その日の夜、湯船に浸かって練習で疲れた腕を揉んでほぐしつつ、アヴェ・マリアを鼻歌で歌っていた。風呂用の枕を浴槽にへりに敷き、そこに頭を置いてくつろいでいる。本気で練習を重ねている時期は、肺活量を使うため疲労感がひどく、長風呂になるので、兄から「早く出ろ」と言われることが多々あった。うっかりすると眠ってしまい、一度こっぴどく両親から叱られたことがある。それだけは気をつけるようにしているのだが、このゆったりした空気にはどうにも耐え難いものがあって、火原はうとうとしていた。
 寝ないために何か考えていないといけないな……と思考を巡らせたとき、昼間の練習室の情景が脳裏によみがえって、途端に火原の頭は鮮明になった。
 ヴァイオリンを弾いている日野の姿。奏でる音楽がまがいものであるにしろ、彼女が楽器を手にして佇む様子は凛として美しかった。伏せた睫毛や華奢すぎる両肩を思い出すと、胸が締めつけられるような切なさが沸く。あの頼りなげな身体を抱きしめたいと思う。日野という少女がどれだけ細いのかを直に感じたいのだ。実際そのようなことをしたら怒られるだろうし、二度と口をきいてくれなくなるかもしれないから決して実行はできないが、それでも考えてしまうのだ、彼女のことを、繰り返し、何度も何度も。

「好きなんだ」

 大した声量でもないのに、呟きが浴室内に反響して、火原は一人で赤くなった。
 日野のような女性を――それ以前に、女性をこんなふうに何度も頭に思い描いたり、恋人でもないのに抱きしめたいと思うことは今までなかった。もちろん男なので性的なことに興味は持っているし、女性が嫌いなわけでもないが、こんなふうに胸が痛くなるような切ない感情を抱いたのは初めてだった。友人に好きな人はいないのかと問われるときには、いつも「いない」と答えていて、さすがに高校三年生にもなってまだなのかと呆れられるのだが、ようやく彼らの反応を覆せるようになるのだろうかと、嬉しいような恥ずかしいような心地になる。きっと日野香穂子を好きになったと告げたら皆に驚かれるだろう。「明るく無邪気」と評される火原とは、まるで正反対な性格の持ち主だ。静かで、淡々としていて、大人びていて、物憂げで。
 自分とはまったく違う人間だから、自分は彼女を好きになったのだろうか。理由は分からないし、そもそも人を好きになること自体に理由などないのかもしれないが、ならばどうして日野なのだろうと、そればかり問うてしまう。どう考えても、火原のことを簡単に好きになってくれるような人物ではないように思えるし、コンクールのことも含めて前途多難であることは目に見えている。そもそも彼女には好きな人はいないのだろうか? それを尋ねたら不機嫌になるだろうか。でも、知りたい。彼女のことをもっと知りたい。そして、できるのなら、彼女を抱きしめるために恋人同士になってみたい。

「でも、抱きしめるだけなら、恋人同士にならなくてもいいのかな」

 好きという感情が火原にはまだよく分からなくて、そんなことまで思ってしまう。ぶくぶくと口を水面下に沈めて、あの雨の日の出会いを思い出す。
 あれはきっと、自分にとって運命の日だったのだ。