服が決まらない。
 火原は鏡の前で愕然とした。
 以前、日野と会った土曜日は、あくまで学院での練習だったので何も考えずに制服でいられたが、今回は街中を歩くので、学院に寄る用事もないし、最初から私服でいるのが普通だろう。クローゼットや衣装ケースを引っ掻き回したせいで、ベッドも床もカラフルな服だらけになっている。今まで服装にこだわったことなどないのに(待ち合わせに適当な服を着ても、大概、友人たちは「お前は何を着ても似合うな」と褒めてくれた)、日野との約束だというだけで、これだけ頭を悩ませるとは。
 先ほどから、母親に借りた姿見で、パーカだのデニムだのを当てて組み合わせを確認しているのだが、いかんせん今まで意識をしたことがないので、何が似合っているのか分からない。

「どうしよう……。リリが助けに来てくれたりしないかなあ」

 まったく可能性のないことをぼやき、手に持っている黄色のシャツをベッドの上に投げ捨てる。あー!と頭をくしゃくしゃにして、そういえばまだ髪をセットしてない、と絶望する。時計を見ると、待ち合わせの午前十一時まであと一時間半。駅前で待ち合わせということになっているので、電車に乗る時間を鑑みて、あと三十分で家を出なければならない。
 服については、昨日の夜に一式を用意してみたのだが、朝、実際に身にまとってみると色合いがおかしい気がして却下となり、それから一時間ほど悩んでいる。これでは、自分の服どころか、日野のステージ用の衣装の面倒など見てあげられそうにない。
 本当に、おれは口ばっかりだな……と、己のふがいなさにくらくらしながら、半ば無意識に近くのシャツを取り上げたとき、部屋のドアが開いた。服に引っかかって完全に開放できず、「うおっ、なんだこれ」という兄の声が聞こえた。

「部屋きたなっ!」
「あれ……兄貴。バイトじゃなかったっけ」

 今日は休みだと言いつつ、弟の下着姿と目前の光景で状況が分かったらしく、ニヤニヤしながら陽樹は弟を見た。

「ふーん。デート?」
「えっ? い、いや、そんなんじゃない」
「は? じゃ、なんだよこれ」

 まさか友達に会うのにここまで悩まないだろお前は……と見抜かれてしまい、火原はもごもごしながら、シャツを持っている両手を力なく落とした。
 今日は出かけるつもりがないのか、部屋着でいる陽樹は、足の踏み場がないので服の上を歩き、ぐるぐる部屋を見回している。

「女の子だろ」
「う……そう。女の子と、会う」
「それをデートって言うんじゃん、いつから彼女いたんだよ、和樹」
「いや、彼女とかじゃないし」
「はあ。片思い中?」

 今はそんなことを詮索されている場合ではない。手に持ったシャツを乱暴に足元に投げ捨てる。

「時間がないんだ! なにか用?」
「母さんたち出かけるみたいだから、今日の昼飯なににしようかなって。でも、お前には必要なさそうだな。
 しかし、服に悩みすぎ。俺が見繕ってやるよ」

 陽樹は、さて……と顎に手を当てて散乱している服をひととおり眺め、

「ていうか、何デート?」
「何……? あ、えっと、服を見に行く、かな」
「彼女の服?」

 彼女ではないし、おそらく兄が想像しているようなアパレルショップではないのだが、いちいち訂正していると本当に時間がなくなってしまうので、そういうことにして火原は頷いた。

「そう」
「じゃあ、カジュアルめがいいな」

 これとこれにしようと、陽樹はあっさりと服の上下を取り上げて、弟に手渡した。とてもシンプルな白とベージュの重ね着風ティーシャツと、濃い色のデニムである。
 え、こんなシンプルでいいの?という目で兄を見る。そもそも無地のティーシャツを自分が持っていたことに驚いた。陽樹がとりあえず着てみてと言うので、何も考えずに素早く身に着けて、鏡の前に立つ。自分で買った記憶がない、やや大きめのベージュ系のティーシャツは見たことがなく、似合っているのかどうか分からない。
 背後に佇む陽樹は、腕組みしながら上から下まで眺め、うんうんと満足げに頷いた。

「それ、俺のお下がり」
「え? こんなん、もらったっけ?」
「前に一式、ごっそり渡しただろ。そのうちの一枚。んで、デート御用達だった」

 最後の一言に、火原は目をパッと輝かせた。

「マジ?」
「評判は悪くなかったよ」
「そっか、じゃあもう分かんないからこれにする! ありがと兄貴、髪セットしてくる」

 部屋は帰ってきてから片付けるから! 火原は喜び勇んで洗面所へと向かった。がんばれよ、という兄の後押しが聞こえてくる。
 日野の好みはまったく分からないが、とにかく一瞬でも日野に「かっこいい」と思ってもらえればいいのだ。いや、彼女のことだから、むしろ「変ではないです」の一言ですら嬉しい。
 すごくドキドキする! 鏡の前に立ち、両手にヘアワックスを広げて、火原は未知数の今日に胸をときめかせながら髪をセットし始めた。