火原は土浦の背中が見えなくなった頃、未だ感情のない顔で佇んでいる日野に目をやった。日野は廊下に貼ってある掲示物をぼんやりと眺めている。

「ねえ、香穂ちゃん。コンクールはどうするつもり?」

 土浦のことはさておいて尋ねる。日野はゆっくりと視線を火原に動かし、告げた。

「参加します」

 回答は、火原にとって意外なものだった。えっ……と思わず声を上げてしまうと、日野は小さな溜息をついて、廊下の遠くの方を眺めた。

「本当は乗り気じゃありません。乗り気じゃありませんけど、火原先輩が私にいろいろ言ってくれたし、この前の練習のお礼もしなきゃいけないと思って。お礼ってなんだろう考えてたら、参加することのような気がして」
「で、でも、本当はやりたくないんでしょ? おれ、無理矢理やらせたくて誘ったわけじゃないよ」
「火原先輩の」

 日野は、強い光の宿る瞳を火原に向け、

「トランペットの音、まだ聴いてないから」

 そう、迷いなく言い切った。

「……」
「それに、火原先輩が、私を守ってくれると言ったから……」

 周りに聞こえないように声を小さくして言い、日野は睫毛を伏せた。
 火原は日野の横顔を見つめて唖然としていた。そもそも彼女が参加を承諾するとは、正直なところ思っていなかったのだ。きっと辞退しますと宣言して、魔法のヴァイオリンをリリに返してしまうのだろうと考えていた。だから、今回、日野が参加の意思を示したことについて、火原は喜びよりも不安を覚えた。彼女の心境を変化させたのは確かに自分だが、このようなやり方を経て音楽を楽しむことができるだろうか。もしかしたら一緒にいたいからという自分本位な考え方で彼女を巻き込んだのではないかという罪悪感すらあるのだ。
 本当に参加するのかと再三訊きたかったが、もしそうしてしまったら、日野はこれまでの火原の態度を疑問に思うだろう。それに、何より、日野は火原の「守る」という言葉を信じてくれたのだ。

「香穂ちゃん」

 火原もまた、真剣に日野を見据えた。不安は残るが、それ以上に、この気難しそうな少女の心を、あの雨の日に煙草を吸っていた不思議な少女の心をとらえることができたという喜びの方が勝っていた。

「ありがとう。おれのこと信じてくれて。おれは、きみの味方だよ。頼ってほしいし、相談もしてほしい。何かあったら、おれがきみを守る。トランペットの音も聴かせてあげる。だから、きみのヴァイオリンの音、おれに聴かせて」

 日野はゆるゆると目を上げ、火原の視線を受け止めた。