「あなたは本当に人を殺したいと思っているんですか?」
不意に、青年が訊いた。
「それは、あなたにとって正しいんですか?」
振り返ると、薄緑色の髪が見えた。
色素の薄い月が夕焼けに昇る、不気味で曖昧な時刻でのことだ。
世界を暗くする夜が近づいていたせいで、私の覚えている景色が果たして隅から隅まで正しいとは言えないが。
少なからず私は見た。
ぼんやりとした明るみの中に佇むのは真っ直ぐな瞳を持つ青年――いや少年だった。
視力が悪いらしく、目元にはやや変わった形の眼鏡を掛けていた。
その賢明そうな顔立ちは、穏やかにも荘厳にも見える整然さを宿し、私に向けられるその真剣な眼差しの中には、どこか恐ろしくも感じられる冷静さが混じっていた。
私は、彼の出現を疑問に思いながら、尋ねた。
「――あなたは」
「俺の名前は知らなくてもいい」
私の言葉を遮って、彼は即答した。
まるで私がそれを問うことを前もって分かっていたかのようだった。
私は口を噤んで、不快を感じながら彼に向き直った。
少年の手に、弓があるのが分かった。
矢もひとつ握られていた。
私を殺すためだろうか。
少年が殺気を宿していなかったせいで詳しいことは分からなかったが。
「俺の名前は、この世界には無いから」
声と口調は、幼さ残る外見とは違い、奇妙に大人びていた。
私は、彼の姿を影にしていく夕焼けの残響に目を細めていた。
彼が背負っているのは橙色と紫色が灰色へと滲んでいく気味の悪い空だった。
遠くで鳥が飛んでいる。
背の低い山が、迫り来る闇の中に姿を隠そうとしていた。
私は、その遠くの鳥たちの鳴き声を聞くように、じっと耳を澄ましていた。
少年は言った。
「もし。
あなたのしていることがあなたの望みならば、俺は今、きっとあなたを殺そうとするだろう。
けれどそれがあなたの意志でないなら、俺は、あなたが一体何なのか知りたいと思う」
少年の。
意味不明な言葉を頭の中で反芻しながら、私は、腰の太刀にそっと手を触れていた。
彼は続ける。
「少なくとも、これは間違った歴史だろうから」
「間違った?」
私は、遮るように訊いた。
「今、流れている時間こそ歴史ならば、それを“間違った”とは言えないと思いませんか。
なぜなら歴史に正誤はないのだから」
「いいや、あなたは、今の自分が間違っていることを知っている」
冷静に、冷酷に、少年は、私に言った。
「心の中では分かってるんだろう、中将殿。
かつて桜と梅を愛おしんでいたあなたのことを、ある人たちから聞いた。
俺はただ思ったんです。
あなたが人を殺したくないが為に海の底へ逃げたのだとしたら、今あなたの行為は矛盾しているのだろうと」
「何を言っているのです?」
「ある力があなたの命と心をねじ曲げた。
あの子ども――あの男が生命に対する謀反を起こしたのもまたひとつの歴史だろう。けれどそれが誰かにとっての間違いを生み出したのだとしたら、それは正しくない。良くないことだと俺は思う。
あなたは何のために海へ逃げたのですか?」
「私は」
背中にうっすらと寒気を感じた。
もはや何も感じなくなった身体ではあるが。
「私はもうあの頃の私ではない」
「あなたにとって、海は、美しい所だったんでしょう?」
「黙りなさい」
「それとも恐ろしい所だったんですか? そんな場所で、あなたは死にたくなかったはずだ」
死、という単語が。
私の全身に鳥肌を立たせた気がして。
「黙りなさい!」
「無差別に人を呪い、殺める。
あなたがあなた自信のために海に身を投げて、しかもそれが人を殺したくないが為だったのだとしたら、あなたの死には意味が無くなってしまいます」
「……あなたは死にたいのですか?」
柄を握る手が、熱くなる。
血さえ流れなくなった身体ではあるが。
「殺して差し上げましょうか」
「……今のあなたなら俺を殺すでしょうね」
少年は、目を反らして小さく嘆息した。
「俺はただ、あなたのせいで俺の周りの人が悲しむのを見たくないだけです。あなたもまた悲しんでいるというのなら、俺も色々と考えるところがあったんですが、それもまあ、いいでしょう」
それは。
夕焼けの終焉と共に訪れた、少年の諦めだった。
「さようなら」
ヒュ、と。
音が鳴った。
どこかで聞いたことのある音だった。
「あ」
強い衝撃を胸元に感じた。
声が漏れた。
ビン、と何かが張るような振動が伝わった。
身体が徐々に仰け反った。
まるで世界の時間が通常よりゆっくりと進んでいくように。
夢を見たくない夕焼けが寝床から起き上がろうとしているのだろうか。
巻き戻しのように。
私を押し潰すが為に私もろとも全てを闇で埋め尽そうとしているのだろうか。
強い重みが。
私を、短い草の生える地面の上に追いやった。
ここは何処だったろうか。
おそらく人気のない道とも言えぬ道。
私は何をしようとしていたのだろう。
黒い何かを手に持って、何を。
頭が地に着くと同時に、目の前に、黒ずんでいく暗い空が広がった。
その空は決して醜くはなかった。
星が美しく輝いていた。
僅かに残った夕焼けがすっかり死ぬ頃には、きっと満天の星空になるだろう。
口元に液体のようなものを感じた。
どろどろとした何かだった。
地面に横たわった片腕を起こし、そっと指先で拭ってみると、それは色の濃い液体のようだった。
見たことがあるような。
ここは暗くてよく分からない。
「う」
なぜか胸が苦しかった。
ふと見ると、自分の胸元に矢が刺さっている。
それは見事なほど真っ直ぐに私を貫いていた。
美しさを感じてしまうほど垂直だった。
矢羽根が天に届くかと思った。
痛みはなかった。
しかし、胸が苦しい。
胸が苦しかった。
「……でも」
側で声がした。
口元の液体を拭った手はその位置のままに、目だけ動かすと倒れた私の右側、私の足下に、少年が佇んでいた。
闇が濃くなっているせいで、顔はもうよく見えなかった。
ただ、私を見下ろしていることだけは分かった。
手に弓を持っていた。
矢は、もう持っていなかった。
「俺にあなたは殺せません。
だってあなたは死なないだろうから」
ほんの少し同情が混じった声音が、ぼんやりと、水中を這うように朧気に耳に届いた。
「死にたくても死ねないあなたが一番つらいと思う。
入水した時のあなたよりも、ずっと」
私は、少年から目線を外して、夕焼けを殺した空を見た。
深い藍色の、微かに群青も混ざる、鮮やかで暗い空。
「……でも、いつか、あなたは再び死ぬだろう。
けれど今度こそ、あなたはきっと楽になるから」
なぜ?
私は少年の言葉に即座に問うていた。
しかし声にはなっていなかった。
少年はそんな私の疑問など分かっていないようだった。
なぜ?
理由を聞きたかったのがどうしてなのか、今の私には分からない。
少年は佇み私のことを見下ろしていた。
私が死ねないのを確認するためか、あるいは見守っているためか、どちらかだとは思うが。
柔らかな眼差しを私に向けながら、悲痛な表情をしていた。
「…………君の、名、は」
口内に液体が溜まり上手く喋れなかったが、その言葉だけは少年に通じたようだ。
少年は答えた。
「俺の名前は、この歴史には無い。
ただあなたに今、死を譲ろうとしただけ」
少年は去った。
私は死ねなかった。
死という概念そのものが私には存在しなかった。
血はいずれ止まった。
しかし血を失った身体は冷え切っていた。
寒さなど感じないと思っていたが、なぜかひどくつらかった。
辺りは闇そのもので、視界に広がるのは満天の星空だけだった。
胸に刺さった矢を取らなければと思うのだが、なかなかできなかった。
恐かった。
痛くはないはずだが、恐怖だった。
なぜだろう。
“あなたは本当に人を殺したいと思っているんですか?”
わからない。
私にはもう何も分からない。分からない物になり下がってしまったから。
“それは、あなたにとって正しいんですか?”
わからない。
しかし、正しくないと言う人間の方が多いだろうことは分かっている。
理由は知らないが。
“あなたにとって、海は、美しい所だったんでしょう?”
ああ
それだけは、知っている。
海は、美しかった。
「……海は美しかった。
まるで星のように何かが輝いていて」
痛くて、痛くて。
「丁度、私の見ている、この夜のように」
たまらなかった、あの時は。
深く深く。
深呼吸をしてから、私は、瞼を伏せた。
涙が出た。
ただ、胸が苦しかった。
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