ああ、とても寂しい景色。
「……兄上」
哀しいのです、兄上。
私の呼びかけは一度で振り返ってもらえない。
二度目に呼ぶと大抵は顔をこちらに向けてくれるけれども、いつも気怠い表情をしていることをあなたは知っておられるか。
寂しいのです、兄上。
「……兄上」
「なんだ」
今日は朝から日が照っていない。
風が強く空気は乾燥していて、喉の奥がカラカラする。
脚の下にさざめく雑草が時たま音を立てて波のように揺れた。
ずいぶんと早く流れる雲が時の流れを指し示しているようで私は恐かった。
「どこへ行かれるのですか」
今はかろうじて立ち止まり私を振り返っているけれど、前を見て歩く時のあなたはどこへ行くのか見当がつかない。
私が懸命に追いかけてもその意図は読み取れない。それがどんなに怖ろしい事かあなたはご存じないらしい。
追いかける私は、導かれた先の人の立ち入らない場所で足を石に引っかけ転びそうになる。「二十歳前後の男が無様な真似を」と思うが、ある意味それは兄の気を引きたくてやっていることなのかもしれない。無意識に。
それでも振り返らない兄は私の怪我などかまわないのだろう、戦場の方が比べものにならないほど恐ろしいから。
「兄上は、薄着しておられる。今日ばかりはこれで帰ら」
「うるさい」
短く切るように言って再びザッと前へ踏み出すその足は先ほどと変わらぬ速度。まるで頭上を流れる空のように自由気ままで捕まえようがない後ろ姿に、悪寒を覚える。
「兄上!」
「黙れ。俺の前で喚くな。
そんなに帰りたいのなら独りで帰れ」
独り?
「そもそも、お前が勝手についてきたんだろう」
兄上。
「今頃、女が心配しているぜ」
なぜ私が追いかけるのか、あなたはお分かりにならないのですか。
あなたがこの殺風景な風景の中に消えていってしまいそうだから私は必死になってあなたの後ろ姿を見失わないようにしているというのに。
ああ。
そういえば、いつもそうだった。
幼い時から。
私は兄と同等だと言われるが、何に置いても私が兄に全く及ばないことを皆は知らない。
兄の武術、和歌、態度、誇り。どれを取っても私は劣っている。あまりにも差がありすぎて心地よいほどに。
「兄上。私は、あなたをお慕いしているのです」
「……は?」
兄は立ち止まり、怪訝な顔で私を振り返った。
そんな表情をされていても私は兄が振り返ってくれたこと自体が嬉しくてたまらない。
私を、見ている。
「言っておくが、俺は近親相愛など興味ないからな。男色の気もない」
「違います」
私は歩を止めた兄にここぞとばかり足早で近づいた。やっと私が兄を止める時が来た――恍惚とした感情をどうにか押し殺し、私は雑草を蹴散らしながら兄の前まで来ると、笑みを浮かべた。
「私は、あなたを尊敬しているのです」
「……」
「重盛兄上や宗盛兄上や父上よりも、ただあなたを。
あなたがいなければ、私は、きっと私でなかった」
「……」
兄は、始め「訳が分からない」といった顔をしていたが。
「知盛兄上が、重衡の手本。知盛兄上を目指して重衡は日々努力して参りました。
ですが、未だ及びません。早く兄上のように立派な人間になりたいと願うのに」
だんだんと、真剣な瞳になって私を見据えてくる。
鋭くとも優しき兄の眼差し。
ああ。
なんと美しい藤紫色が私を貫くのか。
歓喜の震え。
「兄上」
しかしそれでも再び兄が遠くへ行ってしまうような気がして、私は、兄の狩衣を両手で握り締めた。
「あなたは、私の慕うべき人」
抵抗しない兄に感謝をしながら罪悪も感じ、兄と身長の同じ私は、腰をかがめて額を兄の胸元に押しつけた。
兄はただ佇んでいるだけだった。厭がりもしないが当然のごとく喜びもしない。
不意に、衣から兄の好きな香の匂いがした。
(……幼き頃)
かつて、私は、兄と"同じ"になりたくて、兄の愛用している香炉を盗み自室で焚きしめたことがある。後で散々怒られたが、しばらく部屋から消えることのなかった残り香が、私には嬉しくてたまらなかった。
(まるで、女だな……)
心の中で自嘲する。
これは、私の潜める想い出にしよう。永久に心でくるんでいる、愛しく優しい想い出に。
「兄上。
あなたの弟の重衡は、誰よりも知盛兄上をお慕いしております。
どうか……私の前から消えてしまいませんよう」
兄は、何も言わなかった。
舞い降りる沈黙。
動じないで最後まで言えるかと思ったが、最後の言葉にした瞬間、私は何だか泣きそうになった。台詞の語尾がわずかに震えていたことが、きっと兄にも伝わってしまっただろう。
今までずっと言い出せなかった想い。あまりに兄が大切すぎて尊すぎて歯痒い思いに苛まれていた私は、その都度たまらなかった。まるで神のように兄を崇め称える私は気が狂っているのかと思っていた。いっそ兄のことなど嫌いになれればいいと願ったが、私には無理だった。最初から分かっていた。私がこの人を捨てられるはずがなかった。私は愛しているのだ、平家や藤原家の誰よりも、この人のことを。
彼は、私の兄。
切っても切り離せない存在であることが、私には至極幸せなことだった。
彼は永遠に私の兄であり、私は絶対に彼の弟なのだ。どんなに抵抗しようともそれは永久なる事実。後世にも残れば、私たちは永遠を手に入れる。
それは束縛。
血という名の。
「お前は女か」
冷たく兄が言い放った。びくりとして顔を上げると、不機嫌そうな兄の表情が瞬く間に私の心を凍えさせた。
少しの絶望が脳裏をよぎり、轟々と流れる雲が兄の頭上を過ぎゆくのを見た私は余計に不安に駆られる。
兄上。
こんなにも思慕の念を抱いている私を、あなたは受け入れては下さらないのか。私はいつだってあなたのことだけを見てあなたのことだけしか想っていなかったのに。
兄は言う。
「女々しい男は一門に不要だ。馬鹿な考えはさっさと捨てるがいい。
あえて言うならば、俺に情を抱いているお前は、現時点で失恋したことになるな」
「え?」
兄の言葉に私は目を見開いた。
兄は、そんな私の表情を気味悪そうに眺めながら、吐き捨てた。
「俺が慕うは、ただひとり」
「……重盛兄上ですか」
「さあな」
踵を返そうとする兄を、私は、
「あにう……兄上」
必死になって引き留めているのだから、兄が怒るのも当然だった。
「いい加減にしろ」
「それでも、私は」
「やかましい。帰れ」
「兄上、私は、本当にあなたが好きなのです。
失いたくないのです」
兄の狩衣を相変わらず握り締める指先は白ばんでいる。
「失いたくない。私は、兄上を愛しているのです。私が愛する女性達とはまた違う恋慕を」
「愚かな」
「愚かでもかまいません。ただ、この世の誰が消えようとも、あなただけは私の前から消えてはなりません。
あなたが消えれば私は死にます。きっと自分自身を保てなくなる」
「修行しろ」
「無駄です。私は、もはやあなたでできている。あなたという存在こそ私の存在なんだ」
「……狂ってる」
「かまわない」
愛しい兄上。
「かまいません。どんなに狂っていようとも。
私は、あなたがいなければ呼吸の仕方さえ分からない」
どうか、あんなに早く歩かないで。
「あなたは私の空気。私の時間。私の全て。私の生命そのもの」
独りで生きていこうとしないで。
「私を……」
私をあなたの隣に並ばせて。
「私を、独りにしないで……」
いつだって、祈っていた。
「……重衡」
いつまでもすがりつく私に呆れたのだろう、彼は、私の指に手をかけると私の手を衣から引き離そうと力を込めてきた。しかし放したくない私は逆に力を込めて抵抗する。
そんな弟に、兄は嘆息した。
「いい加減にしろ」
「嫌です、兄上。約束をしてください」
「放せと言っている」
「約束を下さい。私があなたと生きていけるように。
あなたと共に死ねるように」
「重衡!」
珍しく大きな兄の声。戦慄を覚えて思わず手を放してしまった。
兄はしばし私を睨んでいた。私は再び彼に逃げられてしまうことが恐怖でならなかった。再度手を伸ばしてその衣を掴もうとすると、兄は、差し伸ばした私の手を片手で掴んだ。
いきなり伝った体温に、私は動揺する。
「……あ、に」
「重衡。落ち着け」
いつの間に震えていた身体を慰めるように、兄は、強く私の手を握り締めた。
「お前は武人であり、誇り高き一門の男。
死ぬことを厭うのは禁忌だ。我が身においても、他人の身においても」
「……」
「情を消せ。俺たちは兄弟だが、人間としては別個の存在だ」
「ですが」
私は、きっと泣く気配をはらんだ声で言っていた。
「ですが、兄上。
私は、兄上が、誰よりも大切で。
失えない」
「重衡……」
「どんなに離れても、恋い慕うようにあなたを想う。
きっとこれは好きだとか尊敬だとか、そういう域の話ではありません」
「重衡。俺は、神ではない」
「私の中では」
神なのです。
「……」
「兄上。お願いです、私の前から消えないで。
私を独りにしないでください。私の大切な人はもちろん他にもいます。ですが最も失えぬのは兄上なのです」
「重衡、俺たちは、我が一門を守るために存在している」
「ひとりの人間が大勢を救うなど不可能です」
私は、兄の肩に頭をもたげ、
「私は、知盛兄上しか守れない」
深く、息を吐く。
「最も守りたいものが、兄上だから」
「俺は自分で自分を守れるぞ」
「どうして兄上は私を突き放そうとなさるのか」
「お前はもう大人だろう」
「大人も子どもも関係ない。私はただあなたを守るために生きている。あなたが死ねば私も死にます。
それほどあなたは重要であり、私の生きる世界そのもの」
「狭い世界だ」
「厭いません」
掴まれた手と逆の手を兄の首に回すと、兄は首を動かして少し抵抗したが、仕方がないと思ったのだろう、首の後ろに回した手を払いのけることはしなかった。
「厭いません。私の世界には兄上が生きていれば良いのです。
兄上が誰を想っていようとも、こんな私を蔑もうとも、重衡は、いつまでも兄上のことを想っております」
「……」
「兄上」
ゆるんだ兄の手から自分の手を引き出し、私は両手を兄の首に絡ませた。
兄の衣に私の衣が触れて音を立てる。
彼の鼓動が微かにきこえた。
「愛しております」
狂っていると言われてもかまわない。
ただひとりを想いそれが自分の兄であることに変わりはないから。
そんな自分を誇りに思っている時点で、もはや私に救いの道はない。
愛されなくともいい。
私は、ただ愛したいのだ。恋愛とも違う深淵の中で。
独占をしたいのではなく睦みごとをしたいわけでもなく、単に彼が私の世界に生きていればいい。それだけで私は息を吸うことができ明日の陽の光を浴び夜の静寂に眠ることができる。自分の半身が死ぬまで。
そう、あなたこそ、私の命そのもの。
「……重衡」
私の頭をあやすように撫でる兄の手を何よりも愛しいと思っている私はきっと神に見放されているでしょう。
「……重衡」
私の名を呼ぶ低く凛とした声音に涙を流したくなる私はきっと足下の雑草にまで嫌われているでしょう。
轟々と流れる空に覆われる殺風景な野原。乾燥した風はいつしか兄の声まで奪った。
天候に憎しみを抱きながらも私は近くで微動する兄の呼吸に泣きたくてたまらなくなった。
愛しい兄を死に誘う全てを壊し尽くしてしまいたい。
このまま、私たちふたりだけが世界から消えて無くなればいい。
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