すっかり夜も更けてしまった頃。

「知盛は、敬遠しているんだよ」

 女房が運んできた白湯を口にしながら、重盛がふと呟いた。渡殿の欄干に両腕を置き、夜の庭の様子を一緒に眺めていた望美は、隣にいる重盛の顔を見上げて、小さく首をかしげた。

「敬遠?」
「ああ」

 顎の細い顔には、不思議な奥深さを感じさせる微笑が浮かんでいる。重盛は、人前では常に笑みを絶やさない男だった。誰にでも好感を持たせる長所ではあるが、逆にそれがうさんくさいと陰口を言う輩もいたようだ。実際、重盛は相当な策略家なので、笑みによって隠す腹の内もあるのかもしれない。
 彼らが渡殿にいる理由は、妻を持つ男が下手に邸内に関係のない女性を連れ込むことができないためだ。勘違い、つまるところ女の嫉妬を生まないためにも、いつも入り口付近の渡殿で話をしていた。白湯を持ってきた女房が身体を冷やしますと忠告したのだが、重盛は「残念だが、ここでいい」と言った。望美も邸の主に従うほかない。まだ冷え込む季節ではないので、風の通り道である渡殿にいることは、それほど苦にはならなかった。
 重盛は、白湯の入った湯飲みを手すりの上に置いて、目を伏せた。

「私に気を遣っているのだろう、知盛は。本当ならば、平知盛という男は、もっと余裕のある情熱的な男だということを、私も知っているのだよ。噂に聞くんだ、知盛ほど優美で謎めいた、しかし闘志を持った男は他にいないとね。だが、知盛が実際にそれを表に出す相手は決まっているらしい。私の前では、知盛は、なかなか素直にならんのだよ」
「ふうん」

 望美は、重盛の話を聞きながら、欄干に肘をついて、目前に広がる庭を見ていた。夜の闇は深く、少し離れた場所には巨大な池があって、その黒い水面には、欠けた月がゆらゆらと映り込んでいた。

「そうなんですか」
「望美さんも気付いたのではないかな? 知盛の、私の前で緊張している感じに」
「うん。なんでだろうって、前から思ってました」
「知盛の物心がついた時からそうなのだよ。可笑しいだろう? まだ十歳にもなっていない子が、失礼なことを言ってはならないという顔をして、私の前で背を伸ばして立つのだよ」
「ふふ」
「知盛の下の弟の重衡は、知盛と容姿が似ているが、中身は少し違っていてな。人なつっこい性格をしているから、よく私に甘えてきた。年が離れているせいもあるだろうが、知盛がどうしてそんな態度を取るのか分からないという顔をしながら、兄の前を通り越して、私にひっついてきたりしてね。
 知盛は、私の前では緊張しっぱなしで、そのうえ無口になって何も語らないから、私は嫌われているのかと思っていたのだ」

 苦笑しつつ、肩をすくめて、重盛は望美を見やった。

「どうだろう、望美さん。あなたには、知盛はどう映るかな?」
「私? 私は、普段あまり会うことはないけれど、平家の人の中では、知盛さんと喋る方なのかな……うーん。
 けっこう真面目な人かな?」
「真面目。そうだな」
「知章くんがいるときは、お父さんって感じ」
「ああ。知盛は子煩悩だと聞いたよ」
「知章くんも、厳しいけど優しいお父さんだって言ってた」
「それはよいことだな……」
「でも、普段は、重盛さんの前にいるときのような態度は取らないかもしれません」

 望美の言葉に、重盛は、諦めたような溜息をついた。

「そうか……そうなのかもしれんな。
 実はね、知盛が一度だけ、私の前で感情をあらわにしたことがあるのだよ」
「そうなんですか?」

 重盛は、遠い目で庭を――おそらく庭のずっと向こうの目には見えぬところを――眺めながら、低い声で、

「私は、過去に何度も悲惨な争いに出向いた。数えてもきりがないくらい、人を斬ったしね。すると、清盛公や私を恨む者が大勢出てくるだろう。時折、捨て身で押しかけてくる者がいたものだ。大抵、手前で捕らえられてしまうのだが、私は、できるかぎりその者たちの言い分を聞こうと思っていて、彼らのもとに赴いた。無論、相手の口から出てくるのは、平氏への罵言ばかり。時には、近しい血の者を相手にすることもあったが、ま……父の言いつけ通り、最終的には手にかけるほか無い者たちだ。
 ……」

 重盛は一度唇を閉じ、少しの間、何かを考えるような素振りを見せたあと、再び続けた。

「一度、知盛が……その頃、齢十五とかそのあたりだったような気がするが……私が牢に出向いたとき、私にくっついてきてな。私は断ったのだよ。しかし、兄上が為していることは全て把握しておきたいとか何とか真面目くさったことを言いながら、無理矢理ついてきてね。いつも通り、私は牢の前で散々相手に罵られた。相手だって必死さ、これから死ぬのだから、言いたいことを言ってしまおうとね。すると、滅多に私の前で表情を崩さなかった知盛が、顔を真っ赤にして半泣きになりながら、わなわなと怒りに震えていたんだよ。
 どうしたと私が問いかけたのだが、本人の耳には全く入っていない様子だった。そのうち、牢に捕らえられている者が、私ではなく知盛に向かって言ったのさ。そんな兄君を持って恥ずかしくはないのか、と。
 すると、弟は、我を忘れて、まくし立てるように言ったんだ」

 “俺は兄上を尊敬している”。

「……」
「なあ? 初めて兄に向かって暴露した心の内が、この言葉さ。
 私はいささか疑問に思ったが、同時に納得もした。もともと分かっていたんだ、弟に敬遠されているということを。しかも、恐ろしいほどの謙虚さで」

 重盛の少し笑い出しそうな口ぶりに、望美は黙っていたが、そのうちに手すりに両手を引っかけると、腰を引き、ぶら下がるような姿勢を取って、口を尖らせた。

「意外〜」
「ふふ、そうだろう? 普段の彼からは想像つかないのだよ。知盛自身はそのことを兄弟や親戚に隠そうとはしているらしいが、まだまだ幼いな」
「なんとなく分かったけど、本人の前ではカチカチになるくらいお兄さんを尊敬してるっていうのは、なんでなのかな?」
「さあ、なぜだろうね。私のことが苦手なのかな」
「苦手? うーん、そういうわけじゃないと思うけど」

 そのとき、暗い廊下の奥から女房が現れ、重盛の白湯を取り替えに来た。ついでに望美も白湯を勧められたが、断った。
 再び沈黙が降りると、重盛は、静寂に耐えきれなかったように、ふふっと吹き出した。

「まったく、一体なんなのだろうな。いつまで経っても、あの調子なんだよ」
「でも、私はちょっと分かるような気がします」
「そうかい?」
「うん」

 望美は、ふと月を見上げた。

「重盛さんは、すごい人なんでしょ? 強くて格好よくて頭もいい、誰よりも都の気持ちを分かっている人だって聞きました」
「へえ……誰がそんなことを言ったんだい?」
「みんな」
「みんな?」
「うん。平家の人たち、邸に仕えている人たち、知り合った町の人たち……」
「……」
「みんな、同じこと言ってた」

 今度は少し身を乗り出して、指先で月の形をなぞってみる。

「私ね、思ったんです。重盛さんは、みんなに好かれているんだなって。それは、重盛さんがみんなのことを考えて、みんなのことが大好きだからなんだろうなって」
「……」
「うらやましいです」

 望美は、欄干から身を乗り出したまま、重盛を振り返った。重盛は、ぼんやりと庭を眺めている。その表情は柔らかかったが、どこか悲しげで、望美は続きを話すことを少々ためらった。

「……知盛さんや、重衡さん。知章くん、重盛さんの奥さん、清盛さん、みんな。
 こんな素敵な人が、たくさんの人の気持ちを考えてくれる人が、そばにいるんだもの。知盛さんが緊張しちゃうのはもったいないけど、当然のことかもしれません。知盛さんは、重盛さんのことが大事で、きっと大好きなんだと思います」
「そう、かな」
「うん」

 重盛の表情は、ほとんど無に近いものだったが、どこか泣き出しそうにも見えた。望美は、それ以上、後を続けることをやめにした。長らくの寂が続く。重盛の邸の者たちは静かで、物音一つ立てず、虫の音だけが辺りに響いていた。
 そのうち、重盛の深い紺碧の瞳が、望美に向いた。

「望美さん」

 どことなく緊張した雰囲気を感じ取って、望美は手すりから少し離れ、背筋をしゃんとした。

「はい」
「私には……子どもが、何人かいる。皆、とても大事な子どもだが、その中に、嫡男という立場を背負った者がいる。私が清盛公の嫡男であるように。
 惟盛という、妻も子どももいる男が、私の大切な嫡男だ。優しい子でね、とても綺麗な子なんだ。あまりに美人だから、光源氏の再来と言われているんだ。親として、誇りに思うよ」
「そう、なんだ。見てみたいな」
「いずれ会えるよ。人当たりのいい子だから、喜ぶだろう。
 前にね。私は、あの子に酷なことをしたんだ」
「酷なこと?」

 うん、と喉で頷く重盛は、悲しげに微笑んでいる。

「今から、少し前のことだ。惟盛を呼び止めて、贈り物をした。一振の黒塗りの太刀をやったのだ。惟盛は、もともと物をねだらない消極的な子だった。最初は戸惑っていたが、それは本当に立派な太刀だったから、やはり嬉しそうでね。その太刀を袋から出して撫でていたんだよ。
 しかし、そのうち惟盛は気付いた。気付いた途端、それを持ってきた従者を睨みつけた。太刀の意味を悟ったんだ。だが、私は言った。持ってこさせたのはその太刀で合っていると。
 望美さんは、この太刀が一体なんなのか分かるかな?」

 望美は、いたずらっぽい目をしてこちらを見てくる重盛の言葉の意味を解こうと思ったが、ほとんど太刀には触ったことがないため分からずに、首をかしげた。
 重盛は、笑みを消し、ゆっくりと目を閉じた。

「それは、大臣の葬式で使う太刀なんだ」

 だから息子は怒ったのだよ、と、重盛は、感情のこもらない声で囁いた。
 望美は、重盛から視線を外し、彼の濃い色の指貫に目を落とした。笑みを失った重盛を見ていられなかった。

「私の父が、もしもの時に、私が着けようとして、持っていたのだが……
 それを……」

 ふと、重盛は言葉を切り、自分の額を片手で押さえた。気分が悪そうに眉をひそめているので、心配して重盛の顔を覗き込む。

「大丈夫ですか?」
「ああ……すまない、大丈夫だ。少し思い出してしまって……」

 重盛は、額から手を外すと、その手を自分の口元に持ってきて、塞いだ。

「私は、言ったのだ、息子に。もし、父より私が先に逝ってしまったら……」

 声が、震えていた。重盛は青ざめ、気分が悪そうに細く長い呼吸をして、息を整えた。

「お前が、それを着けてくれと……」

 重盛は、口を手で塞いだまま、うつむいていた。泣いているのかと思ったが、そうではいないようだった。だが、本当は泣きたかったのだろう。望美がいるから、彼は泣けなかったのだ。望美はこの場を退こうかと思ったが、言葉が出なかった。身体も動かせなかった。
 冷えた空気が二人の間を滑っていった。重盛の細い髪が揺れて、望美の長い髪が、からまるように吹かれた。月の淡い光は重盛の正面を照らしていたが、彼は、暗い色の質素な衣を着ていたので、今にも闇に連れ去られてしまいそうだった。
 その姿は、不吉だった。病気がちで細い身体ならば、強い風に吹かれて折れてしまっても不思議ではないだろう。
 しかし、望美は思った。この人は、やはり違うと。この人は、この世に生きていなければならないのだと。

「最低だな……父親として。私が残酷なことを言ったすぐあとに、あの子は優しすぎる子だから、こらえきれずに泣いて……
 今では、なぜ息子を苦しめるようなことを言ってしまったのかと……」
「……」
「私は……ああ、それでも、我が父より先に逝くのだろう」

 重盛の、その震える呼吸の混じった言葉は、悲しみよりも、自分がこの世に残していくことへの罪悪感の方が強いようだった。彼は、そういう男なのだ。自分のことは第二であり、第一は、自分の愛するものや守らなければいけないものたちが安寧に暮らしていけるように配慮することなのだ。常に弱い者たちのことを念頭に置きながら、障害を取り除き、大勢の人々の安らぎを優先する男なのだ。
 分かるではないか。あの、平家が誇る武将とうたわれる知盛が、彼を敬う理由など。

「私はな、望美さん。息子に、昼であって欲しいと思っているのだよ」
「ひる?」
「ああ。私は、夜だから……」

 重盛は、口を塞いでいた手のひらで、気を取り直すように顔をこすった。

「父が昼で、私は夜だった。私は、父の後ろにできる影法師だった。父は輝きすぎていて、父より強い光になることができなかった。だから、夜の闇となって、父を支えることを選ぶしかなかった。
 闇の役目は、地味で弱い。私が生涯為したことと言えば、父と共に敵の首を斬り、息子と共に敵の背中を引き裂いて、しかしそういった悲しい戦で無駄な血を流さぬよう、暴走しがちな父を止めることだった。矛盾しているよ。皮肉な話さ……
 私は、強すぎる昼の光に負けまいと、影法師となって父が動かぬよう地にへばりついていたが、結局、引きはがされて、光にかき消されてしまうことの方が多かった。
 幾度、夜の来ない世界が訪れたか」

 重盛は、望美から顔を隠すようにうなだれた。

「だから、私の息子たちには、私のように、夜に生きる者にはならぬよう、気高く輝く昼の光になってもらいたい。私のようになってはだめだ。やはり、光に対抗するには、光でなければならなかったのだ。あるいは、光が、その己自身の輝きを分かっていなければならない……」
「……うん」
「昼の光である方がきっと、生涯に得る幸福の数も多くなるであろう」

 その、幸福という言葉が、どれだけ重く、どれだけ遠いものなのか、望美にはまだよく分からなかったが、重盛が何よりも望んでいるものは、一族の輝きなのだということだけは分かった。きっと、幸福などという言葉は、人を殺して力を奪い取るという背景を持つ彼らにとって、あまりに重たすぎて、口に出すことさえためらわれていたのだろう、今の、今まで。
 重盛は、まだ言いたいことはあるが、これ以上話すのはつらいといった様子で、大きく息を吐いた。

「望美さん、すまない。少し身体が痛むよ。休ませてもらおう」
「はい」

 少しふらついている重盛に気付き、腕を支えてやると、重盛はすまなそうに目を伏せた。

「はは……ありがとう。長い間、立ちすぎたかな」
「すみません、なんだか私、あまりいい言葉が見つからなくて」
「いや」

 冷めてしまった湯飲みを片手に、重盛は、望美に背を向けた。

「知盛は、用件を終えたかな。聞いてみるから、望美さんは、申し訳ない、少しの間ここで待っていてくれるかな」
「はい」

 ゆっくりと重盛は歩き出した。もう会話はないのだろうと望美が見送っていると、重盛が渡殿を渡りきった所で立ち止まった。とても緩慢な動作で振り返ると、彼は、望美に静かに尋ねた。

「望美さん。私は、もしかしたら知らないところで周りからの誉れを受けているのかも知れない。だが、実際の私は……戦はすべきではないと考えて、武器を恐れ、何事も勝利を目指す父と反する性質を持つ、情けない男だ。知盛の、弟たちの、そして息子たちの尊敬を得るには、全く足りぬ人間なのだよ」

 表情に影を落として言う重盛に、そんなことはないと望美は首を振るが、重盛は、受け入れがたそうに笑むだけだった。

「ひとつ、訊きたいのだが、いいかな?
 いつか、私が死んだら……」

 本当はこんなことは二度と言うべきなのではないかもしれない、と付け足して。

「弟の知盛は、悲しむかな?
 息子の惟盛は、泣くのかな?
 父は、清盛公は、私の死を悼んでくれるのだろうか」

 微かな音の、しかしあまりに痛切な言葉に、望美は思わず唇を引き締めた。望美も、あと少しで泣き出しそうだった。重盛の口から出る優しい言葉の数々と、彼の抱く深い愛情に胸が痛くて、どうしようもなくて。
 いつの間に姿勢を正していた望美は、真っ直ぐに重盛の顔を見て、真剣に言った。

「そんなの当たり前で、す」

 語尾が震えてしまい、最後の方は、はっきりと言えなかった。自分が泣き出しそうだということを、重盛も悟ってしまっただろう。彼は何も言わなかった。何も言わず、ただ嬉しそうに微笑んでいた。

「そうか……」

 小さく頷きながら、重盛は、小さな涙をこぼしたように見えた。





「……というようなことが、あったんだよ、知盛」

 葬儀の夜、知盛邸に来た望美が彼に話したのは、今は亡き兄に関する知らない真実だった。

「重盛さんは、知盛のことを話すとき、すごく嬉しそうだった……」

 もうすでに床についただろう望美の言葉を思い出しながら、知盛は、呆然とした心地で夜の渡殿に佇んでいた。
 夏の夜風が吹いていた。汗をかいた肌には涼しいが、蒸し暑い季節なので、外での居心地は良くはなかった。早めに自室に戻って着替えた方がいいと思った。
 透き通る月明かりが、自分の正面を照らしていた。自邸の庭には、何者の影もなかった。寝静まる時刻なので、邸の内部にも人の動く気配はなかった。
 知盛は、空を見上げた。漆黒の闇に、気が遠くなるほどの星々が煌めいている。その中に、少し欠けた月があった。きらきらと瞬く大勢の星たちは、か弱い月を守るべく空に大群をかまえている兵士たちのように思えた。
 兄が望美と見たという夜空も、今日の空と同じように美しかったのだろうか。

「……」

 なぜ――なぜ。
 兄が亡くなったというのに、この空は、こんなにも輝いているのだろうか。

「兄上」

 知盛は無意識に呟いた。目の辺りが疼いて、熱くなる。

 “弟の知盛は、悲しむかな?”

「当たり前でしょう、兄上」

 呼びかけに応える尊い人は、もう、いない。