重盛は、贅沢を好まない人だった。
 着物も、食べる物も、調度品も、煌びやかな貴族が要する物に比べれば、彼が選ぶものは、ずっと質素で庶民的だった。衣は柄が少ない仕立てのものを着回していたし、食事は腹八分目で必ず止められる量に調整していて、日常で使う物は、幼い頃から身の回りに置いてきた馴染みの物を壊さないよう、大事に使っていた。贅沢が嫌いだというより、質素な暮らしが好きだったようだ。
 父清盛と相反する部分を感じさせるが、本人がそれを意識していたかどうかは分からない。重盛の生活ぶりは、世間から見て好ましいものだった。重盛は、町の暮らしを見るのも好きだったし、異なる身分の者たちにも優しくし、表向きは散歩という名目で町を偵察しに行って、今の都には何が足りないのか、民は何に困っているのかを把握し、人々の生活を少しずつ良い方向へ持っていこうと努力していた。
 彼は、平穏を望んだ。
 だからこそ、控えめで、万人に好かれる性格だった。
 望美は、時たま、重盛の邸に出かける知盛についていった。重盛邸へ行く知盛の用件が一体なんなのかは知らなかったが、望美が初めて重盛に会ったとき、望美は、なぜかは分からないが、重盛に対して「この人は違う」と感じた。知将であり剣豪である知盛の兄だからか、清盛の嫡男だからか、あるいは噂を聞いていたせいなのか、直感的に平重盛という人間の空気を感じ取ったのか、理由は分からない。ただ、重盛を目の前にしたとき、普通の人ではないと思ったのだ。
 後々考えてみれば、それは決して間違った見解ではなかった。平重盛という男は、穏和で、落ち着いていて、優美を宿す人だったが、厳格で、賢く、己の血筋を誇りとしている気高い男だった。
 重盛は、六波羅小松邸と呼ばれる邸に住んでいた。そのため、「小松殿」だとか「小松内大臣」だとか呼ばれることがあった。それらはあだ名のようだが、望美が人々の話を聞いている限り、こういった俗称が高貴な人物を呼ぶときに必要らしい。
 陽が消えかかる夕刻、知盛は、重盛邸の前に牛車を停めた。六波羅の通りは静まり返っていたが、灯火が多いので平穏だった。夜は暗くて物騒な京の都に比べれば、繁栄期まっただ中の平家が集中している六波羅は、かなり賑やかで安全な区域だった――あくまで平家側から見れば、だが。
 重盛邸の門を抜け、沓を脱いで床に上がると、それまで無言でうつむき加減だった知盛が、顔を上げて邸の奥を見た。薄暗い渡殿の向こう側に、小さな松明を持った男が歩いている。もともとの体型なのだろうか、痩せていて、頬が痩けている壮年の男だった。四肢の華奢さは、今にも折れそうな感じがする。その姿に纏う空気は静まりかえっていて、厳かだ。

「……兄上」

 知盛が低く呼びかけ、頭を下げると、その男――重盛は、薄く微笑んだ。その笑みの深さは、どことなく果てのない深海のようなものを思わせた。

「久方ぶりだな」
「はい」

 重盛は、知盛の顔を見てから、手に持っていた松明を使い、すぐ近くにあった細い灯台に火をつけた。ぼうっという音と同時に、廊下が橙色に照らされる。だが、灯っている灯台の数がまだ足りないらしく、中門廊の片側がぼんやり明るくなるだけだった。
 重盛は、再度、知盛を見た。すると知盛の後ろに別の人間がいるのに気付いて、首をかしげた。

「客人か?」

 重盛の呼びかけに、知盛の背中から、小さな影が戸惑いがちに姿を覗かせた。正体に気付いた重盛は、その人物がおどおどしているのを見て、可笑しそうに、ふふっと笑った。

「望美さんか」

 静かな声で呼びかけられた望美は、緊張して、ぴんと背筋を伸ばす。

「は、はい」
「私と、共に参りました」

 隣に佇む知盛が無表情で言うと、重盛は、ああそうなのかと微笑み、満足げに頷いた。彼は、笑うと目元がくしゃりとなる。痩せていて、皮膚の皺が深いためだろう。その笑み方には、人を安心させる何かがあった。

「ご足労だったな」
「ごめんなさい、勝手に」
「かまわんよ」

 望美の遠慮を全て把握し、それを受け入れる優しさを込めているように、重盛はゆっくりと首を横に振った。
 重盛は、今度は今いた場所と反対側の灯台に火をつけつつ、知盛に近づいた。知盛は、相変わらず微動だにせず、呼吸しているのか疑問に感じるほど静かにしていた。そんな知盛を見て、ああそういえばと、望美は思う。
 知盛は、重盛の前にいると、驚くほど無口になる。あまり表情を表に出さず、ぴしりと姿勢を正していることが多い。その目は兄一点に向けられていて、まるで兄の行動ひとつひとつを見逃すまいとしているかのようだ。今回、望美が重盛に会ったのは三回目だが、一回目も二回目も、おそらく知盛が重盛に会う時はいつもそうで、知盛は、重盛に対し、同じように緊張した態度を取っていた。なぜだろうか。

「しかし、知盛。私は食事を終えて薬を飲んだばかりだ……座談に付き合いたいのはやまやまなのだが」
「いえ」

 知盛は、何か確かめるように、ひとつ呼吸を置いてから、

「いえ、このたびは、兄上の蔵書を拝借したく参りました」

 言いながら、なぜか目を伏せた。
 重盛は目をぱちくりさせて、未だ無表情な弟の顔を眺めた。

「蔵書? 一体何のために……
 まあ、良いだろう。好きにするがいい。希少本が多いので、外に持ち出すことは遠慮願いたいが」
「承知しています」
「案内させよう」

 重盛が後ろを振り向くと、いつの間に待機していた女房が、こちらに、と片手で合図をした。知盛が行こうとするのを見て、隣にいた望美は、この場所に置いていかれても困ると声をかけた。
 知盛は、驚いたように望美を見下ろした。

「姫君……」

 その口調は、望美が近くにいたことを今初めて気付いたようである。

「ああ、知盛」

 知盛を遮り、重盛が、優しい口調で言った。

「望美さんは、私と共に待機させるとしよう」
「ですが……」
「私の蔵には機密もあるのでな。本人の前で悪いが、身内以外の人間を入れるには抵抗があるのだよ。すまないな、望美さん」

 望美は、全くかまわないという意味でかぶりを振った。
 では行こうかと重盛が望美を誘導しようとすると、知盛が、なぜか抵抗するように兄に振り返り、

「兄上、お身体の方は」

 少々必死な様子で言うので、重盛は、困惑した面持ちで弟をたしなめた。

「何をそんなに心配しているのかな? 大人しい姫君と話す方が、まだ身体に楽であろうよ。薬を飲んで間もないときに、武者と、しかも実の弟と、勢力がどうとか戦はどうとかいう堅苦しい話はしたくないのでね」