続けたからね」
「でも、だからって幽閉することはないじゃない」
「そうでもしないと、法皇側の人間が反発するだろう? 側近を降格させたのも、そのせいさ」

 茶色くくすぶった紙は、小さな炎を上げて灰になっていった。

「清盛さんは……」

 望美はうつむき、床にのの字を書いた。

「そんなにまでして権力が欲しいのかなあ」

 清良は意外そうに目を丸くした。

「望美の世界は、違うの?」
「違うっていうか、権力欲しさに人を幽閉したりとか、そういうひどいことはしないよ。
 ……でも」

 もしかしたら、自分は知らないだけなのかもしれない。人間が力を欲すること、力を奪いたくなること、そして、手に入れた力を使いたくなること。なぜ天皇側と平家側が不仲なのか、望美にはよく分からないが、どちらも相当な力を持つことは知っている。強大な力は、ふたつも要らないのだろう。

「法皇さまを幽閉したのって、誰なのかな」
「宗盛殿さ」
「……え!?」

 伏せていた顔を上げ、望美は目をしばたたかせた。頭に被っていた衣が、床にずり落ちる。

「宗盛さんが?」
「当然。清盛公が直接命令を出すのは、亡き重盛殿の代役である宗盛殿に対してだろうね」
「そう、なんだ……」
「嫌だったろうね、宗盛殿は」

 清良の言葉を聞いた望美の中に、沸々としたものが沸き上がった。
 清盛は、なぜそこまでして力を得たいと考えるのだろう。充分すぎるほどの領地を手に入れて、ありとあらゆるものを支配しているというのに、息子たちの意見を無視し、己の策に巻き込んでいる。嫡男である重盛でさえ、病で倒れて死んでしまった。それは、少なからず平家一門を支えるうえでの苦労が、身体に支障をきたしたためでもある。重盛は、ある意味、平家一族の犠牲だった。
 平家が栄えるのは良いことだろう。幸せになるためには、犠牲が必要なのかもしれない。しかし、栄えすぎればどうなるか、遠い次元の彼方から来た望美には、彼らの行く末が分かっていた。
 望美は、奥歯を噛んだ。

「清良。私、今度、宗盛さんのところに行きたい」

 清良が、ぽかんとして望美を見る。

「望美?」
「私に、何ができるか分からないけれど」

 この世界に来たとき、望美の側には白く輝く剣があった。なぜ自分のもののように剣があったのかは分からない。だが、この世界に呼ばれたのには何か理由があり、剣は、何かを為すためにあるのだろう。
 平家と源氏など、遠い昔の出来事で、自分には関係がないと思っていた。

「何もできないかもしれないけれど……」

 自分が歴史を変えられるなどとは思っていない。まともに剣など振るえない自分に成せることなど、数えるほどもないだろう。
 それでも。

「私にとって、平家の人たちは大事な人だもの」

 平家の中の歪められた何かを変えたい。
 滅び行く定めである平家をただ黙って見ているのは、嫌だった。