結局、遅刻をした。
 服を決めてからどうにか三十分で家を出たのだが、途中で楽器を持ってくるのを忘れたことに気がついた。今日は日野の衣装を決めることが目的なので、楽器が手元になくても何ら問題はないのだが、もし日野がヴァイオリンを持参していたとしたら、先輩でありコンクールの出場を勧めた自分の立場がないような気がして、悩んだあげく、一度家に取りに帰ったのである。おかげで、乗る予定だった電車を二本も遅らせてしまい、火原は駅のホームで顔面蒼白になりながら遅刻する旨のメールを送信した。電車に乗った後もしばらく返信がなく、もしかしたら怒ってしまっただろうかとひどく心配したのだが(別に日野はそこまで短気ではないだろうが、火原は自分に自信がないせいでそう思わざるを得ないのである)、そのうち「承知しました」と淡白な返信があって、安堵したせいか車内で大きなため息をついてしまった。
 学院の最寄り駅に到着し、待ち合わせ場所である改札口に足早に向かう。休日のためか人通りがかなり多く、どこにいるか分からなくて目で探していると、とん、と背中を叩かれて火原は振り返った。見覚えのある赤い髪が視界に入る。

「香穂ちゃん! 遅れてごめんね!」

 慌てて謝る火原に日野は薄く微笑して、いえ、とかぶりを振った。

「近くの本屋にいましたから」
「本当にごめん、自分から誘ったくせに……」

 言いながら急に落ち込んできて、深刻な顔をしてうつむく。どうして自分はこうドジなのだろう、自負だが、あまりそうは思っていなかったのに、大事な人の前では自分がいかに情けない人間かが明らかになってきて、日野と関わり合うこと自体に罪悪感を抱いてしまう。
 言葉を失ってしまった先輩を心配してか、様子を窺っていた日野が、トランペットの入ったケースを指差して問うてきた。

「楽器、持ってきたんですね。私は持参していないけれど……」

 どこか申し訳なさそうな口調に、火原はハッとして「ううん!」と声を上げた。

「別に演奏するつもりじゃなかったんだけど、なんとなく持ってきただけだから、気にしないで。ほら、楽器って、ちょっと一心同体なところがあるからさ」

 あくまで自分にとってはだけどね。日野の気を悪くしないように付け足すと、ふふと日野は笑った。

「火原先輩らしいと思います」

 浮かべる微笑がなんとなく幼くて、可愛らしくて、自分にそんな表情をしてくれることに嬉しくなってしまう。これから今日一日どんな展開になるのだろう。楽しみでうきうきするという表現は、まさしく今の感情に当てはまるに違いない。
 イベント用の衣装を売っている店は駅前通りにあるので、とりあえずそちらに向かうために歩き出そうとしたとき、はたと気付く。当たり前だが、日野も私服で、アイボリーのサマーセーターに、プリーツの入った膝上のカーキ色のスカートを履いている。肩からは小さな革のショルダーバッグ、靴はくすんだオレンジ色のパンプス。スカートの下からは、ほっそりとした白い脚が覗いていた。
 日野の私服姿は、あの雨の日のベンチ以外で見たことがなかったので、学生服以外の稀な日野を意識してしまい、火原の胸はドキドキと更に高鳴った。

「香穂ちゃん、えっと……」

 なんと言えばいいのだろう、こういうとき。自分なら、女の子に何を言われたら嬉しいだろうか?
 はい?と見上げてくる日野と目が合ったとき、自然と口からこぼれていた。

「かわいいね、今日の服」

 言ってから、ええ!?と胸中で仰天してしまった。こんなにもストレートな言葉が出るとは思っていなかったのだ。セクハラまがいになっていやしないかなと冷や汗をかく。
 内心パニック状態の火原の心などつゆ知らず、日野は目をぱくちりさせて、そのうち「ありがとうございます」と微笑みながら礼を言った。

「今日は衣装合わせで着替えることが多いかもしれないので、脱ぎ着しやすいようにと思って」

 本当はワンピースにしようと思ったが、それだともたつくのでセパレートの服装にしたという。かわいいという言葉に対して純粋な感謝をしている様子の日野に心底安心したのと、火原の知りえない自身のことを話してくれることが本当に嬉しくて、火原はどきまぎしながらも感情が抑えきれず、にこにこしてしまった。

「そっか、そうだよね、女の子は気を遣わなきゃいけないから大変だなあ」

 ワンピース姿もぜひ見てみたいところだが、口に出したら怪訝な顔をされそうなのでぐっとこらえる。

「火原先輩は、いつもとちょっと雰囲気が違いますね」

 珍しく日野から話題を提供してくれたのだが、雰囲気が違うという台詞の意図が可否どちらの意味なのか分からず、火原は慌てた。

「へ、変かな?」
「あ、ごめんなさい。私の言い方がおかしかったですね。変じゃないです。火原先輩って、学院でも、ロゴが入っている明るい色のティーシャツを着ているイメージがあったので」
「ああ、そういえば、そうかも……」

 普段のイメージと違うということだろうか。兄の勝負服のようだったので何も考えずに着てきてしまったが、自分が周りにどう映っているかなど、あまり意識したことがなかった。自分の好きな服を好きに選んで、毎日身にまとっているだけである。
 兄に選んでもらったとはなんとなく言いたくないし……と考えていると、不意に日野が言った。

「大人っぽくて、いいと思います」

 火原は停止し、男の沈黙に目で様子を窺っている日野を見下ろしながら、自分の顔が徐々に熱くなってくるのが分かった。この距離と、外の明るさでは、顔が赤くなっていることがばれてしまうだろう。
 火原は片手を口に当て、どこでもない遠くを見やった。ありえないほど心臓がばくばくと打って、気が変になってしまいそうだった。

「……嬉しい」

 思っていることを素直に口に出した。

「え?」
「めちゃくちゃ嬉しい、きみにそう思ってもらえることが」

 もうばれてもいいや、とまで思ってしまう。いや、今までこれだけ接触した自分である、今日も半ばデート状態であるし、すでに日野は分かっているかもしれないが、気持ちが伝わってしまっても仕方がないと考える自分がいる。好きでいることを相手に知ってもらいたいという心理が不思議だった。彼女の返答は不明だが、その先には一体何があるのだろう。
 だが、やはり、まだだめだ。ここまで築き上げたものを、一瞬の衝動で壊してはいけない。
 日野は火原の言葉に困った様子でいたが、そのうち「そうですか」と、大人びた表情でくすくすと笑った。

「なら、私も嬉しいです……かな?」

 少し照れたように目を伏せる日野に、火原は、もうたまらなくなって、このまま強く抱きしめたい気持ちをどうにか抑え込んだ。