第一セレクションまで日がないので、火原も日野のことばかり気にしていられるわけではない。いくつかあった候補の曲を吟味、編曲し、練習を繰り返す必要があった。音楽室だと同級生に囲まれやすくなって集中ができなくなるし、エントランス付近にいると普通科の視線が痛いので、専ら個人で借りた練習室と、人の少ない時間の屋上を利用していた。
 日野は、音楽科棟で練習することは生徒たちの嫉視もあり難しいので、火原と金澤に指導されたとおり、練習室を使うことにしたようだった。鍵を借りに来たとき、貸出簿に先に記入されていた彼女の名前を見つけたので、チャンスと思い、火原はトランペットケースを持って彼女のいる練習室に向かった。
 ドアのガラス部分から見える日野は、ヴァイオリンを構えながら、ピアノに置いた楽譜を読んでいる。ノックすると、こちらに振り返った。火原はにこっと笑いかけてドアを開け、隙間から顔を覗かせた。

「ごめんね、いきなり。中、入ってもいい?」

 仲のいい男子生徒ならまだしも、結果二人きりになってしまう女子生徒のいる練習室になど入ったことがなかったのだが、不思議なほど躊躇の気持ちはなかった。日野は戸惑った気配を見せたものの、どうぞと促して中に入れてくれた。

「ありがとう。練習の邪魔をしてごめんね。貸出簿に君の名前があったから、今どんな感じかなって気になって来たんだ」
「そうですか」

 相変わらず日野は表情少ななのだが、これはもう性格のようだった。以前はあまり話したことのない人間なので人見知りをされているのだろうかと思ったりしたのだが、たぶん、彼女は誰に対しても、こういう態度を取るのだろう。とっつきにくさのせいで友人関係などが気になるが、女子生徒と一緒にいるときは普通の笑顔を見せていたような気がするし、彼女なりの判断基準があるのかもしれない。土浦とは、ずいぶんと仲良さげにしていたのに。やはり、火原の懸念事項は、日野と土浦の関係だった。恋人同士ではないと言っていたが、土浦が言葉を濁したあたり、気に懸かるのだ。
 開口一番に問いただしても、日野は頭の回転が速いし、勘付かれて「出ていけ」と言われるに決まっているので、来訪の理由はあくまで日野の練習の様子を見に来たことにして、火原はトランペットケースを長椅子に置き、日野に近づいた。

「アヴェ・マリアで決定?」

 ピアノの上の楽譜をのぞき込みつつ、訊く。日野は、ぶっきらぼうに答えた。

「これしか楽譜がありませんし」
「リリは現れた?」
「一度だけ。参加するって金澤先生に言いに行った日の夕方に」

 参加してくれて嬉しい、音楽を楽しんでほしいなどと言いながら、どこかに消えていったという。火原は、やや不満げな顔の日野を見下ろし、肩をすくめた。

「あっさりしてるね。調子よすぎでしょ」
「とりあえずこの曲を練習してみて、第一セレクションに臨んでみます。もし何か問題があったら、リリが出てきてくれるでしょうし」

 あまり信憑性のないことを言いつつ、日野は気を取り直すように息をついて、ヴァイオリンを構えた。火原はピアノの椅子に座り、真面目な顔つきで彼女を見た。

「弾いて」

 日野は無言で弓を動かし始めた。その腕さばきはどう見ても素人のものではなく、火原が普段音楽科やオーケストラ部で見ているヴァイオリン専攻の生徒の仕草と何ら変わりない。誰が見たとしても素人だとは思わないだろう。リリもきっとそれを狙ってヴァイオリンに魔法とやらをかけているに違いない。
 魔法によって、美しいアヴェ・マリアの旋律が流れていく。火原は、彼女の――正確には、彼女のヴァイオリンの――音に耳を澄ませた。狂いもなく洗練されていて、うっとりと目を閉じてしまうような音色だった。コンクール参加者も強敵ぞろいだが、下手すると彼らと競り合えるくらいの実力に聴こえてしまうかもしれない。それはそれで他の音楽科の生徒たちが文句を言いに出しゃばらなくて済みそうなので、よいのだろうが。
 少しして、日野は演奏をやめた。弓とヴァイオリンを下げ、静かにピアノの上に置くと、疲れたように片手で軽く顔をこすった。

「魔法って疲れるの?」

 心配になり火原が問うと、日野は沈黙したあと「分からない……」と気だるそうに答えた。

「単に慣れない作業をしているからかもしれません」
「まあ、そうだよね。いきなり熟練者の仕事をしてるようなもんだからね」

 ピアノの上の譜面を手に取り、眺める。セレクション用に短く編曲してあることが、妖精唯一の親切かもしれない。