教室に戻って急いで荷物をまとめていると、柚木が話しかけてきた。

「火原、練習はしないのかい?」

 帰宅の準備をする手はそのまま頷く。

「ん、ちょっと用事があって」
「そう。ところで火原、この前、廊下できみと日野さんが話しているところを見かけたっていう人がいたんだけど、日野さんとは親しいのかい?」
「親し……」

 親しいという言葉に恥ずかしさのようなものが湧いてきて、火原は振り返らずに(すでに顔が赤くなっているかもしれなかった)授業のプリントを乱暴に鞄の中に入れた。

「うーん、どうだろ。コンクールに出るってことはヴァイオリン弾けるんだね、みたいな話はしたけど」
「弾けるんだよね? 実際」

 柚木の問いに、火原は一瞬、教室の天井を見つめて間を作ったあと、

「弾けるよ。練習もしてるみたいだし」

 本当にこの回答でよいだろうかと、不安を感じながら答えた。とりあえず間違いではないはずだ。柚木は「ふうん」とよく分からない相槌を打って、同級生を教室から送り出した。
 校門の前に行くと、日野の姿が見当たらなくて、火原は心底がっかりした。校門を出ていく他の生徒たちの中に紛れていないかと必死に目で探し、十分程度待ってみたのだが、一向に来る気配はない。先に帰ってしまったのだろうか、それとも遅れそうなのだろうかと、携帯電話を確認してみるものの、着信やメールはなかった。
 たとえ好かれてはいなくとも嫌われてはいないだろうと自負していたので、ショックがなかなか大きい。火原の強引さにうんざりして、とうとう離れていってしまったのかもしれない。絶望感に襲われている間にも、日頃の人懐っこさが災いしてか、通りかかる友人たちから「一緒に帰ろう」と誘われるので、火原は嫌になって森の広場の方へと向かった。もしかしたらと、人目を忍びながら例の小さな空き地のところまで土手を上っていくと、あの華奢な横顔と口から出る細い煙が見えて、嬉しさのあまり大声を出しそうになった。

「香穂ちゃん! ここにいたの」

 咎めるような口調にならないよう気を付けつつ、近づく。切株に腰かけている日野は、気だるそうな様子で火原をちらりと見やったあと、どこでもない場所を眺めた。

「……」
「あ、えっと……一緒に帰るの嫌だったかな。ごめん」

 彼女の沈黙が恐くなり、おそるおそる尋ねる。日野は手に持っている煙草の灰を地面に落として、かすかな溜息をついた。

「目立つのが嫌だったので」
「え?」
「校門の前って目立つから。いなくなってすみません」

 確かに、下校中の生徒たちが必ず通る場所にコンクール参加者の日野がいれば、特に音楽科の者たちからは注目されるだろう。自分の配慮が欠けていたと火原は反省した。

「ごめん、おれが勝手に集合場所決めちゃったから」

 日野は無表情で火原の顔を見て、目を伏せた。

「いえ」
「ごめん。なんかおれさ、きみに対して、なんだか強引だよね」

 本当は突っぱねてしまいたいのだろうが、日野は先輩である火原に気を遣っているのだろう。一見冷たそうに感じられるが、常識や遠慮がない人間ではないのだ。もし彼女が本当に冷酷な性格だったら、きっと惹かれることはなかったのだろうと火原は思う。だからこそ、日野に対しては誠実でありたかった。

「言い訳に聞こえるだろうけど、おれさ、前から人の気持ちを察しなかったりして、そういうの、いつも柚木や友達に怒られるんだよね。人の気持ちを考えろって。言われるたび反省してるんだけど、やっぱりうまくできなくって。やな奴だよ、本当に。きみにも、きっとそういうことをしてて、でも気づいてなかったんだと思う。ごめんね。なんか、さ、その……ええと、実はおれ、香穂ちゃんのこと……」

 好きかもしれないという言葉が脳裏によぎった途端、条件反射のように顔が熱くなった。このまま続けると愛の告白になってしまいそうだとしどろもどろになっていると、日野は薄く苦笑しながら火原を見た。

「私は火原先輩のこと、やな奴なんて思ってませんよ」

 火原を見る日野の目は優しげで、どこか悲しい。彼女のこの眼差しが、いつも火原の胸を締めつけるのだ。彼女に心惹かれる理由は、これだけで十分だと感じるほどに。
 日野に頬の赤さがばれてしまってはいないだろうか。暗がりだから見えないとは思うが、もし、この溢れた気持ちが彼女に伝わってしまったら、いったいどうすればいいのだろうか。火原が抱いているような感情を日野も持っているとは考えにくいし、知り合って間もない男から好意を抱かれるなんて気味が悪いに決まっている。そんなふうに彼女に思われたら、悲しくて仕方がなくなってしまうだろう。自分の想いを伝えることは、今はまだ、怖くてできない。
 火原は日野の言葉にうんうん唸ったあと、

「あ、あのさ! おれ、香穂ちゃんのこと、心配なんだよね」

 思い浮かんだことをとっさに言い、いやそうではないだろう……と自分の口から出た言葉にがっかりした。

「今日の月森くんみたいなことを考えている人たちって、音楽科の中にも多いと思うし」

 月森の名を出すと、途端に日野は不機嫌そうに(それでも微々たる表情の変化だが)眉をひそめた。

「予想はしてました」
「そ、そう。ごめんね」

 なぜか謝罪の言葉が口をついて、思わず頭を下げる。日野はきょとんとして、再び困ったような笑みを浮かべた。

「どうして火原先輩が謝るんですか」
「え? あ、そうだね、なんでだろ。同じ音楽科の生徒として、かな」
「いろんな人がいるというのは分かりました」

 遠回しに言い、携帯灰皿にたばこを仕舞うと、軽くスカートをはたいて日野は立ち上がった。火原もつられて腰を上げる。見下ろすと日野のつむじが見えて、夕闇の森の中で二人きりであるというシチュエーションを思い出してしまい、またパニックになりそうだった。
 日野は少し疲れた様子で呟いた。

「帰りましょう……」
「あ、うん。そうだね」

 秘密の場所から去ることを、どこか寂しく思いつつ、元来た道をたどり、森の広場に出るときには他の人間の気配に注意して土手を降りた。