「金澤先生、ひとついいですか」

 嫌な予感がした。放課後すぐ音楽室に集まれとセレクション出場者に連絡があり、練習から当日までの流れを金澤から事務的に説明された後のことだった。
 最後に質問があるかどうか確認する際、黙って聞いていた月森が片手を上げた。どうぞと金澤が促すと、彼は近くに佇んでいる日野に視線を投げた。

「ヴァイオリン奏者は俺と日野さんだと聞きましたが、日野さんは普通科の人間ですよね。なぜ普通科の人間が音楽コンクールに出場するんですか?」

 その“普通科の人間”という言い方には、明らかな棘があった。火原は日野の左隣にいて、何かあったときには自分が止めに入ろうと心に決めた。
 金澤は、まるでその質問が投げられることは予想の範疇であるといった様子で、やれやれと頭をかきながら気だるげに答えた。

「別に普通科の人間が参加しちゃいけないなんて決まりはないだろ」
「コンクールに参加できるということは、経験者ということですよね。普通科の人間でそれほどの実力がある奏者がいるという噂は、俺は聞いたことがないのですが」

 話題の当人である日野は、月森とは目を合わせず、無表情で足元を見つめている。反応を見せないことが気に入らなかったのか、月森は、より冷たい声で、

「同じヴァイオリン奏者として、彼女に演奏を聴かせてもらいたいのですが」

 まさか自分よりも優れた奏者ではないだろうという口調で言い放った。上から目線の物言いに火原も腹が立ち、あのさと前に踏み出そうとしたとき金澤が口を開いた。

「あのさ、このコンクールは親睦の意味合いもあるんだよな。どちらかというと、そっちのが強いの。星奏学院は普通科と音楽科がある学校なのに、二つの学科が交わる機会は意外に少ないだろ。こういうとき、音楽科の人間の頭の中には、普通科の人にもぜひコンクールを聴きに来てほしいという考えが浮かぶべきだし、普通科の人の頭の中にも、音楽には興味なかったけれど一度聴いてみようかという考えが浮かぶべきなんだ。普通科だとか音楽科だとか誰が上手いかとか、そういう垣根はまるで無意味なんだがね」
「俺は彼女の音を聴きたいだけです」

 金澤は溜息をついて日野を一瞥し、「今は彼女、楽器を持参してないから、また今度な」と肩をすくめて要請を断った。日野は相変わらず無反応のまま口を閉じている。月森もそれは認めたのか黙った。

「月森くんの言い分も分かるけれど、ヴァイオリンという楽器自体を持っているんだし、演奏はできる人なんじゃないかな」

 柚木がにこやかに言う。すかさず火原も頷いた。

「ヴァイオリンなんて、興味ない人が持っているものでもないしね」

 各自、普通科からの参加者に対する疑問は抱いているのだろうが、三年生の言い分に納得することにしたらしく、質疑応答は無難に切り上げられ、解散となった。音楽室で自主練習をしている生徒たちの日野に対する目線は厳しく、さっさと教室を去ろうとしていた彼女に、火原は何食わぬ顔で近づいた。

「今日は練習するの?」

 日野は、にこりともせず振り向いた。

「昨日なんとなくやったので、今日は帰宅します」
「そう。一緒に帰ってもいい?」

 日野は音楽室を出ると、後ろから当然のようについてきた火原に不審そうな視線を投げた。

「練習しなくていいんですか?」
「おれも昨日それなりにやったから。部活も今はコンクールのことで免除されてるし。おれさ、実は他の人に比べて真面目に取り組もうとはしてないんだ」

 練習も本番も楽しんでやることが一番だと説明すると、日野は沈黙した。練習の話はともかく、一緒に帰宅するということについては、彼女にとってハードルが高いのだろう。言いたいことは分かるが、火原には、どこかで彼女が音楽科の人間から嫌なことをされないかどうか心配なのだ。先ほどの月森の態度も攻撃的だったし、どちらかというと音楽科の生徒は月森側の気持ちでいる者が大半だろう。それは悲しいことだったが、火原ひとりの力ではどうしようもないことだった。
 返答しかねている日野に、火原はにっこりと笑いかけ、「もちろん途中まででいいから」と相手の主張は聞かないまま待ち合わせ場所を校門の前に決めた。