「はああっ!」

 キィン

 耳障りな金属音が響いたかと思うと、自分の手元から剣が弾き落とされた。

「あっ」

 日の光に照らされて白く光る剣は持ち手を失い、宙を地面と水平に滑りながら、後方の地面に落ちた。腰をかがめて剣を取りに行けるかどうかを考えているうちに、喉元に相手の切っ先が突きつけられる。

「これまでだ」

 声に、望美は相手を睨みつけた。相手の銀色の髪が太陽の日差しに反射して、その顔はよく見えない。おそらく不敵な笑みを浮かべているのだろう。片手を垂らした着物の中に入れ、大した構えもなく佇んでいる姿は、随分な余裕が見て取れる。
 望美の額に、一筋の汗が流れた。緊張からか、それともこの蒸し暑い気候のせいなのかは分からなかったが。

「木刀相手に負けるとは、な。その程度の力量で戦場に出たいなどとほざくなよ」
「くっ……」

 望美が奥歯を噛みしめるのを見て、銀髪の男は木刀の先を望美の前から退けた。気怠そうに木刀の腹を肩に当て、踵を返す。

「素振り千回、追加だな」
「ええっ」

 望美は背筋を伸ばし、信じられないといった声を上げる。男は聞いていないふりをして、鑑賞用の大きな岩の上に腰掛け、持っていた木刀を投げた。木刀はカランと軽い音を立て、剥き出しになっている土の地面に落ちた。
 男は脚を組みながら、にやにやと薄ら笑いを浮かべた。

「だるい……」
「もう! さっき素振り五千回やったばっかりなのに」
「ふふ……」

 男は置いてあった竹筒を開けて、中身の水を口にし始めた。文句の言葉は聞き入れないという合図らしい。
 望美は、自分の剣を拾いながら、ぶすっと口を尖らせた。

「なんでかなあ。いくら振っても当たらないんだもん」
「お前は、刃を恐れているんだよ。俺に当たらないよう気を遣っているらしいが……くく、優しいお嬢さんだ」
「知盛が強すぎるんだよ。右手も左手も使えるんだもん。太刀を持ち替えながらやるなんて、ずるい」
「ずるい、ね……」

 可笑しそうに、知盛が呟く。最初はぶつぶつ文句を言っていた望美だが、彼がこれ以上自分の相手をしそうにないと判断すると、剣を両手に持って素直に素振りをやり始めた。





 蒸し暑い文月のことである。
 その日は快晴で、青い空がどこまでも広がっていた。気温は高く、外に立っているだけで汗が流れ落ちる。庭には青々とした草木が生い茂り、蝉がうるさいくらいに鳴き声を上げていた。
 望美は、平知盛の邸の中庭で、剣の稽古を受けていた。望美が剣を習うときは、いつも知盛のもとを訪れていた。
 知盛は、平家一門の中では卓越した武術を身につけている男であり、一般的なものより少し小型の太刀を両手に持ち、まるで踊るように戦うと言われていた。望美は初陣を迎えていないので彼が実際に戦うところは見たことがないが、剣の相手をしてもらっていると、その腕が確かなものだとよく分かる。練習用の木刀を持っている知盛と真剣で戦っていても、決して彼の木刀に傷をつけることができないのだ。
 とはいっても、彼は無骨な男というわけではなかった。身体つきが特別大きいということもなく、金色の縁取りや刺繍がしてある派手めな着物をすらりと着こなす様は、望美が感心するほど優美だった。男性らしく整った顔は、いつも不敵な笑みを浮かべていて、口数は少なく、何事にも動じることがなかった。低く凛とした声で喋り歌を詠む姿は、女も男も関係無しに思わず溜息をつくほどである。
 望美が見ている限り、平家の者たちからは、戦場の猛々しい雰囲気はあまり感じられなかった。邸の中で宴を開いて、扇と共に舞い、歌を競い、草花を愛でている方が性に合っているようだった。その中で、戦好きで武術に長けている知盛は、特異な部類の人間といえたのかもしれない。
 岩の上で一休みしている知盛の前で素振りを続けていると、邸の中からひとりの男の子が走ってきた。

「父上!」

 少年に呼ばれたのは、知盛である。
 知盛は、竹筒の口を締めつつ振り返ると、

「知章」

 と、いつもと変わらない淡々とした調子で応えた。
 知章(ともあきら)と呼ばれたのは、平知盛の嫡男である。これがまた父親とそっくりな十代前半の少年で、銀髪を持ち、父親とよく似た目つきをしていた。大人になれば知盛と瓜二つになるのだろうと噂されている。父親と同じように、いつも手から太刀を離さないほどの武芸好きだった。
 知章は白い狩衣をひらひらさせながら、父親の前までやって来ると、真面目な顔つきで言った。

「父上、お手合わせ願います」

 知盛は、知章の顔を見ていたが、そのうちすっと笑みを消した。

「挨拶もできぬ男が、何をぬかす」

 知盛の冷たい言い草に、知章の顔がさっと青ざめる。いつも笑みを浮かべているせいか、知盛の真顔は一層恐ろしく感じられた。
 知章は望美に振り返ると、ぶんと思い切り頭を下げた。

「すみません! 春日(はるひ)の姫君。知章です。ご無沙汰しております」
「う、うん。こんにちは」
「お稽古中、失礼いたしました!
 あの、父と手合わせをしたいのですが、少々この場をお借りしてもよろしいでしょうか?」
「もちろん」
「ありがとうございます!」

 頭を上げた知章の紅の瞳が、太陽の光できらりと光る。望美は、彼の強いまなざしが好きだった。思わず微笑むと、知章がきょとんとした表情で望美を見た。

「あの、なにか……」
「あ、ごめんね。知章くん、いつも元気でいいなって思ったの」
「は、そうでしょうか」
「今日も走ってきたの?」
「はい。毎日走っていると疲れ知らずになると父上から教わりました!」

 知盛に振り返り、大きな声で言う。知盛は笑みを浮かべるだけで何も言わなかったが、腰に差している二本の太刀のうち一本の柄に手を置くと、岩の上から降りて地に立った。手合わせを受けてやるらしい。
 望美は素振りをしていた剣を鞘に収め、その場からいったん引き下がった。寝殿の階段に腰かけ、中庭の二人を見守ることにする。

(知章くんには、もう太刀を使ってくれるんだね)

 引き寄せた膝の上にあごを載せながら、望美は、知章をうらやましく思った。





「知章。俺は左手一本でいく」
「えっ……」

 身がまえた知章は、父の言葉に目を丸くした。二刀流といっても、知盛の実際の利き手は右手である。

「……」
「不満か?」
「いいえ。十分です」

 知章は緊張した面持ちで、足下の土を踏みしめた。たとえ左手であっても、知盛が持っているのは本物の太刀だ。油断をすれば斬られるし、知章が両手で柄を握ったとしても、剣豪である男の太刀を止められるか怪しい。知章が刃を剥き出しにしてかまえている今も、知盛は太刀を抜こうとさえしていないのだ。それほど、知盛の剣術は卓越していた。
 しかし、知章も、師匠と仰ぐ知盛から、数々の技を教わったのである。歳の近い者と試合をすれば大抵は勝つことができたし、周りからも「父親を凌ぐようになるだろう」と言われていた。
 知章は、柄を握りしめて狙いを定めると、

「はっ!」

 声を上げて、知盛に斬りかかった。まずは太刀を抜いてもらわなければ話にならない。胸元を目がけて切っ先を前に放つ――が。

「ふん」

 知盛は、余裕の笑みを浮かべて身体を後退させた。ザッと音を立てて、知盛の沓の裏から土煙が上がる。胸元を狙った太刀は空振りになったが、父親の動きなど承知のうえである。そのまま太刀を左側に振りかざし、知盛の右腰を狙う。
 すると、知盛は再び身を翻した。同時に腰から太刀を素早く一本抜き取ると、右手から左手に持ち替え、自分の右半身に当たりそうになる刃を止めた。
 カチカチと、刃が触れ合う耳障りな音が鳴る。知章は両手で柄を握り締めて力を入れているが、知盛は左手のみで、右手は着物の中にだらしなく仕舞われたままだった。どんなに知章が力を入れても、知盛の太刀は動かない。知章の顔が、歪み始める。

「……くっ」
「知章。力が足りんな」

 言いながら知盛が左手を振り払うと、知章は、太刀と共に地面に転がった。

「甘い、甘い……」

 始終、知盛の表情から余裕が消え去ることはない。





「すてき、知盛さま!」
「知章さまも頑張って!」

 いつの間に、渡殿や対の屋から女房たちが顔を出して、興奮した様子で中庭の試合を見守っていた。
 望美の後ろにも女房がひとりやって来て、

「すてきですわねえ」

 と、うっとりとした表情で呟いている。そのうち、我に返ったように望美を見て照れ笑いを浮かべると、盆に載った食べ物を差し出してきた。

「望美さま。唐菓子はいかがです? お稽古でお疲れになったでしょう」
「いいの? ありがとう」

 この世界では、甘味は貴重である。毎日食べられるわけではないので、望美はありがたく受け取った。女房が持ってきたのは、輪の形をした茶色い揚菓子だった。食べてみると、油くさいが、じんわりとした甘味がある。
 花林糖の味を薄くした感じだなと思いながら食べていると、

「私にも一つ、いただけますか」

 低く凛とした声が、背後から聞こえてきた。振り返ると、知盛とそっくりな背格好をした男が立っている。
 望美はもごもごと動かす口を隠しつつ、目を丸くした。

「重衡さん」
「こんにちは」

 にこりと重衡は笑った。
 重衡は、知盛の下の弟である。髪の色や背の高さ、顔立ちが知盛によく似ていた。だが性格は少し違っていて、弟の方が優しく穏やかで話しやすく、非常に言葉が流暢で、少し軟派な雰囲気がある。誰にでも平等に接することもあり、周囲からの評判は高かった。
 重衡は薄紫色の直衣に白い指貫を履いていた。夏だというのに、どこか涼しげな印象を与えてくれる男である。

「兄上と知章殿は、稽古中ですか」

 言いながら、望美の隣に座る。

「いただいても?」
「あ、どうぞ」

 望美が差し出すと、彼は紙の上から唐菓子をつまみ、ひょいと口に入れた。実は、重衡も相当な武術の使い手である。知盛ほどその態度を剥き出しにはしないが、穏やかな表情の下に静かな闘志を宿す男だった。

「兄上も大人げない。太刀一本、しかも左手のみですか」
「すごいですよね。左手しか使っていないのに、知章くんの太刀を弾き飛ばしちゃったし」
「大人げないんですよ」

 くすくすと穏和に笑いながらも、重衡の言うことはなかなか厳しい。知盛に似ていないようで、実は似ているのかもしれない。
 しばらく一緒に菓子を食べて中庭を眺めていた望美だが、ふと重衡に振り返った。

「あの、重衡さん。知盛さんに何かご用ですか?」

 訊くと、重衡は我に返ったらしい。

「ああ、そうだ。また重盛兄上の具合が悪くなったらしくて……」
「ええっ!?」

 望美の驚愕の声に稽古中の知章が驚いてしまったようで、その瞬間、彼の持っていた太刀が弾かれ、地面に回転しながら落ちていった。
 弾いた本人である知盛は、太刀の切っ先を息子に向け、

「戦の間は、何事にも動じるな」

 と、低い声で言い放った。