「火原先輩はどうですか」

 珍しく日野から問うてきたので、火原は嬉しくて笑みを浮かべた。

「まあまあ順調だよ。香穂ちゃんが頑張ってるんだもの、同じだけおれも頑張らないとだめだからさ」
「火原先輩は、トランペットを吹く人たちの中でも上手いという理由で参加者に選ばれてるんですよね?」

 そう思いたいところだが、他にも熟練した生徒はたくさんいるのが事実だ。幼い頃から道を決めて携わっている者からすれば、中学生のときにトランペット始めた火原は、未熟な奏者に違いないだろう。
 火原は頭をかきかき、窓の外――ここは二階なので、学院を囲むようにしてある木立の枝葉が見える――を眺め、うーんと唸った。

「たぶん、総合判断なんじゃないかなあ。音符をたどることに関しては、もっと上手い人だってたくさんいるよ。おれはものすごい上手なわけじゃないし、始めてからそんな長くないけど、本当にトランペットが好きでやってるから、そういう気持ちも大事だったのかもしれないね」

 他の候補者がそれに当てはまるかといったら分からないところだし、今言ったことはかなり適当だったのだが、日野はその言葉に納得することにしたらしい、頷いて、のろのろと長椅子まで歩いて腰かけた。こちらを向く姿が土曜日に見た光景と重なり、火原はどこか恍惚とした感情を抱く。
 日野は少し沈黙したのち、いつも通り淡白な調子で口を開いた。

「こういうふうに言ってしまうと火原先輩に申し訳ないけれど、私、楽器を演奏することが、それほど好きじゃないかもしれません」
「えっ、あ、そう?」
「仮にヴァイオリンに魔法がかかってなかったとしても、自分から進んでやろうとは思わないかな」

 興味のない人間が無理に楽器を触ることは苦痛に違いないだろう。罪悪感が生まれるが、火原は「ならば辞めてしまえ」とは言えなかった。彼女は自分で参加することを決めたのだから、その決定に対する責任は持つべきなのだ。

「それって、音楽の世界が怖いって言ってたことに関係してる?」

 以前、日野と話した際に、そんな言葉を漏らしていたことを思い出す。トランペットや楽譜が大好きな火原にとっては、音楽の世界への恐怖など、到底信じがたい感情だった。
 日野は目を床に伏せ、沈黙した。何かトラウマでも抱えているのではないかと心配になるような空気で、何かあったのかと尋ねたかったが、あまり干渉するのも嫌だったので、火原は彼女の顔を見つめて黙っていた。長い睫毛とほっそりとした身体つきは綺麗で、儚げで、抱きしめたりしたら折れてしまいそうだと、前にも考えた気がすると思いつつ、想像していた。日野の身体を両腕でそっと抱く自分。胸に頭を預け、懐に収まる細身の少女。きっとものすごく華奢で、可愛いのだろうな……と意識している自分にハッとして、火原は少し大げさに咳払いをした。

「あ、あのさ、土浦くんってどんな子なの?」

 ここに来た当初の目的は、あの男子生徒について日野から聞き出すことだ。日野は目を上げて火原を見た。

「土浦くん? 普通に、いい人ですけど」
「うん、いい人そうだよね。体格もがっちりしててかっこいいし。彼、部活動で何かスポーツをやってるの?」
「サッカーです」
「あ、そうなんだ。香穂ちゃんとは前から仲いいのかな?」

 気になるのはそこだった。どれだけの付き合いが普段からあるのか訊きたいのだ。訊いたところで、もしかしたらショックを受けるかもしれないのに、このことだけは彼女の口から真実を聞きたかった。
 日野は不思議そうに火原を眺め、ええ、まあ……と戸惑いがちに頷いた。

「たぶん。一年の時の体育祭で、一緒の係になったのがきっかけで、よく話すようになりました」
「なるほどね……」

 そもそも、こんな気難しそうな少女と仲良くなれるという点がすごいのだ。土浦には日野の心を掴む何かがあったのだろうか。廊下で見たときにも、日野は土浦を見上げて笑っていたし、土浦も彼女に対して遠慮したり気遣うような様子もなく、普通に話をしていた。そう、端から見て、それはまるで……

「彼、話しやすそうだもんね」

 もしかして本当は付き合っているのではないか?
 質問が出そうになるのを喉の奥で堰き止めて、火原は無理に笑った。日野は、とりわけ感情のない声で「そうですね」と相槌を打った。友人の少なさそうな印象を与える淡白な日野に、心許せる人間がいるということが妙につまらなく、どこか腑に落ちなくて、もうこれ以上この場所にいると変に日野を疑ってしまうような気がして、火原は椅子から腰を上げた。

「ごめんね、香穂ちゃん。練習中に邪魔しちゃって。おれも練習しなきゃいけないから、そろそろ行くね」
「はい」

 自分がそう言ったことに対して、日野は残念がる様子も引き留めることもなく、ただ無表情で頷いた。悲しい。それが無性に悲しい。日野が火原という人間に対して、まるで興味を抱いていないような態度でいるのが悲しくて、悔しい。彼女は感情が表に出ない性格なのだろう、それは分かっているが、せめて土浦に対して見せたような笑顔を少しくらい見せてくれてもいいではないか。休日に会うくらい、練習室に二人きりでいられるくらい近づいたのだから――
 頭に妙な考えが浮かぶ。それは自分にとっても相手にとっても決して良いものではないということを、火原は薄々感じていた。こんな想いを抱いてはいけないと、己の善良な部分が訴えている。しかし、この奇妙な気持ちは、まるで水道の蛇口をひねるように、あっという間に胸をいっぱいにしてしまうのだ。
 火原は去り際、椅子に座ったままの日野を振り返った。

「ねえ、明日もあの場所で煙草、吸うよね?」
「え?」
「行ってもいい?」

 なぜそんなことを言い出すのだろうと疑うように、日野は火原を怪訝な表情で見つめ、でも、毎日あの場所にいるわけではないし……とぼそぼそ呟いたが、火原は彼女の言葉を無視し、「また行くからね」とにっこり笑って練習室を出た。